成田山新勝寺・佐原河港・香取神社

成田山新勝寺

成田空港から海外に飛ぶことはしても、素通りで、いまだ「成田のお不動さま」にお参りしたことはない。深川散策のとき、江戸時代に出前サービ スとして深川に出張してきた深川 不動堂に立ち寄ったくらいである。初詣人気では明治神宮に次ぐとか。

成田の不動尊は平安時代、嶬峨天皇の勅願により弘法大師が一刀三礼、敬慮な祈りを込めて彫り開眼したという。朝夕に天下泰平・五穀豊穣・万民豊楽の護摩法 を修せられた霊験あらたかと信じられている。朱雀天皇の天慶2年(939年)、平将門の乱平定の為、寛朝大僧正によって当地に還座、開山された。

後で、知ったことだが、成田山新勝寺は江戸時代は深川への出張サービスでフォロワーを増やしたが、明治以降は鉄道を自ら敷設して(後に国鉄に買収)参詣客を誘致し、京成電鉄も出来て、今では初詣日本一の寺になっている。(初詣の日本一の神社は明治神宮)

2011年6月10日、6:00起床。鎌倉7:11発→(エアポート成田快速)→着8:07東京8:10発→(エアポート成田快速)→着9:24成田。そ こから新勝寺まで1kmの表参道を往復する。

今日は単独行のため、しばらくつかっていなかったiPodを持ってきた。Electronica/Dance→Digital Orgasmを選んで歩き出す。JR駅を出て駅前広場から表参道にはいると尾根道となっている。JRは谷底を走っているが昔の人は尾根道を好んだのだ。ヴェズレーの サント・マドレーヌバジリカ聖堂に至る尾根道の参道を思い出した。とはいえ参道はやがて成田山では一番古い建物という薬師堂(実はこれが元祖新勝寺)の前で尾根を右にはずれ谷底に 下る。そこに大野屋旅館が昔ながらの姿で営業していた。



表参道の大野屋旅館

2007年11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門は立派だが、まだ新しすぎる。仁王門には浅草雷門のような大きな提灯。本道は急な階段を上った先にある。



仁王門

本堂は大成建設が造ったコンクリート製で面白くないがとにかくデカい。初詣の人間を捌く仕掛けは用意されている。広大な空間の奥に本尊の不動明王が鎮座し ていたが、御堂が大きいのでかわいそうなくらい小さく見える。



大本堂

三重の塔は1712年建立で重文だそうだが、巨大な大本堂の前では小さく見える。



三重の塔

大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂は釈迦堂といい、国の重要文化財。1858年建立の旧本堂という。更にその奥に釈迦堂よる古い新勝寺の本堂が移設されている。


佐原河港

表参道を取って返して成田駅10:41発の電車で佐原(さはら)駅に向かう。 途中坂東 28番の滑河観音のある滑河駅を通過。

1973年の英国滞在中に目撃した産業革命時代の物流の運河とおなじものを江戸時代に家康が整備したと知り、1974年に水郷地帯に でかけた。その後、利根川と江戸川の分岐点の関宿城小名木川運河もつぶさ に歩いた。というわけで佐原河港は落穂拾いをしようと出かけてきたのだ。

佐 原河港は江戸時代の利根川を路用した物流の拠点港として栄えたところであり、航行の守護神として香取神宮参拝の門前市でもあったところだ。川岸の船問屋の 街並みを保存して観光業に熱心だ。伊能忠敬の旧宅 も残っている。長谷川伸はその戯曲「沓掛時次郎」(1966年に映画化)の舞台としてこの佐原を採用している。



小野川沿いの歴史地区

伊能忠敬はここで酒屋を経営していたそうで、その屋敷跡が保存されている。屋敷内を農業用水がながれており、小野川を立体交差して西側に流す木製の樋が あったと説明がある。

佐原駅に入る手前にかなり川幅の広い河を渡る。これは両総用水路である。戦時の食糧難の解決のために1943年国会承認を得て工事に着手し、戦後も工事を 続行して完成したものという。佐原の第1揚水機場で利根川から取水した農業用水をトンネルや橋を使って利根川の南岸に横たわる丘陵地帯を横断し、栗山川に 導水している。栗山川沿いの水田に給水したのち、九十九里浜で太平洋にそそいでいる。

この町で酒屋をやっていた伊能忠敬の旧宅を見終わるとちょうど12時。香取神宮に向かう前に昼飯と伊能忠敬にちなんだ「忠敬茶屋」 にはいった。ところが注文の天丼にありつくのに45分待たされた。料金先払いで注文して番号付きの引換券をもらい、大勢の客がいたので、時間がかかるだろ うと覚 悟し、持ってきたエマ ニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を破滅させる」という本を読んで待った。15分くらいたってそろそろ番だろうと耳を澄まして もよく聞こえない。そこでキッチンに近い席に移って15分待った。自分の40番の前の38番まできたのでそろそろかと期待しているとまた10番に戻ってし まう。周りの客も入れ替わっている。そこで40番はいつになるのか聞くとあわてて料理を管理する伝票を探すがない。伝票を作ってなかったようだ。何を注文 したか聞か れ、それから最優先で作ってくれたが、でてきたのは注文してから45分後であった。金だけとって控えの伝票を作ってなかったようだ。「済みません」の一言 もない。キッチン内で夫婦らしい中年の男女で口げんかしているだけ。

先日見た沓掛時次郎の映画で草鞋を脱いだ佐原の勘蔵一家と牛堀の権六一家の縄張り争いに巻き込まれそうになる。しかいかつて飯岡助五郎と笹川繁蔵の争いに 一宿一飯の義理で助っ人を申し出た時次郎は、多くの人間を斬り殺したことでやくざに嫌気がさしていて断る。どうもここはがらが悪い土地柄なのかと思った。 しかし沓掛時次郎はあくまでフィ クション。夫婦で口げんかしているから個人営業かと思ったがどうも町が経営しているようだ。それで理由はわかったソ連時代のレストランと同じで、何のイン センティブのない人間が働いているからこうなる。折 角古い町並みをのこして観光で飯を食うつもりらしいがこれでは面汚し。成田新勝寺ではご機嫌だったのに佐原ではすごく気分ををしてしまった。

さて香取の更に先に東庄町(とうのしょうまち)がある。江戸後期の天保時代に利根川下流域に一大勢力を張った侠客笹川繁蔵(ささがわのしげぞう)と魚の水揚げで潤った飯岡助五郎(いいおかすけのごろう)が争った賭場をめぐる利権争いは実話で「天保水滸伝」となって講談、歌舞伎、映画、小説、流行歌になっている。これが沓掛時次郎の時代背景として採用されたようだ。この笹川繁蔵の子分が実在のイケメンの剣客平手造酒(ひらてみき)だ。大利河原の決闘で闘死。墓所は笹川駅近くの延命寺。

利根の利根の川風 よしきりの 声が冷たく 身をせめる これが浮世か・・・

三波春夫 「大利根無情」


香取神社

佐原散策後香取神社に向かって2kmの道を歩く。梅雨の晴れ間で気分がよい。香取神社は鹿島神宮と ともに全国でも有数の古社である。利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座するとあるが、歩い てゆくたしかに森林におおわれた小高い丘が眼前に現れる。一般に利根川の南岸には丘陵地帯が広がっていて亀甲山もその一部にすぎない。成田空港はその丘陵 地帯の上に建設されたわけである。

香取神社は日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原 氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。軍神の認識を表すものと しては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」という歌が知られる。一方、「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは航行を掌る神として祀られたという見方もある。

佐原からアプローチすると眼前に鳥居が見え、その前に短い門前町がある。ここに観光バスの駐車場がある。佐原から香取まで誰にも会わなかったが、ここで観 光客は膨大になる。参詣路は大きくJ字型に左旋回する。その手前に要石(かなめいし)との看板がある。参詣路は緩やかな勾配であるがそこを離れ急坂を上ると要石なる直径 30cm程の丸石は地面に置いてあり、脇に看板あり。いわく。

香取、鹿島の大神、往古この地方尚ただよえる国であり地震が多く地中に住みつく大 鯰魚(おおなます)を抑える為地中深く石棒をさし込みその頭尾を刺し通した。香取は凸形、鹿島は凹形である。

伊能穎則(ひでのり)
「あづま路は香取鹿島の二柱うごきなき世をなほまもるらし」

とある。伊能穎則は伊能忠敬と同じ佐原の伊能家の出の江戸後期〜明治始の歌人・国文学者で香取神宮の宮司を勤めている。「忠敬茶屋」で腹の虫がおさまらな い故、本当にこの石ころは長い石棒の先端などではなく、ただの丸石ではないかとの疑惑が頭をよぎる。石棒は日本各地の縄文遺跡で見つかっており、両頭・単頭・無頭石棒など多様性に富む。私も三殿台遺跡秦野桜土手古墳で見た。

何の目的で作られたかはわかっていないが、男根の象徴とされる。しか し 鹿島の要石の上端はへこんでいるところが微妙だ。だれか掘って確かめた人がいるのかいぶかって調べると昔、水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底 が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したとい ういかがわしい伝説が残っている。日本最大の石棒は長野県佐久市の佐久西小学校の北側を流れる北沢川の田んぼの あぜ道に立っている2mを越すモノだというが、これよりもデカいのだろうか?当時そのような重い石を運ぶ能力があったのだろうか?



香取神社本殿


香取神社本殿前には中年の夫婦が熱心の何回もくぐっていた「茅(ち)の輪」 というものがあった。竹で鳥居を建て、その結界内に茅で編んだ直系数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものだという。6月に夏越の大祓(おおはらえ、おおはらい)として行われるもの。市ヶ谷に移動。「茅の輪」は2013年1月20日に亀岡八幡でも見た記憶がある。この場合は冬越の大祓だったのだろう。

「忠敬茶屋」のとばっちりで香取神社はお賽銭をもらいそこねたようだ。それだけではない標語としして皇室を敬えというのがあったのも理由だ。皇室が金を出 すのなら我々庶民の零細な金など不要だろう。

帰りは亀甲山を下り1km歩いて香取駅から帰る。1時間の1本のため「忠敬茶屋」の遅れの影響がでてここで45分待つはめになった。風の吹き抜けるホーム で過ごすのも悪くない。成田で1時間に1本のエアポート成田快速に乗り換えて、夕刻19:00自宅帰着。

かかった交通費4,000円也。

June 11, 2015

Rev. January 2, 2017


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