第三章 表現的生としての人間

Bymarkskoleでは知的障害をもった子どもも普通の
クラスにいて、絵を指さしながら、教師と勉強していた。
表現という分野なら彼らもひけはとらない。

 1、子どもと表現 

 パスカルは「人間は考える葦である」という名文句を残した。デカルトは「われ思うゆえにわれ在り」といった。こうした台詞は世間的には、人間は知性をもち、考えるところに特徴があるんだということで理解されている。学校教育で知識を教え込むとき、教員はこうした人間を知性的な存在として捉える見方の通俗的な図式をもちだすものだから、いつのまにかそれがもっともらしい常識となってしまっている。でもだまされてはいけない。あまりにこうした図式をうのみにすると、教育産業があの手この手とてぐすねひいて待っている早期教育のワナに陥ってしまうことだってある。

 人間は何よりも表現的な存在なのだ。それは生まれ落ちたときから始まっている。赤ん坊がこの世に生まれ、その手を差し出すとき、あるいは開いたり、握ったりするとき、そこにもその子の表現が生きている。この世に生きてある喜びの表現だ。

 何だ、それなら動物の子どもだって同じじゃないかという人もいるかもしれない。しかし、人間はその行動を意味ある表現として受け取る人の中で生まれ落ち、そうした表現的世界で育つという点が違うのだ。赤ちゃんの行動は意味ある表現として受け止められ、周りの人はそれにふさわしい対応をして、それを赤ちゃんに返していくのが人間である。

 ある優れた産婆さんは、「赤ちゃんはみな喜んで生まれてくるんですよ」と語る。おそらく、取り上げたとき顔の筋肉の緊張がゆるんで笑ったように見えるのだろう。それを「喜び」と受け取るところから、表現的世界は始まっている。ましてやお母さんなら、わがこの手の動き一つに、その子の嬉しさを見てとることができるだろう。ハイハイからよちよち歩きへ移り、お母さんの姿を認めて、勢いよくその胸に飛び込んでいくとき、お母さん方はその子の生の表現を受けとめる喜びをよくご存じだろう。

 子どもや赤ちゃんは「天然の芸術家」だ。彼らの身体の表現・言葉の一つ一つが生の喜びに満ちあふれた芸術なのだ。それらはたんなる生理的な行動以上のものだ。子どものさりげない言葉、行動の一つ一つに、ハッと新鮮な日常の見方を感じ、感心した経験をお持ちのお母さんも多いことだろう。彼らのユニークな言葉一つ一つをノートに書きためてみるとよい。一篇の詩集が編めるほどだ。それは小学校へ入り、教師にいやいや詩を作らされ、どこかで見たフレーズばかりがならぶ学級文集の詩とは雲泥の差だ。

 あるいは好きな食べ物が出てくると、一口食べては走り回り、また一さじすくっては走ったり跳んだりする子どもがいる。嬉しさを体で表現せずにはおれないのだ。いわば舞踏の根源ともいうべきものだろう。

 子どもや赤ちゃんにとって、世界が彼らに働きかけることも芸術的な経験となる。たとえば、有名な中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)を読んでいただきたい。そこには、子どもの目に映るものがことごとく生の不可思議な神秘であり、美でもあることが描かれている。育てる大人と子どもの生活そのものが一篇の散文詩であることが語られている。これほど当たり前のことを描きながら、これほど美しさに満ちた作品があるだろうか。これを読めば、私たちは子どもとして生まれ落ちてくること自体が、芸術的な表現的世界に生きることであり、至上の幸福でもあることが実感できるだろう。

 子どもの感性や表現はいわば彼らの世界の切り取り方である。それらは豊穣で多様だ。科学的世界観と日常性の功利主義と伝統的な宗教的観念でしか世界を見ることができない大人のもつ画一性がない。子どもやあるいは精神障害者はこうした信仰となった科学的世界観と日常性とを超えた多様で斬新な世界の見方と表現ができる。それはすぐれた芸術家のなす仕事と全く同じ質をもつのだ。人間のもつ世界の解釈能力、想像力が与えうる世界と存在の可能性と多様性を切り開くことができる。

 私たち大人は個物を見ても、すぐそれを普遍的なものさしにあてはめてしまう。科学であれ金銭の価値観であれ、個物の存在自体の驚異に気づくことがない。庭のアサガオについた朝露の滴は、ただの水というありふれた物質の一部にすぎないが、子どもにとってはその輝きはダイヤモンド以上のまばゆさなのだ。台所で母親が取り出しおいた卵を見て、その曲線の美しさに感心できるのは子どもの感性だ。ところが母親にとってはただの材料にすぎない。この朝露の水滴や卵はありふれてはいるが、おそらく二度と同じものはあらわれえないかけがえのない個物ではあるだろう。

 それは個でありながらそれ自体全体なのだ。子どもはつねに個物に即している。その個物を一般的な尺度から規定することがない。祭りの露店のおもちゃや金魚、風船や綿飴に心奪われ、それらを追っていく内に迷子になる子どもたち。遊園地の楽しい乗り物やぬいぐるみに気を惹かれて、ついていく内にはぐれてしまう子どもたち。これらみな個物が自分のいる世界すべてとなるからだ。

 大人から見れば、自分の位置が客観視できず迷子になるのは困りものだ。しかし、それらはすべて決して子どもの短所というわけではない。個物を一般化せず、個物としてとらえ、個物が全体でもあるという認識は芸術的認識と同じものなのだ。それは大人たちに、普遍的な尺度ではかることの陥穽、えてして個物の一回性や個性というもののかけがえのなさを見失いがちなことを知らしめ、世界は普遍的な尺度でははかりきれないほどの豊穣な多様性に満ちていることを教えてくれる。

 世界の認識だけではない。子どもはすでにして生の価値を表現する。人は何のために生まれてくるのか。誰しも一度は考えたことがあるはずだ。もし人間のこの世に生まれたことの意味の一つが、人に無償の喜びを与えることだとするならば、すでに多くの人は、子どもの時代にその使命を十分果たしているのではなかろうか。たとえば、多くの犠牲者を出した災害のときに、赤ちゃんや幼児の声が聞こえると悲しみから立ち直り、がんばってみようという気になるといわれる。阪神・淡路大震災のときにも、子どもたちの声が人々を暗い気持ちから救ってくれたとも聞いている。仕事のつらさや娑婆苦で生きることがいやになったときに、わが子の笑顔に励まされることは、親なら誰しもが経験することだ。

 しかし一方では、発展途上国の貧困や飢餓という社会問題の中で、犠牲になる子どもたちがいる。やせ衰えた子どもたちの姿、彼らの沈んだ眼差しは人間の尊厳とは何かを私たちに問いかける。ドイツに暮らしたとき、アフガニスタンからの戦争孤児や難民の子どもたちと知り合ったことがある。キリスト教団体が、両親が亡くなった孤児、戦災を避けるために両親からあずかった子どもをドイツに移送する。空港に到着したばかりの子どもたちは不安におびえ、暗く沈んだ眼差しをしていた。表情はこわばり、もはや笑うことなどできないようだった。そんな彼らの姿をみれば、大人たちがいかに愚かなことをしている世の中であるか、誰しも痛感しないものはいないだろう。この子たちに笑顔を取り戻すためには、自分はどんな犠牲もいとわないと決意させるだけの力をもっていた。子どもたちの痛ましい表現ですら、千百の政治家の雄弁に勝るのだ。

 別に子どもだけが芸術家であるわけでもない。大人だって芸術家なのだ。すでに第二章で説明したように、恋人同士がよりそい、お互いを見つめあい、静かに抱擁しあうとき、詩的ともいうべき充実した空間がそこには形成される。それだけですらすぐれた芸術的映画となりうる。そのように恋愛は芸術の対象にもなるが、恋愛そのものがだれもが参加できる人生の芸術にもなりうるものだ。恋する人のために、言葉を彫琢し、衣装に気遣い、カードや編物など贈り物に手をかけた経験は誰しもあるだろう。あるいは恋人を招くとき、部屋に花やキャンドルを飾り、ケーキを焼いたり料理に工夫したりする。このときの表現ほど楽しく幸福なひとときはあるまい。

 人間が表現するものであるというとき、すべからく、その表現は芸術的なものとなっている。動物にはここがまねのできないところなのだ。

(清水 満『共感する心、表現する身体』新評論より)

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