デンマークのフリースコーレとエフタースコーレ

清水 満

授業の一コマ

1、民衆運動がつくった学校

 「フリースコーレは学校や教育という形で始まったのではない。それは19世紀の中頃からデンマーク社会を変えた民衆の運動とともに始まった」。

 デンマークのフリースコーレ協会が発行している紹介のパンフレット『デンマークのフリースコーレ』(1995年)の冒頭の言葉だ。フリースコーレが農民たちの解放の運動とともに発展した経緯は、すでにこの本の第一部をごらんになった人には周知のことだろう。このことはどんなに強調してもしすぎることはない。この事実が意味することは、教育という営みが、社会から切り離された学校という空間で純粋培養のように子どもたちを教育することではなく、本質的に大人たちの社会のあり方と関係づけられているということだ。

 わが国のように社会的な要求から教育内容が決定されているような所では、この管理教育を嫌って自由な教育を行うフリースクールへ子どもをやる親も多い。しかし彼らに共通する悩みは、子どもたちがそうした自由な学校を出たとしても、その後をせちがらい世の中で生きて行かねばならないということなのだ。結局は受験勉強で勝ち抜いた子どもが有利になり、表現や創造性を豊かにした子どもたちは何かと不利に働くように世の中の仕組みができている。そういうものを気にせずはねかえして生きる力をもつ子どももいるが、それでも本来は使わなくてもいいことにエネルギーを浪費してしまう。

 よいといわれる学校へ子どもを送れば、それですべてが解決するわけではない。いくら自由といわれようが、良くも悪しくも閉鎖的な学校に子どもを送り込み、良い子になったにせよ、学校が大人の価値観に合うような子どもをつくり出す工場みたいなものであることには変わりない。それよりも学校教育を一つの市民運動と考えて社会とリンクさせ、大人と子どもがいっしょに何かをつくりだし、自分たちも含めた社会を変えていく方向に働けば面白いのではないか。つまり、自由な学校でのびのびと育った若者たちが、へんに世の中にゴマをすることなく、彼らの流儀で生きていける生産と消費、そして暮らしの場所をつくればよいのだ。

 見てきたようにデンマークのフォルケホイスコーレ運動は、こうしたもう一つの社会形成を心がけ、ついにはそれが公認された類例である。現在でも彼らは既成の公教育に対し「オルタナティヴな教育」と称される。フリースコーレから始まって、エフタースコーレへと続き、そしてホイスコーレへと学ぶ中で、自由や表現・創造、生きた言葉での語り合い、互いに尊重しあうことの大事さを学び知り、けっして他人を出し抜いて自分ばかりが得をするような生き方を選ばない。

 ときにはこうしたあり方が時代錯誤と避難されることもある。日本やNIES諸国が国際的な批判を浴びながらも、熾烈な受験勉強で経済成長を遂げている実状をみて、デンマークでもそうした詰め込み・競争主義の勉強がもっと必要ではないかという論者さえ出てきている。「子ども中心主義の教育」から「経済中心主義の教育」へ、と先進諸国では叫ばれ始めている。しかし、デンマークのオルタナティヴな教育はそうした荒波にもめげずに、多くの子どもや若者の支持を集めているのだ。

 他の先進諸国では、競争社会・産業社会の価値観に抵抗するこうした領域は「カウンター・カルチャー」と呼ばれ、アカデミックでない芸術や環境保護運動、あるいは新興宗教やオカルト的な文化を生み出す土台となってきた。それらは先進国共通であるが、しかし、デンマークではそうしたカウンター・カルチャーと並んで、グルントヴィとコルの独自の民衆的・農民的な伝統もまた「オルタナティヴな文化」形成に大きな役割を果たしてきた。モダンなオルタナティヴ文化と伝統的なオルタナティヴ文化が錯綜しているのだ。この二つが結びついて近年大きな成果を挙げたものが、デンマークにおける風車発電の普及、それを通しての各種環境企業、市民団体、研 究所の育成だった。

 教育の分野に話を限れば、伝統的なフリースコーレ、エフタースコーレ、ホイスコーレの大きな運動と並んで、68年世代のつくった革新的な学校やそれ以前からのシュタイナー学校の運動が個別に展開され、両者のオルタナティヴな教育が公教育に影響を与えた。とくにフリースコーレなどの運動が公教育にとりいれられて、両者はほとんど差異がなくなっているのである。教育という領域が、なるべく市場原理から離れ、人間のもつもっとも大事な価値観、友愛とか共生とか、芸術・文化を育むところであるならば、そうした面を強調するオルタナティヴな教育の方がより説得力があるのは事実である。

 デンマーク社会に深く浸透し、まるで当然のことになったために、国際的にも注目を浴びなかったデンマークの教育。イギリスのような全体としては統合や管理が進むところで、サマーヒルのような個別な学校がユニークなことをすれば、それは目立つし、教育ジャーナリズムがとりあげる。しかし、教育全体が自由なデンマークでは、個別の学校がユニークなことをやっても目新しくはない。だからこそこれまで日本にも知られなかったのである。

 小さな国の大きな成果。すでにフォルケホイスコーレと風車発電はこれまでに十分に紹介したと思うので、以下にはフリースコーレとエフタースコーレの動きをかいつまんで紹介することにしよう。

 

2、デンマークの教育とフリースコーレ

 デンマークの義務教育はいろいろとおもしろい面がある。箇条書きにすると以下のようになる。

2-1、私立学校の種類

 デンマークの教育を独自なものにしているのが、私立学校である。国民の20パーセント以上が何らかの私立学校に通う。そのうち最大多数がフォルケホイスコーレ運動の中から生まれ、グルントヴィとコルの教育方針にもとづく『フリースコーレ』である。現在193校13929人の子どもが通っている(1993年)。

 次に多いのがエリート教育を施す『レアル・スコーレ』だ。学校数は39だが、一校あたりの人数が数百人規模であるために、生徒の総数ではフリースコーレよりも多くなっている。教科教育中心で、ギムナジウムや大学につながるアカデミックな教育を特色とする。

他に68年世代によってつくられた『リレ・スコーレ』。これは自由・反権威・革新を特徴とする。それに、カトリック系の小中学校、デンマーク国籍のドイツ人のための小中学校などが、私立学校の範疇に入る。イスラム系の小中学校やシュタイナー学校はフリースコーレのグループとともに活動している。

 フリースコーレ、レアル・スコーレ、リレ・スコーレの三者はかつて同じ組織をつくり、行政への申請や要求などをいっしょに行っていたが、近年フリースコーレが意見の違いからそこを離れ、独自の組織をつくった。内容的には近いはずのフリースコーレとリレ・スコーレが対立し、水と油であるはずのリレ・スコーレとレアル・スコーレが協力しあうという一見矛盾した関係になっている。

 

2-2、フリースコーレの特徴

 フリースコーレと公立学校の違いは、まずクラスの生徒数の少なさである。フリースコーレでは一クラス平均11名が学ぶ。少人数で教員と生徒のコミュニケーションが倍であるために、70年代後半以降は、グルントヴィやコルの名前を知らず、とくにフォルケホイスコーレ運動に関係のない親たちでも、子どもを尊重し、教育環境がよいという理由で子どもを通わせるようになった。

 授業科目やカリキュラムは自由度が高く、各学校で異なるが、共通点としては創造的な科目(音楽、美術、陶芸、木工・金工、染め物、ダンス、身体表現、演劇、デンマーク体操など)を重視し、どこの学枝でもワークショップ活動にだいぶ時間を割いている。その分、デンマーク語、数学、英語などの学科の時間数が少なくなるが、中学や高校へ行ってからの成績には差がないそうである。

 グルントヴィとコルの『生きた言葉』の思想を受け継いで、必ず『お話の特間』が設けられている。本の朗読をすることもあれば、教員が自分の体験談を語ったりもする。生徒が家族でどこか外国へ旅行したなら、その報告をさせることもある。

 以下の話は公立学校も同様であるが、教科書は各教員が適当に決める。学校が所有し、生徒に貸与するという形が多い。リサイクルになっている。授業時間は各学校によって違う。60分のところもあれば、90分もあるし、また30分というところもある。

 教員は初めの10分くらい説明して、あとはグループワークをさせてアドバイスをするとか、ドリルをさせて、その間一人一人を回って個人指導をする形が多い。説明しっぱなしという授業はほとんどない。また理科は実験中心で、数学や英語でも模型や人形をつくらせるという形で、創造的な手仕事をさせ、集中度や興味を高めている。

 教員は自分の担当科目の一定の研修をすることができる。大学やフォルケホイスコーレ、あるいは『デンマーク教員ホイスコーレ(教員のための研修機関)』に通うことができる。校長は申請があればその費用と時間を保証しなければならない。

 一人の教員は3科目くらいを担当する。自分の担任のクラスに一番多く行き、しかも時間数の一番多いデンマーク語を必ず担当しなければならない。もちろんほかのクラスにも教えに行く。日本の小学校ほど一人の教員がいろいろ教えるということばないが、それでも一通りの科目を教える能力が要求される。

 教員は原則として自分の担当クラスを持ち上がる。だから教員と生徒はふつう7年間、中学課程をもつところは9年間ともに過ごす。十数人程度のクラスで7年から9年あるいは10年つきあうのだから、その関係はきわめて親密で家族的である。もちろんすべてよく運ぶわけではない。教員と生徒との相性が悪い場合もある。たいていの場合一学年一クラスしかないので、担任とおりあいがわるい生徒は別の学校に転校できる。公立学校からフリースコーレヘ、またはその逆というパターンが多い。

 公立学校では日本でいう中学一年生、デンマークでは第七学年まで試験をしてはいけないことになっている。フリースコーレでは原則として最後まで試験はない。最近は試験をする学校も増えてきたし、レアル・スコーレなみに詰め込み教育をする学校も出てきたと聞くが、各学校にイニシャティヴがあり、枠組みを押しつけないフリースコーレ運動の自由な面の現れでもある。とはいえ試験をしない学校が多数であり、それはグルントヴィとコルの精神からして当然である。

 ただフリースコーレでも卒業時に義務教育の課程を終えたことを証明する国家試験を行う。これはすべての学校の義務であり、学校へ行かず自分で勉強した子どももそれを受ける。各地方の教育担当官の認可のもとに、全国統一の試験をする。たとえばデンマーク語の試験では、文章を読ませ、設問に論文形式で答えるもので、3時間という十分な長さがある。普通の力があれば、一時間もかからない程度の問題である。

 

2-3、国家ではなく親と教員がつくる教育

 フリースコーレを特色づけている最たるものは、行政ではなく、親が子どもの教育をする主体であるという考えだ。もともとコルにより一四二年前に最初のフリースコーレがリュスリングにつくられたが、そのときのモットーが「国家から子どもをとりもどそう」というものであった。政府が干渉することなく、自分たちで教育の自治・自主管理を行うという姿勢から「フリースコーレ(自由学校)」と名づけられたのである。

 この伝統は最重要なものとして今も引きつがれている。行政の補助が出る今でも、月に一度は親が集まり、校舎の建設や改築・遊具づくりなどに汗を流している。予算がむずかしい学校では、その施設のほとんどを親たちの無償労働で建設しているくらいである。運営は親や地域の代表で構成する理事会がうけもつ。教員は校長が出るのみである。

 予算などは全部の親が出席する総会「スクール・サークル」で決める。この総会が最高の決定機関で理事はこの中から選ばれる。平常の授業や学校運営は月一回から二回の親と教員の連絡会議で決定する。各学年の父母の代表と教員が夜熱心に話し合う姿を私も見たことがある。もちろん実質的な運営は教員の裁量が大きいといえるが、親はいくらでも関与することができるようになっている。

 日本にもたしかにPTAがあり、総会がある。しかし、デンマークのそれとはかなり質が違っている。PTAのような、教員とくに校長のすることを形式的に追認する機関ではなく、親たちが主体的に学校を運営するのがデンマークのスクール・サークルであり、理事会なのだ。わが国のPTAの場合、会長を初めとした役員は名士が多いが、デンマークではそうしたことはあまり問われない。私の見た学校の一つ、ランスグラウ・フリースコーレでは失業者の父親が役員の一人だった。彼は昼間は放課後の「児童の家(わが国でいう学童保育にあたる施設)」でアルバイトの教員をしていたのである。landsgrav

 いわゆる日本でいう過疎はデンマークにはない。それでも財政合理化の面から、小さな学校が閉校になり、大きな学校に統合されることがある。こうした場合その学校の教員と親たちは、まずフリースコーレをつくることを考え、理事会を組織し、スタッフをそろえて、申請書類をつくる。建物はそれまでの公立学校のものがあるから、資金はあまりいらない。スタッフは大きな学校に行きたがる人をのぞけば、それまでの教員がいる。財政的には25パーセントのマイナスで、また施設の拡充・整備も自分たちでやらねばならず、楽ではないが、心意気がそれを補う。

 私もそうした学校の一つを訪れたことがある。校長が忙しく動きまわり、教員に指示を出していた。子どもたちは統合先へ行く権利ももっており、近くをスクールバスが通るのだが、統合先へ行った子どもはほとんどいないという。地理的にそちらの方が近いという子どもが行っただけだそうだ。子どもたちはこれまでの学校が残って喜び、親たちも自分たちの出た学校が残って喜んだ。

 こういうところを見ると、フリースコーレには、公立学校にはない教育の原点、熟気みたいなものが残っている。

 

3、新時代の教育、エフタースコーレ

3-1、爆発的に増えるエフタースコーレ

 今日のデンマークでもっとも注目を集め、また新しい教育の可能性を示しているのが、エフタースコーレである。とはいえエフタースコーレも144年前にコルが創設しており、古くて新しい学校なのである。

 エフタースコーレは、義務教育段磨の第8字年と第9学年(日本の中学2年と3年)、そしてデンマーク独自の制度である第10学年の生徒が通う全寮制の中学である。一番多いのは第9学年と第10学年を置いて、いずれも一年間のみというパターンの学校である。つまり義務教育を9年で終える人も10年かける人も、いずれも最後の学年の一年間をエフタースコーレに行くわけだ。

 15才から16才という年齢は親や大人たちとの関係がむずかしくなる年齢である。デンマークは18才が成人なので、その年齢ともなれば精神的にかなり落ち着いているが、15、16才は反抗や独立心は旺盛でも、判断力がまだ追いついていないという中途半端な年頃だ。エフタースコーレはそうした子どもたちを受け入れる学校だ。こういう不安定な年頃に、それまでずっと一緒にいた家族と離れて、同世代の若者と寝食をともにすることの効果は大きい。自分のそれまでのあり方と親との関係を相対化し、より自立し、成熟した若者となって帰ってくるそうである。

 デンマークでも産業社会が高度化し、若い世代に対する社会的な管理・抑圧が増している。ドラッグやアルコール中毒など問題は多いのだが、今のところエフタースコーレはそれに対する唯一の有効な対抗策として評価が高まってきている。つまりエフタースコーレに行くことで、子ども自身が変わり、親もまたつられて変わってよりよい人間関係が形成される。何よりも若者自身がモチベーションを発見する場としての実績が口コミで広まったのである。ここ10年のエフタースコーレの生徒数は爆発的に増え、多くの教育学者やマスコミの注目を一心に浴びており、現在デンマークではもっとも成功した学校群、新時代を切り開く教育として、鳴り物入りで論議されている。

 エフタースコーレ自体としては、昔から同じような教育をしてきたにすぎない。十数年ほど前までは、公立学校で問題を起こした生徒、たとえば教員を殴ったとか、素行不良で退学させられたとか(デンマークでは私立学校が存在するためにそれが受け皿になりうる)、成績が悪くエフタースコーレヘいくことを進められたとか、そうした生徒がいく二流の学校という社会評価があった。実際そういう生徒を受け入れてもいた。それはエフタースコーレが試験をせず、成績評価も重視せず、「生のための学校」というグルントヴィ・コルの伝統に立っていたからであって、差別をしない学校のあり方が、逆に「オチコボレや不良の集まる学校」というイメージをかきたてていたのである。

 ところが社会のほうが変化して、結局高度産業社会にともなう若者の問題が深刻化し、現状ではどうしようもないということに気がついた。一方で、エフタースコーレにいった生徒や親たちの評判がよく、そのうちみながいくようになった。実際来てみるとすばらしいと気づいて、この学校が救世主として世間の注目を浴びたわけである。それはちょうどわが国で、現状の教育がいきづまり、全察制で自然教育をする学校や山村留学などが注目を浴びているのと似ている。

 エフタースコーレの方でも、増え続ける需要に対応し、グルントヴィとコルの伝統によらず、新しい教育を模索するオルタナティヴ派と呼ばれるものが増えてきて、大きな勢力となっている。こうした学校は個性的で、チャレンジ精神にとんだ新しい教育方法や内容をもっている。だからますます若者の支持を得るのだ。グルントヴィ・コル派とオルタナティヴ派は二大勢力としてエフタースコーレを引っ張るが、お互いに反目しあうことはない。協調して、相互に影響を与えあっており、エフタースコーレがますます伸びる原動力にもなっている。いわば古い革袋に新しい酒を盛っているわけだ。

 グルントヴィ・コルの伝統にもとづくフリースコーレと68年学生革命の伝統を引くラディカルなリレ・スコーレの方はうまく連携しておらず、若干反目しあっている面もある。エフタースコーレ協会においては、この協力関係があることが今日の成功の一因かも知れない。

 

3-2、エフタースコーレでの教育と生活

 デンマークのエフタースコーレは1994年規在、全国に226校存在する。生徒数は全部合わせて19200人である。一校平均85名の在籍数となる。教師はだいたい10名程度でそのうち2〜3人が非常勤である。また専任教員が2〜3名生徒といっしょに寮に住むことが多い。郊外の学校では敷地内に教員住宅があり、常時教員が5〜6名は生徒の回りにいる。フォルケホイスコーレと同様生徒と教師が一種の教育コミューンをつくっているわけだ。

 

 3-2-1、オルタナティヴ系と芸術系が人気の的

 学校の特色は個々の学校によって異なるが、エフタースコーレ協会では統計的に五つのグルーブに色分けしている。それによれば、1994年で(1)グルントヴィ・コル式が36パーセント、(2)教会系が21パーセント、(3)音楽・芸術系が12パーセント、(4)オルタナティヴ派が18パーセント、(5)養護学校系が13パーセントである。かつてはグルントヴィ・コル式が9割で、1970年以後は半数になり、現在では音楽・芸術系とオルタナティヴ派が急増しているのが特徴である。

 オルタナティヴ派に多いのが、環境教育を中心にするものだ。私たちが毎年のようにスタディ・ツアーで訪れているフラッケビャウ・エフタースコーレもそのひとつである。フラッケビャウでは校長を置かず、教員が平等に責任をもつ。食料は自給し、有機農業や畜産など自分たちで行ない、ゴミのリサイクルなどを徹底させている。

 音楽・芸術系も生徒に人気が高い。とはいえ専門の音楽学校・芸術学校化しているわけではない。たとえば、ユラン半島の西北部の都市ラナース近郊のメレロップ・エフタースコーレは、現在デンマークでは若者に一番人気があるポップス歌手のアルベルテが学んだ学校として有名だ。しかし、その一方でグルントヴィ・コルの伝統にも忠実で、あくまでバランスのとれた教育をこころがけている。音楽のコースが充実しているのは事実だが、彼らもまたデンマーク体操や工芸・美術のコースにも出人りでき、音楽ばかりをやっているわけではない。

 

 3-2-2、授業の形態

 授業としては十人程度のクラスでデンマーク語や数学、理科(物理、化学、生物)、語学(英語・ドイツ語は必修、フランス語が選択)などを午前中に行ない、午後は五人程度のワークショップでいろんなことをやるというパターンが多い。

 ワークショップの内容は千差万別だ。たとえばクランク・エフタースコーレでは馬術に力をいれ、ホウ・マリーン・エフタースコーレではヨットやボート、ウインド・サーフィンなどマリーン・スポーツを売り物にしている。教員は教科のほかにこうしたワークショップを指導せねばならず(町の専門家が来ることもあるし、大学生やフォルケホイスコーレの学生が実習がてらくることもある)、人間としての幅の広さが必要である。クランクで仲良くなった英語の外国人講師ポウルはワークショップではスケートと家具製作、インテリアデザイン、それにアーチェリーを教えていた。

 生徒は昼間は授業をを受け、午後はワークショップで楽しみ、それ以後の自由時間は各自で責任をもって仲間で学校の施設を使い、自分の好きなワークショップをするという生活である。午後三時以降は授業もなく、スポーツを体育館でしたり、音楽スタジオでバンド演奏の練習をしたり、互いの部星でおしゃべりしたり、校庭でローラースケートをするといった感じで過ごす。施設や備品の鍵を職員室にとりに来て、終われば後片づけをして返す。

 夜も同様の自由時間であるが、宿直教員との対談の時間や個人指導の時間などがある。必要に応じて生徒が教員を訪ねたりあるいは教員が各部屋を個別にまわって話を聞く。ドアをノックし「何か問題や悩みはないかい」と話しかけるのだ。夜十時以降は生徒は自分の部屋に戻らねばならない。掃除や就寝の用意ができているかどうか、教員がチェックする。異性が夜十時以降同じ部屋にいてはならないという校則をもつ学校が多いので、それも確認するためだ。

 

 3-2-3、いじめがなく、体罰がない学校

 十五、六才の男女の交際については基本的に個人の自由で、性交渉も頭から禁止しているわけではない。しかし学校内でのそれや同衾は認めないという方針なのである。親から未成年の子どもをあずかっているという責任もある。喫煙については、デンマークでは未成年も自由にできるため、厳しく禁止はしていない。ただ校舎内では禁煙というところが多く、生徒の集まる談話室や校庭のペンチなどに灰皿が置かれている。TPOを考えよという方針なのだ。

 フラッケビャウ・エフタースコーレでは、禁煙教育の徹底を学校の方針としている。喫煙は環境の汚染と考えるからだ。学校内にタバコを吸う場所は置いているが、授業や生徒との交流を通じて、強制にならないかたちで禁煙を勧める。基本的に子どもは健康に育つ権利をもっており、タバコは成長期には大きな害悪をもたらすので、禁煙教育は必要だと考えている。

 体罰はない。デンマークでは今日厳しく禁止され、人権侵害とされる。いじめもないかどうか聞いてみたが、他人と違う行動をとったり、風貌が人と違うことをおかしいとか異質だと受け取る感性がないデンマークでは、そういうことを理由に人を集団でいじめるという発想がそもそも少ない。それでもまだ判断力の不十分な小学生の頃、コペンハーゲンや地方の大都市の大きな公立学校で、いじめにあったとかいじめをしたという子は結構いる。しかし、エフタースコーレに来て彼らは大きく変わるのである。

 教員の話では、エフタースコーレでの家族的な雰囲気によって彼らの心の傷がいやされ、互いに思いやりをもって接する気持ちに目覚めるのだという。大きな家族として二十四時間暮らすうちに、その接触の長さと深さが友だちを単なる他人以上の存在、自分にとって親しい存在と変えていくのだ。相手をよく知り、互いに認めあった仲ではいじめなど起こるはずがない。

 性格的なもので人とうちとけず、じっとこもる子どももいる。そういう人はほっとかれるだけで差別されたり、いじめられるということはない。しかし、たいていはそんな子でもかまうお人好しがいるので、そのうち仲間になっていく。学校が気にいらなければ、いつでも学校を変われる自由があるので、問題が長引くということもない。実際来てみて自分のイメージと違うといって、退学し、転校する生徒は五パーセント程度はいつもいる。日本のように転校そのものを逃げとか、敗北ととる発想もない。

 エフタースコーレからよそに転校する中で、一番多いのはそのエフタースコーレの校則を破り、退学処分になるケースである。とくにドラッグの使用は厳しく処分される。飲酒はさほどでもないが度が過ぎるものはやはり同様の処分がある。また性交渉がたびたび発覚した者も対象となる。

 とはいえ、公立学校で教員を殴って放校処分になった生徒とか、登校するのがいやになった、あるいは親との面に深刻なトラブルがあったという生徒を受け入れてきたのがエフタースコーレである。そうした生徒に話を聞いたが、公立学校の教員と違い、ここは親身になってくれるので居心地がいいという。

 

 3-2-4、生徒の自己決定権

 エフタースコーレの特徴は、生徒の自主性の尊重だ。しかし、それは生徒に自分勝手にやらぜるという意味ではなく(日本ではこの点がいつもごっちやになっている)、彼らを一人の人格として尊重するという意味でである。それゆえ本人がだらしない場合は教員が厳しく指導することもある。それは彼自身が自分の人格の尊厳をだらしなさで傷つけていると考えるからだ。

上に挙げた退学の処分というのはそのひとつだろう。本人と親と教員との三者で協議して処分を下す。たいていは次に行く学校を紹介してやることが多い。

 またエフタースコーレではふつう週に一回、全生徒と教員全員の会議がある。ここで生徒は不満や要求をぶつけ、教員は理解を求める。私も出てみたが、ある生徒が教員とやる企画の通営に不満を述ぺると、別の生徒がそれはおかしいといって生徒同士の論争になった。他には教員が事務連絡をしたり、生徒たちが自主的な企画、たとえば週末のロックバンド・コンテストヘのツアーについて討議したり、提起したり、幹事が事務連絡をしたりするのである。

エフタースコーレでの全体会議の様子

 ついでにいえば、先にも述べたように、デンマークでは公立学校は理事会に生徒代表が参加することが義務づけられている。フリースコーレやエフタースコーレにはこの制度はない。そうすると公立学校の方が進んでいるような気がするが、わが国でもそうであるように、むしろ内実が遅れているからこそ、自己決定権を声高に主張せざるをえないということがある。ちょうど部落差別があるからこそ、行政は差別をなくそうと声高に呼びかけ、男女の就職差別がひどいがゆえに男女雇用機会均等法ができ、人種差別が残るアメリカが一番人種差別に敏感であるようにである。制度で定められたということは、内実がまだそこまでいっていないからだ。たしかにフリースコーレやエフタースコーレは制度として理事会に生徒代表が出るということはないが、日常の授業と運営とで彼らの人格を対等に扱い、親身な対話を交わすことで、自己決定権を保証しているといえるだろう。

 

 3-2-5、大きな家族としての学校

 エフタースコーレをはじめ、デンマークのフリースコーレやホイスコーレでは、年に一回卒業生たちが母校を訪ね、在校生たちが食事や歓迎の催しを教員と一緒にとりおこなう日が必ずある。私もクランク・エフタースコーレで、このパーティーに招待されるという光栄にあずかった。盛況で、食堂では席が足りず、体育館を使ってパーティーをしていた。

 集まったOB、OGたちに話を聞くと、この学校にいたときが今までの人生で一番楽しかった、今も支えになっていると口々に語っていた。昼から夜遅くまでいろいろな催しがつづき、あとからあとから卒業生たちが訪れ、入れ替わる。自分の住んでいた部星を見に来る者が多く、私にあてがわれていた部屋にも数人の見学者が来た。書類の整理をしていた私もそのうち慣れて、さっそくどうぞと案内する。「昔と全然変わってないなあ」とつぶやく彼らの顔の輝きががとても印象的で、洋の東西を問わず、学校というものがもつなつかしさ・さわやかさを再確認させられた。日本では学校嫌いが増えているが、学校というのは本来こんなにすばらしい笑顔を人にさせるものなのだ。

 エフタースコーレは基本的には二人部屋で、みんなそのルームメイトといっしょに来た。「ここは大きな家族だったよ。その後も連絡をとっている人は多い」と語っていた。エフタースコーレでは生徒と教員、あるいは生徒どうしのコミュニケーションが密であるので、問題をかかえた人も立ち直っていく。教員は当直になれば、朝から深夜まで学校で働きづめだし、校舎に住む校長とその家族は生活のすべてが学校にかかわっているからたいへんだ。しかしそのつき合いの時間の長さと深さが、単なる知育教育ではカバーできない「生のための教育」を可能にしているにちがいない。

 デンマークといえば社会民主主義国家で労働組合が強く、管理社会ゆえに人間関係が合理的というイメージを抱きがちだ。ところがどうして共同生活を好む点とか、生活と仕事の区別がつかなくなるエフタースコーレの教員を見ていると、日本の学校の方がよほどドライだという気がしてくる。教師は聖職者という意識はまるでないが、しかし、教育をビジネスライクにとらえることなく、人間的なものと考え、子どもたちといっしょに生きるその姿は、古くて新しい教育のあり方かもしれない。

 現在、エフタースコーレの人気はすさまじく、入学希望を二年から三年前に出さないと希望の学校に入れないという。入学試験などないので、先着順だからである。各学校でも定員を増やすなどして対応しているが、当分は難しいかもしれない。この成功を自負して、エフタースコーレ協会のディレクターのエルセは、帰りぎわ私にこう語った。

 「全寮制の青少年教育ではイギリスのパブリック・スクールが先輩だけれど、エフタースコーレは青少年教育にもうひとつの新しいコンセプトを生み出した。こちらの方がきっとポスト産業社会に貢献できると思うの」。

 

 エピローグ

 クランクで仲良くなったイギリス人の英語講師ポウルはデンマークのエフタースコーレこそがイギリスの病める若者を救うと確信し、デンマークで調査・研究をしていた。日本からやはり同様にエフタースコーレに関心をもってやってきた私を同志だと思い、こう語った。 

 「先進国には共通してシックス・ティーン・プロブレム(16才の頃の問題)がある。イギリスではこの世代が荒れ、パンクやフーリガンなどになり、反社会的な行動を繰り返している。アメリカもそうだ。先進国ではデンマークと日本がこの時期の子どもたちが荒れるのを回避しているが、日本の受験勉強の管理でおとなしくさせても問題は残るだろう。ただデンマークだけが好ましい形でこの問題を解決している。それがエフタースコーレだ。

 ミツル。ミスター・クリアウォーター(彼は私の名の意味を知るといつもこう呼んだ。ちなみに彼の姓はグッドチャイルドという。いかにも教育者にふさわしい姓としてみんなからいつもからかわれていた)、ぽくらの力で日本とイギリスにエフタースコーレをつくり、手をつなごうじゃないか」。

 この言葉はたしかに直接私に向けられた。だがそれはおそらく日本のこころある人々に対しても向けられた期待なのである。

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