第四章 今を生きることの意味 ― 美的経験ということ

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桜の咲く山道

 2、美的経験とは何か

 たえざる支配と膨張

 現代社会では人は未来に目的を立て、現在をそのために使うことによって人生を過ごしていく。それは現代社会がたえざる膨張と支配に貫かれており、人はそのサイクルに沿って生きていかねばならないからだ。

 資本の回転を早め、設備利用率を高めてできるだけたくさんの利潤を上げ、その利益をまた積み立てて、設備投資をして拡大再生産をくり返していく。そのことは企業会計をみればわかることだ。投資の回収や減価償却費など、すべて未来の数値から現在の活動が規定され、しかもつねに右上がりでないといけない。人は自然のリズムや自分のリズムで生きることができず、資本の回転の時間、完成や納期など商品流通の時間に踊らされる。

 経済的膨張のみならず、権力的な支配への意志も現代社会をおおう基礎的な傾向だ。軍隊から始まった近代的組織原理は、会社・学校・病院・行政・組合など、現代社会のほとんどの集団を支配している。前近代社会のように人柄、血統、才能など個人的な才覚によって人を惹きつけ支配するのではなく、組織の中での地位、組織自体のもつ権力構造の力にたよって、人を支配できるのだ。

 学校や大企業、あるいは警察や自衛隊、消防という組織をみれば一目瞭然だが、試験によって自分の地位を上げ、地位が上がればより大きな支配力を手にすることになる。現代の組織の精緻な構造はその人物が少々人格的に物足りなくとも、それを補ってあまりある力をもつ。とにかく昇進試験でよい成績をあげさえすれば、自分の権力がその分だけ増すことになるわけだ。他人を自己の目的の手段として支配できるという権力への意志は、人間のもつ本源的な傾向でもある。年端もいかない子どもが、受験勉強をやすやすと受け入れるのも、親たちを含めて学校や社会に蔓延するこうした雰囲気を何となく感じとり、自己の力が拡大されたことを知っているからといえるだろう。

 現代社会で生きるということは、このような絶えざる膨張・支配・上昇志向の中で生きるということにほかならない。それは同時に、人がつねに未来からの目的に規定されて現在の生をおくらずにいられないということでもある。

 

 美的な経験の力

 社会や組織そのものが合理化されていくと、目的・手段関係の技術的な処理がしやすくなる。そうすると目的合理性にもとづく計画や将来設計が一般的には可能になるのだ。しかし、個人のレベルでは不確定要素が大きく、理屈や計画通りにはなかなか行かない。むしろ、生きていることは不条理なことが多く、立ち止って考えると不安に駆られ、心の中をすきま風が吹き抜けるような空しさに襲われる。立ち止らないために、つねに目的を立て、それに向かって現在をまぎらわせる。パスカルはこれを「気ばらし」とよんだが、多かれ少なかれ人はそのような生き方をしなければならない。

 幸い目前に立てられる目的をこなしていけば、毎日を生きるモチベーションには事欠かかない。会社であれ、商店であれ、官庁、学校、組合、諸団体であれ、社会に何らかの影響を与える組織にいて、その組織の意志決定に関与する割合が大きくなるればなるほど、人はあたかも自分の体と組織が合体していくような気がする。自分の行動が一定の範囲の人々に影響を与え、その分自己が大きな存在となったような気がして、それなりの充実感を得るものだ。

 目的に追われる忙しさが充実と思えるので、とりあえずはそれでよい。そのうち同じことの繰り返しになっていく。取引業者の平身低頭も個人に対して向けられたものではなく、組織に対してであることを知る。よかれと思ってやっていることがちっとも理解されず誤解されたりすることもある。そのうちに、生きた自己と他者や組織の目的から規定される役割だけの存在としての自己との間に、すきまができてくる。そんなときは飲み屋で親しい友人と憂さ晴らしをしながらこれが人生さとか、世の中こんなものだというふうに無理して割り切ってみる。あるいは、誠実に自己犠牲的に生きた人々の徳を顕彰した人生論の本を読んで、自分個人の運命を意味づけて、納得したりする。日々の不安や隙間は占いや運勢で適当に解釈して紛らわせる。いろいろな苦労はみな自分へ与えられた試練なのだと思い、何事にも感謝の気持ちが足りないからだと自己反省してみたりする。

 一つの目的が達成された後は、また新たな目的が立てられて、そこから現在を意味づけしていく。人は組織や社会の中で生きるかぎり目的を与えられ、それに添って生きていかざるをえない。もちろん、目的を立てることそのものが悪いわけではない。組織や他者から規定された目的ではなく、自分で主体的な目的を立てて、その実現をめざして主体的に生きるというあり方は当面の真理を含んではいる。しかし、受動的であれ、主体的であれ、未来の目的追求のために、現在のすべてのことがそのための手段となり、充実した現在というものが失われつつあることを私は問題としたいのだ。

 目的をたてながら、現在を犠牲にすることなく、今を大事にすることはできる。よくいわれる「プロセスを大事にする」とか、茶の道でいう「一期一会」の精神がそうだろう。でも実は「美的な経験」をすることが、人をして、未来・現在・過去という時間の制約から解放してくれるものなのだ。

 「美的経験」はすぐれた芸術を前にしたときに現れるのはもちろんだ。だが、自然の風景に心洗われたり、子どもの遊ぶ姿や家族の団らんなど、日常的にも経験できるものでもある。

 たとえば、土を踏み、土をいじるときの不思議な落ちつき。ハンマーで釘を打つときのあの心地よい手応え。青みを取り戻した野山を散策するときの解放感。春の浜辺で、まだ肌寒い潮風に吹かれるときの切ないうれしさ。満開の桜にみるたおやかな生命力の喜び。静かな夏の午後、照りつける陽射しと木陰とのコントラストの鮮明さ。縁側で涼風に吹かれてゆりかごに眠る赤ちゃん。秋空の下、幼稚園の運動会でコースをまちがえて走る園児のあどけなさ。少しやつれ気味で髪が乱れつつも、台所仕事をしながらほほえむ妻。まだ暗い寒空の下、コートの襟を立てて出勤する夫の後ろ姿。こうした瞬間は誰しも身に覚えがあることだろう。

 こうしたことは瞬時に過ぎ去り、人はまた次の日常や目的に追われてしまうので、大して意味がないし、どうでもよいものと思ってしまう。人生の価値は目に見えて永続する物件(財産、土地、作品、組織など)や名誉、地位、業績などに置きがちだ。その方が他人に影響を与え、自分の意志によってその人たちを動かすことが容易になるからだ。しかし、それでは支配欲は満足できても、目的を追い、現在を犠牲にする人生の網の目から自由にはなれないだろう。

 美的な経験はたしかに永続しないし、はかないものだ。しかし同時に私たちの「存在の真理」に触れているものでもある。「存在の真理」などというとむずかしくなるが、たとえば、あなたが自分の生き方の根拠や影響を受けたものを思い出すと、それらのものが物質的なものではなく、精神的なものだということがわかるだろう。

 人は、自分にとって大事な人の存在、尊敬する他者の言葉、ちょっとした出会いや、あるいは子どもの頃の自然の中での経験や学校での印象的な体験、読んだ本や見たテレビ。映画のなどの言葉や思想など、自分が共感をもって受けとめたこと、おのれの見方を変えてくれた経験や出会いなどを、自分の生き方の指針としているはずだ。

 預金の額とか、土地や株、あるいは科学的な真理が自分のアイデンティティーで、それで人生の指針を決めているという人は少ないと思う。松下電器が雑誌『PHP』の発行の後押しをし、事業や商売をする人に新興宗教の信者が多いのを見てもわかるように、そういう商売は不確定要素が多く、運に左右される。ときには人道に反する修羅場も避けられない。自己の精神を安定させるためには、かえって人生の指針を宗教的なものに求めざるをえないのだ。

 こうした事実が示していることは、人は物質的なもので生きているのではなく、意味の世界で生きているのだということだ。美的な経験や人との出会いなどが、自分の心の奥底に堆積して、潜在的に世界の底にあった多様な意味のつながりの中に折り込められて、そこに新しい世界の一面が生き生きと誕生し、自己の生きる場へと変貌していくのだ。 

 物質的なもの、お金や食料はたしかに私たちの身体が生存するためには必要なものである。しかし私たちが人間的に生きるためには精神的なものが欠かせない。美的な経験は中でも人間のみがもつことができるものだ。その意味では人間の人間たるゆえんの経験ということができるかもしれない。目的合理性にもとづく行動や経験は、おそらく高等動物にもあるだろうが、美的経験はただ人間にのみ恵まれている。そのことの意義を深く考えてみる価値はあるだろう。

 美的な経験とならんで、精神的な価値の代表が道徳的・倫理的な価値観だ。これは美的経験ほど人を解放してはくれない。道徳的なものは「原理」や「戒律」を立てる。その「原理」から個々の事例を判断し、厳密に適用すればするほど、厳格なリゴリスムになり、人間の行動を窮屈なものとしてしまう。それは宗教的な修行者が道徳的に立派な人物になることを考えてみたらわかると思う。

 法律や自然科学と同じで、普遍的な「原理」や「原則」があるものはどうしてもその個々の場合の適用に苦しまざるをえないという宿命がある。倫理的な価値観が対立するときには、たいていの場合、原理主義、原則主義者の方が勝つ。そうするとそのますます教条的なものになっていき、多大の摩擦を引き起こす。宗教的なセクトや政治党派の争い、さまざまな市民運動の場での対立の経験がそのことを物語っている。倫理は原理であり、原理は誰もが反論できないものであるがゆえに、人間を拘束する。だからこそ規範としての強制力をもつのだ。

 美的な経験は、しかし、人をしばることをしない。それはしばるどころか、あまりにもはかなく消え去ってしまう。次には娑婆苦で心が占められて、思わず「時よ止まれ!おまえは美しい」と叫びたくもなるほどだ。しかし、忘れがたい経験として心の奥深くに解放の感じ・イメージを残してくれる。それは、おそらくそれまで固定的に見ていた世界がいったん崩れ、新しい意味のつながりが開けて、より広いものへと解放されることからくる伸びやかさなのだろうか。

 秋が くると いうのか
 なにものとも しれぬけれど
 すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
 わたしのこころが
 それよりも もっとひろいもののなかへ くずれてゆくのか

(八木重吉 「秋」『秋の瞳』より)

 素朴な叙情新人として知られる八木重吉。彼のこの詩は、自然と生活と信仰とが融けあって、新しい意味の世界がきりひらかれる様をよく示している。これは私のいうところの美的な経験の一例になるものだ。現実の自然の変化と彼の心象の移り行きが、同時にこうした意味創造、世界創造の経験だからこそ言葉に表現せざるをえない力をもつのだ。

(清水 満『共感する心、表現する身体』新評論より)

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