川崎大師

2016年11月12日、多摩川の源流を求めての遡上の事前調査のため京急六郷土手駅に立ち寄ったついでに、多摩川遡上の安全祈願を兼ねて、生まれて初めての川崎大師に赴いた。

大船から茅ヶ崎にかけてのかっての東海道線沿い、鶴見川沿い、多摩川沿いの組み立て工場は全て閉鎖閉鎖されて今では住宅地になっている。トランプが 勝ったオハイオ州なども、自動車などの組み立て工場が多かった地域だ。千代田化工の川崎の圧力容器工場も今はショッピングモールになっている。

とはいえ東京湾添 いの京葉工業地帯のプロセスインダストリーはほぼ健在だ。川崎大師線沿いの味の素工場も健在であった。どうもプロセスインダストリーは中国に移転する必要 はなかったようだ。人件費の比率が低いた めだろう。とはいえ、その味の素もいよいよ減益だそうである。原因は畜産飼料用アミノ酸事業で中国勢の低価格攻勢にさらされているためという。鉄鋼業も中 国のダンピングに苦しんでいる。いよいよ、プロセスインダストリも中国に追いつかれ、日本の衰退も組み立て産業からプロセスインダストリーという第二期に 入ったのではなかろうか?

などと考えていたら川崎大師駅についた。駅前の大師線の踏切は記憶にある。かってバイクで走っているとき、ここを通ったことがあったのだ。

門前街は成田山新勝寺のように健在であった。

川崎大師の規模は大きいがすべてコンクリート造りであるのは寂しい。



川崎大師


私が仕事のために後半生を過ごした川崎から横浜にかけて横たわる京浜工業地帯の後背地を江戸時代に開墾して新田とした元地主さんに会えることは普通はない。それが、多摩川遡上の第一歩の記録を読んだ、同じ総合知学会のメンバーの荒井氏が朝日記というブログに 紹介している。それによると荒井さんのご先祖は江戸の中期あたりに関西から移住した開拓団で川崎渡田郷に移住してきたそうだ。川崎大師近くの田辺新田とか 小島新田の地名がいまの工業地帯ができる前からあった。鶴見区史をみると荒井新田というのもあったようで親子二代で新田を造成した。川崎の渡田小田から横 浜の鶴見区潮田にかけてひとつの文化圏であったようだ。

November 12, 2016

Rev. November 19, 2016


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