多摩川の源流を求めて

京急六郷土手駅から小田 急線和泉多摩川駅まで

日時: 2016年11月14日(月) 9:30京急六郷土手駅改札口集合。午後はもしかしたら小雨だが、その時は最寄りの駅に退避して宴会して帰る条件で決行。 昼食は東横線多摩川駅近くのレストランとするが、念のため、非常食としておにぎり1個持参とした。

9/28の事前調査の 結果、六郷土手駅出発し、北岸を歩くこととした。二度目の事 前調査のついでに川崎大師に詣でて遡上の安全を祈 願した。

ここから 上流に向けて今回歩く予定の区間に「矢口の渡し」(鎌倉街道)、「平 間の渡し」(ガス橋)、「丸子の渡し」(大山街道)、「登戸の渡し」と5個の渡しがある。多摩川には 全部で38の渡しがあるそうだ。


六郷の渡し

スタート地点は江戸時代は多摩川の最下流の「六郷の渡し」があったところ。旧東海道の渡しである。今は第一京浜がとおる六郷橋と京急とJR東海道 線が並んで3つ並んで渡っている。11/12の二度目の事前調査でJR東海道線の古い鉄橋と六郷土手上面のクリアランスがないのを発見した。戦後、多摩川 の全土手に土盛りしたが日本一古い東海道の橋は低く、堤防はここだけ低くなっていて、増水時には越流の危険性がある。2015/9/10には鬼怒川が越流で決壊し ている。ということは、いまだ首都東京ですら、インフラは整備されていないことになる。

にも拘わらず外務省の元高官の元岡本北米課長はトランプ大統領の出現に驚いてNHKインタビューでODA予算がかっての半分にカットされたのでは外交なん てできないとのたま う。そもそも中国の勃興を招いて米国と日本の経済と軍事の苦境を招いたたのは外務省のODA予算ではなかったか?国家の予算配分について発言するときは、 もっと謙虚でなくては鼎の軽重を問われてもやむをえまい。



六郷土手と土手に食い込む東海道線鉄橋 京急六郷土手駅ホームより

六郷の渡しのあるところは多摩川は180度方向を変える湾曲部の中頃だ。すぐ土手を下り、河原の緑地をゆく。しばらく行くと多摩川は今度は 90度左に曲がり、左手に第二京浜の通る多摩川大橋が見える。多摩川大橋はゲルバー・プレートガーダー橋というフラットな構造だが東京電力とNTTが共用 する送電専用橋である多摩川専用橋はランガー桁というアーチ橋である。

矢口の渡し

多摩川大橋の少し上流地点が矢口の渡しがあったところだ。河原に看板 がある。足利尊氏が亡くなったとき、鎌倉奪還のチャンス到来とそそのかされた新田義貞の次男新田義興(よしおき)が12騎 の従者とともに、配下の兵2,000人が身を潜めて待つ鎌倉を目指したが多摩川の「矢口の渡し」を、小舟で、川崎側に渡る最中のこと、待ち伏せにあい28 才で討死にした。現在の新田神社付近だったというが、矢口1丁目21−23にあって川からは離れている。

平間の渡し

ここにはガス橋がある。



ガス橋より下流を望む

ガス橋をくぐり、水辺を歩く。右手には広大な草地、と水辺には雑木が茂り、草地の中の小道をゆく。



パークハウス多摩川を見ながら

右手には三菱地所によって、かっての三菱自動車の工場跡がサリバープレイスという高層住宅地となっている。その先は創価学会の文化会館をはさんでやはり三 菱地所がパークハ ウス多摩川というこれも22階建ての高級マンション群を開発している。




丸子の渡し


新幹線の鉄橋をくぐったら緑地が狭くなり、土手に登らねばならない。土手の上からは六郷用水が見える。アーチ型の丸子橋の信号を横断し、東横線多摩川駅付 近で昼食の 予定で付近探したが、11:30では何処でも準備中であった。そこでやむなく田園調布せせらぎ公園内で昼食とした。昼食後、加畑氏が次の富士周辺散策の差 し支えないように、抜ける。



田園調布せせらぎ公園で  和田さん撮影

多摩川駅からは亀甲山経 由でも多摩川にもどれるが、多摩川浅間神社を迂回して戻った。多摩川は亀甲山にぶつかってその岸辺をえぐるため、コンクリートで固めてある。六郷用水はこ の亀甲山の裾の開渠を流れている。



亀甲山と多摩川および丸子橋

土手から再び河原に降る。巨人軍が練習につかったとされる硬式野球場はここにある。更に先に行くと水辺に並木があってその下を歩く。



玉川公園内にて

六郷用水はここでは丸子川と名を変えて土手から離れる。やがて第三京浜の多摩川橋の下をくぐる。

空には鴨の大群が移動していた。このような光景は何十年も見なかったような気がする。



鴨の大群

田園都市線の双子玉川駅は川の上に作ってある。二子橋と新二子橋をくぐればそこはすでに多摩川の支流の野川だ。野川は国分寺崖線からの湧水を水 源にして立川段丘を流れ下って、多摩川に合流する河川だ。ここで野川にかかる小橋を渡って、多摩川と野川が作る三角洲に渡る。そこは小高い兵庫島公園とい う名の公園が整備されていた。



野川合流点にかかる橋にて


野川の放流口で小休止。やがて小雨が降り始めるが、蝙蝠笠で 過ごせる程度である。東名高速道路橋をくぐるとすぐ警視庁交通安全指導センターに行き当たる。そこで土手に登り、先を急ぐと、眼下のコースで白バイが隊列 を組む訓練をしていた。更に土手道を進むと、草むらのなかに映画に使われる古いバス、ジープ、パトカー、スポーツカーなど往年の名車が保管してある。いづ れもナンバープレートを付けた現役の車である。何事かと思ったところ、映画撮影用の大道具のレンタル業者の保管場らしい。

二ヶ領宿河原堰

更に土手道をゆくと二ヶ領宿河原堰が見えてくる。堰の少し上流の河原にはピラミッド型の記念碑が設置されている。多分1974年の多摩川決 壊の 碑だろうと推論したが、確認のために河原に下る気力は残っていなかった。



二ヶ領宿河原堰


1974年9月台風16号が関東地方に襲来。大雨で増水したとき二ヶ領宿河原堰の設計が未熟で増水に対処できず流れを阻害したため、せき止められた水が左 岸河川敷の小堤防を破壊し、これによって大きな迂回流が生じて本堤防に流れがぶつかり、堤防を洗掘した。こうして狛江市の民家19棟が流出したのである。 この記憶はいま だ生々しい。当時導入されたばかりの、ツーバイフォー造りの家屋が船のように流れてゆくのを鮮明に覚えている。濁流の進路を変えるために宿河原堰の固定部 を爆破することを決定。陸上自衛隊と建設省(現・国土交通省)によって堰の爆破が行われようやく迂回流が止ま り、被害の拡大を何とか食い止めることができた。

国が流出家屋等の弁償をしなかったために、1976年、家を流された住民をはじめとする30世帯33人の 原告が、国を相手取って国家賠償を求めて提訴し約16年に及ぶ「多摩川水害訴訟」の結果、ようやく住民が勝訴した。2015/9/10の鬼怒川が越流で決壊し て流された人々が訴訟したということは聞いていない。

裁判が終了した翌年の1993 年、建設省は洪水時引上式スライドゲート1門と洪水時起伏式の可動堰5門を備えた「全横断の可動堰」にすることと、魚道も1箇所から3箇所へ増設すること などを決定して現在に至る。流された住宅地はこの堰の北側で、いまでも道路の形から分かる。



二ヶ領宿河原堰は二ヶ領用水の取水堰である。いまでも川崎市の水田用の用水と なっている。


登戸の渡し

予定通り、登戸の渡しで本日の予定は完全終了。4:30であったので小田急線和泉多摩駅周辺の飲み屋はすべて準備中のため午後の紅茶を楽し んで解散。歩いた距離は18.7km、標高差17m、歩数は3万歩。


参加者:小粥、和田、加畑、秦、安井、青木

源流を求めてへ

August 6, 2016

Rev. November 19, 2016


トッ プページへ