寿福寺

臨済宗建長寺派の亀谷山(きこくさん)寿福金剛禅寺は1200年、頼朝夫人政子が明庵栄西(みょうあんえいさい)禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山第三位の寺である。ちなみにエッサ、ヤッサという掛け声は栄西からきているとのこと。

鎌倉五山はいずれも蒙古に攻められていた南宋の寺が、城であった影響をうけて前に川と石垣があるのだが、この寿福寺も例外ではない。

栄西は日本臨済宗の開祖で日本における茶の湯の開祖でもある。当時日本に普及していたのは南茶(なんちゃ)と いうウーロン茶と同類の一種の発酵茶であったが、栄西が中国から茶の木を持ち帰り、肥前と筑前の境界の背振山に茶の種を撒いて苗木を育て緑茶や抹茶を作っ た。彼が鎌倉に来たときもこの茶の木を鎌倉に持ってきて植え、かつ「喫茶養生記」を著して緑茶を奨励したという。金沢八景の称名寺も 茶の木を植えて緑茶の普及に貢献したという。『吾妻鏡』。将軍実朝が宿酔(二日酔い)の際、栄西禅師から茶とともにこの書を献ぜられ、喫したところたちま ち治癒されたと伝えられている。栄西は、再治本を記した翌年の1215年7月寿福寺にて没したという伝説があるも京都説もある。

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寿福寺外門から山門に到る敷石道

仏殿は1714年の再建である。寄棟造り桟瓦葺(さんかわらぶき)の禅宗様(禅とともに入った宗の建築様式)建築。仏殿には本尊釈迦三尊像が安置されている。十一面観音がどこに安置されているのかは不明なるも鎌倉観音霊場第24番札所 である。寿福寺は納経所の場所が分かりづらい。山門に向かって右の道に木札があって「これより一般の方は立ち入り禁止」のようなことが書いてあるが、納経 所はこの先にある。納経帳をカバンから出して、「朱印を頂く為に入って行くんだ」ということを分かるようにして入ればよい。

この地は頼朝の父、義朝の館があったところである。 義朝は京都生まれで幼少期を京都で過ごすが、少年期に東国に下向し、上総介氏等の庇護を受け、同地で成長した。そのため、父為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばした。鎌倉に移って三浦半島の三浦義明(大助)や和田太郎助弘、現在の渋沢丘陵界隈の中村宗平以下1,000騎をもって相模国大庭御厨(みくりや)内 鵠沼の伊介神社や大庭景宗の屋敷(現藤沢大庭城址公園)を襲い荒らした。ここは鎌倉・梶原・大庭一族が開墾し、伊勢神宮に寄贈した農地で相模国一の寄進地 系荘園であった。義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあったのだ。三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人で あったが、同時に源義朝の郎党でもあった。彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのである。景宗の長男、大 庭景義は親兄弟とは別に義朝の傘下に下る。河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、特に前九年の役の高祖父の源頼義以 来ゆかりのある鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持った。義朝の勢力伸張は関東の他の源氏、特に下野国の足利に本拠を置く義朝の大叔父源義国の勢力 と武蔵国などで競合することとなり、緊張を生んだが、義国の指揮下にいた叔父源経国が仲介し、義国と義朝が同盟を締結し、盟友となることで解消された。

義朝が東国に下向したのは父為義から勘当されていたためとも言われる。在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。1156年の「保元の乱」のとき、崇徳上皇に着いた父とは袂をわかって平清盛とともに後白河天皇側 について勝利し、左馬頭に任じられて名を挙げる。しかし4年後の1460年の「平治の乱」で藤原信頼方に与して敗北した。義朝は都を落ち延び、尾張国にた どり着き、家来の長田忠致のもとに身を寄せるが、長田父子に入浴中に襲撃され、あえない最期を遂げた。時代が下った鎌倉時代、長田一族は頼朝により処刑さ れる。義朝の墓は、その終焉の地である愛知県美浜町の野間大坊の境内に存在する。

頼朝が決起して石橋山の合戦を戦った基盤は義朝が築いた武士団の同盟であった。その武士団とは平野部に領地をもつ鎌倉氏の 各分派。すなわち梶原・大庭・俣野・長尾(大船駅西北の横浜市栄区長尾台)・海老名・毛利同盟と丘陵部に領地を持つ三浦・和田・中村・土肥同盟の二つがあった。

酒匂川の氾濫で丘陵部同盟の三浦が合体できず、頼朝は敗れて安房に船で脱出することになったのだ。平野部の梶原だけは頼朝に見方した。長尾一族は平家に組したが故に一旦滅びるが、後日長尾影虎、上杉として復活する。

隣には英勝寺がある。寿福寺の仁王門の仁王像は明治に廃仏毀釈により鶴岡八幡宮から移設されたものである。

2015/3/23 仲間と観音巡りをしてここに来たが、立ち入り禁止で要領を得ない。

墓地にあるやぐらには実朝、政子の墓とされる五輪塔がある。仏殿前には柏槇(ビャクシン、Juniperus chinensis)の巨木が植えられている。ジンはこの葉を使うのかしら?

寿福寺は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

2019/12/14 榎本、秦、青木は鎌倉在ピアニスト広瀬宅で行われたコンサートを幹事している安井さんに誘われて出席した折に午後の時間をつかって寿福寺と浄光明寺を回った。寿福寺では実朝、政子の墓とされる五輪塔も周り、裏山に上るルートも探してみた。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

May 7, 2004

Rev. December 15, 2019


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