英勝寺

寿福寺に隣接し北隣にある。鎌倉に唯一残る尼寺である東光山英勝寺は、大田道灌の父・道真以来の居館での地にある。大田道灌の曾孫・進六郎康資の娘は13才で家康の側室となり、非常に聡明であったため 「お梶(かじ)の方」あるいは「お八の方」とよばれて寵愛された。男装で参加した関が原で勝ってからは 「お勝の方」、「勝の局」と呼ばれた。

家康の死後、お勝の方は出家し、将軍・家光から道灌邸跡を貰い受け、寛永13年(1636)此処に念仏堂を建てたのが始まり。その後、お勝の方を准母(すいぼ 養母)とする水戸家の水戸頼房は、山門、仏殿、鐘楼( すべて重文)などを造営。この時お勝の法名をとって英勝寺とし、息女を出家させて開山とした。

仏殿

鎌倉十橋の一つ「勝の橋 」は「勝の局」が架けたのでその名が残っている。

関東大震災で山門が倒壊したとき再建できず、用材は買い取られて某私邸の門になっていた。これも時代の波、宅地開発で売却されることになり、解体された。8年前に寺が部材を買い取り、2011年5月完成予定で旧礎石の上に再建中で あったが2011年4月13日、花見方々訪問したらほぼ完成していた。参観料300円は再建費捻出のために充当するとのこと。

再建された山門 (2011/4/13撮影)

英勝寺は三浦郡池子村に朱印地、源義家東夷征伐の時、旗を立てたといわれる旗立山通称源氏山を賜っている。英勝寺を出たところの山腹には道灌公の首塚、「十六夜日記」を著した阿仏尼(あぶつに)の卵搭(らんとう)、智岸寺稲荷などがある。 阿仏尼の卵搭がこの地にあるということは所領紛争の解決を見ることなく阿仏尼はこの地で亡くなったのか、はたまた供養等なのか?

グリーンウッド氏は鎌倉に住んで25年になるが、2006年10月7日初めて訪れた。横須賀線が北鎌倉を過ぎ、トンネルを抜けた時、右手に仏殿の屋根が見える。いままで寿福寺と混同していた。

英勝寺から横須賀線の踏み切りを横切って東に向かうと左手に旧川喜多邸がある。大仏(おさらぎ)旧華頂宮邸などとともに鎌倉景観重要建築物となっていて一般公開していた。

October 10, 2006

Rev. April 19, 2011


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