越後 長岡

北越戦争戦場めぐり

北越戦争は司馬遼太郎著「峠」のテーマだ。須坂出身で、郷土の殿様の堀直虎を調べていた田中氏が長岡藩と松代藩・須坂藩は幕末、長岡で戦火を交えた仲だ。須坂は官 軍として、長 岡は賊軍として。もし可能ならこの戦場巡りをしたいと言い出した。長岡の機械メーカーに婿入りして立派に育て上げた小川氏に案内してもらうよう依頼した。小川氏は「北ラス会」のメンバーでもある。訪問時期は北越戦争があった1868年よりちょうど150年後の2018年の5月中旬と決めた。

北越戦争を時系列で整理すれば下記の通りとなる。

1. 4月26日 雪峠の戦い 新政府軍と会津

2. 4月27日 小出島の戦い 新政府軍と会津

3.   5月1日 片貝の戦い 小千谷談判を妨害するために会津藩が片貝村で陽動作戦戦場

4.   5月2日   小千谷の慈眼寺での新政府軍と長岡藩の小千谷談判

5.   5月10-11日 榎峠の戦い  長岡藩の参戦 光福寺が本陣

6.   5月11-18日 朝日山の戦い 光福寺が本陣

7.  5月19日 長岡城落城 長州奇兵隊は濃霧にまぎれ信濃川を渡河し、寺島村(現:中 島町付近)に上陸し、放火しつつ城下に進撃。長岡藩兵はこの奇襲を防ぎきれずに敗走し、藩主牧野忠訓は城に火を放ち、会津領に落ちのびる。城下においては 多くの民衆が逃げまどい、栃尾郷へ向った。

8.  6月2日 今町の戦い

9.  6月6日-7月14日 福井・大黒周辺の戦い

10.  6月8日 森立峠の戦い  

11.  7月24-25日 八丁沖の戦い  長岡城奪還作戦

12.  7月25日 継之助負傷

13.   7月29日  2度目の長岡城落城

14.   8月2日  見附発

15.   8月3日  吉ヶ平発

16.  8月4日 八十里越(山中泊)

17.  8月5日 只見村着

17.  8月12日 塩沢着

17.  8月16日 継之助陣没 42才


第1日 晴れ

JR東京駅に6:30集合。7:00発maxとき303号で長岡に向かう。長岡8:37着。

小川氏の自家用車での史跡めぐり順路


長岡駅→光福寺(長岡藩本陣)→機那サフラン酒→妙見堰の司馬遼太郎(峠の碑)→榎峠古戦場跡(最大の激戦地)→浦柄神社(朝日山戦死 者の墓碑)→雪峠(戦争初衝突)→船岡山(西軍戦死者の墓)→小千谷そば福桝(へぎそばの昼食)→慈眼寺(小千谷談判)→錦鯉の里→片貝(帝石鉱場)→大 島(西軍乗船場)→中島(西軍上陸地)→蓬平(よもぎひら)温泉「よもやま館」(0258-23-2121)泊

直線走行距離61m。概算実走行距離1.2倍とすると73km。


光福寺

長岡駅から3km南にある寺で長岡城が落城するまで長岡藩の本陣として使われたという。小千谷の慈眼寺での和平会談決裂後、開戦を決意し た河井継之助は長岡藩の諸隊長を長岡藩本陣であるこの地に集め、新政府軍に対し、開戦の決意を演説した。予約なしの一般観光客には本堂は公開していな い。長岡市が設置した石碑を見て退散。


機那サフラン酒製造本舗土蔵

光福寺のすぐ近くにある、機那サフラン酒は明治から昭和にかけて「養命酒」と勢力を二分した薬用酒(現在はリキュール)。サフランのメシベ、蜂蜜、丁子、甘草などの薬草を含む。キニーネも使っていたようだ。

これで財をなした豪商・吉沢仁太郎が個性的な蔵屋敷を築いた。大正時代に地元の左官河上伊吉に作らせた極彩色の漆喰(しっくい)装飾「鏝絵(こてえ)」で飾った土蔵。中越地震で被災したが修理できた。

吉沢仁太郎は庭の手入れ中に刺したとげから菌が入り、亡くなったといわれている。多分、破傷風菌だろう。心せねば。



漆喰装飾「鏝絵」で飾った土蔵


妙見堰の司馬遼太郎


信濃川東岸に沿って南下し、多目的ダムを小型化した妙見堰の上につけられた「越の大橋」を渡って西の袂にある司馬遼太郎の「峠の碑」を確認。土手 に立って南方を望むと遠くの鉄塔の向うに山頂がほほ平らな城山が見える。左端手前の大きな山が戦場となった朝日山である。榎峠は更に左手にある。中央の尖がった 山とその左の山には名はないが、朝日山の尾根の一部である。城山の更に遠方に平らな山本山がみえる。この山に雪峠がある。

城山から榎峠までまっすぐな断層線が走っているように見える。城山の先には小出島(現魚沼市)がある。ということはこの構造線は柏崎ー千葉構造線から分岐 している新発田ー小出構造線だろうか?この構造線より東側は山岳地帯で,中〜古生層や花崗岩類,変成岩などの基盤岩類やグリ−ンタフなどから構成されて いる。これに対して西側は新潟油田地帯を形成する丘陵や平野からなり,新第三紀層や第四紀層から構成され対照的。 中越地震の震源もこの線に沿っている。



土手に立って南方を望む


榎峠古戦場跡


再び「越の大橋」(妙見堰)を渡って東岸に戻り、三国街道を榎峠という最初の激戦地に向かう。ここは小千谷談判決裂後に新政府軍が尾張藩と松代藩を進 軍させたところだ。旧幕府軍奥羽越列藩同盟に加わらざるを得なかった長岡藩は会津藩と桑名藩と榎峠奪還に向かって5月11ー12日、ここで対戦したのだ。



榎峠古戦場跡 遠くに妙見堰

此処から少し上流は信濃川が岸を洗う断崖である。2004年の最大震度7の新潟県中越地震のとき、母子とも車ごと土砂崩れに巻き込まれ、約92時間後に救 出された当時2才の皆川優太君のあのガケ崩れ跡だという。三国街道はガケ崩れ跡をさけて切通しを通過。ここに震災の犠牲者のための妙見メモリアルパークが 作られている。


浦柄神社

浦柄神社は戦場となった朝日山への登山口にある。1941年建立の碑には当時、当時海軍大将だった山本五十六連合艦隊司令長官の書が刻まれている。

榎峠の戦いのあとの5月11-18日、朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵と幕府脱走兵集団からなる衝鋒隊は、大砲を山頂にあげ、西軍の陣地を砲撃した。西軍は朝日山をとろうと、たびたび攻撃した。と りわけ、5月13日早朝の長州藩奇兵隊を中心とした攻撃は、激しい戦いだった。参謀時山直八など多くの西軍兵士が命を落とした。その遺体は、小千谷に送 られ、のちに、船岡山の墓地に改葬された。朝日山の戦場は、5月19日、信濃川を強行渡河した西軍が、長岡落城に成功すると、にわかに戦いの要衝としての 地位を失った。東軍兵士たちは、朝日山の陣地から離れ、戦いの場は、蒲原の地へ移っていった。戊辰戦争が終わり、西軍が勝利すると、明治政府は遺体のと りかたずけを禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これを見た小栗山村 (現小千谷市大字小栗山) の福生寺住職や浦柄村の人びとが、昭和28年に戦死の地に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともに、この地に22基の石碑を建立した。今も浦柄村には史 跡朝日山を守る史跡保存会があり、墓地や史跡を大切に守り伝えている。なお、戦死者のなかに、16歳の会津藩白虎隊新国英之助がいる。この墓標は、戦後20年を経て、父がその遺体を探しあてて建立したものであるという。


雪峠

浦柄神社から雪峠へのルートは小千谷駅までは信濃川東岸を南下する。山本山大橋を渡って信濃川西岸に渡ると眼前にJR東日本信濃川発電所の水管が 5本見える。水管は河岸段丘の上にある調整池の水を落として発電するのだが、この水は信濃川の更に上流の十日町の宮中取水ダムで取水したものをトンネルを通して 流し込んでいるのだ。

雪峠は会津藩の管理地であった小千谷に信州方面から入る善光寺街道が通る河岸段丘上の峠である。5月2日の小千谷談判の前の4月26日に河岸段丘にある雪峠に駐留していた会 津藩と幕府脱走兵集団からなる衝鋒隊合計200名が1,500名からなる西軍を見つけ砲撃を加えたところ反撃されたため撤退した。



雪峠の碑


会津藩は領地の小千谷に陣屋を構えていたが、陣屋主力部隊であった18-35歳で構成される朱雀部隊が会津藩小出島(現魚沼市)の戦いに出陣していたため、雪峠で敗れたとの報に兵器や兵糧を大舟にのせて長岡方面に逃げ出した。残された小千谷の商人たちは西軍に恭順 を誓うことを決断。4月27日に庄屋である佐藤半左衛門が村境まで身なりを整えて出向き、無血開城をした。ここらへんはヨーロッパの都市国家の戦時対応を彷彿させる。


船岡山

ここは勝った西軍戦死者197名を集めた墓場である。見晴らしのよい丘の上にある。ここも中越地震で被災したが復興できたという。



松代藩士の墓を確認


小千谷そば福桝

天ぷらとへぎそばの昼食。長岡のそばは海藻のエキスをつなぎにつかうため、つるつるして食べやすい。


慈眼寺

小千谷の商人たちの斡旋で5月2日に小千谷談判が行われた真言宗の船岡山観音院慈眼寺。本尊は平安後期のもの。中越地震で壊滅的被害をうけたが、大勢の寄進者のおかげで復興。小川さんの事前予約のおかげで参観できた。

ここで河井継之助の嘆願書の受け取りを拒否した東山道先鋒総督府軍軍監岩村精一郎は戦後、山県有朋か黒田清隆なら河井を受け入れただろうと奥州鎮守府総督参謀に批判さ れていることを知り、自分の未熟さを反省する言葉を残したという。この寺も中越地震で被災したが、補助金で修理できたという。



小千谷談判が行われた部屋


錦鯉の里

小千谷は錦鯉鯉発祥の地である。江戸時代、食用として飼われていた鯉に突然変異で色のついた鯉が現れたのがきっかけ。


片貝

慈眼寺での小千谷会談の決裂は、岩村精一郎(岩村高俊)の思い上がりが第一原因であるが、会談前に新政府軍との間で戦闘状態にあった会津藩の暗躍もある。

中立の立場を取る長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むために、会津藩指揮官の一之瀬要人と佐川官兵衛が、 会談の前日に長岡と小千谷の中間の片貝で新政府軍を攻撃した。そして長岡藩の五段梯子の旗印を現場に放置した。雪峠のこともあり新政府軍は長岡藩の中立を 到底信ずることができなかったと思われる。

ついでに1986年に試運転指揮を取った片貝村の丘の上の帝石の天然ガス生産井とガス精製プラントを32 年ぶりに再訪した。片貝村の西にある丘陵地帯は北米プレートに押されてできた褶曲地形で地下にあるグリーンタフを根源岩として上部の背斜構造にトラップさ れたガス層に4000mの鉄管をねじ込んでガスを採取している。ガス井は試運転当時2個であったが、その後増えている。



ガス精製プラントから遠望するガス田地帯 ガス井は緩傾斜の丘の上に散在する。左端は小川氏の車

私が試運転指揮をとったころはガス井のクリスマスツリーは簡単なフェンスに囲まれて無防備に裸のまま、水田地帯に放置されていたが、今では頑丈な鉄架構と 金網に囲まれて守られている。全て遠隔操作できるとはいえ、万一の火災での弁操作のために10m離れたところから弁操作できるように延長軸とハンドルが設 置されている。原発のベント弁なども同じ仕掛けを採用したらいいと思う。



天然ガス生産井


ガス処理プラントは昔のままそこにあった。正面入って2階に中央制御室があり、そこで試運転指揮を執った。その後、日揮が建設した増設プラントも奥に見える。精製されたガスはパイプラインで東京に直送されている。



ガス処理プラント


長州奇兵隊の乗船場

片貝訪問後は信濃川の長州奇兵隊の乗船場のあった大島という場所の土手道を通って長岡市街地にむかった。


長州奇兵隊の上陸地

5月19日の長州奇兵隊上陸地の寺島村は今では長岡市中島町である。市街地であるということは信濃川の河幅は土手を築いた結果、狭くなっているのだろう。



中島上陸地点


蓬平(よもぎひら)温泉

当初の希望ホテルは和泉屋であったが、工事中ということで「よもやま館」(0258-23-2121)に一泊。



夕食 竹内さん撮影


第2日

朝方、激しい雨。

朝食

史跡めぐり順路

蓬平温泉「よもやま館」→大黒古戦場パーク(北越戊辰戦争伝承館)→八丁沖古戦場→レストラン栄蔵→長岡藩牧野氏資料館→山本五十六記念館→河 井継之助記念館→長岡駅

直線走行距離33m。概算実走行距離1.2倍とすると40km。





大黒古戦場パーク

北越戊辰戦争伝承館は大黒町にある。長岡城奪還のために2ヶ月間続いた八丁沖(潟)作戦の舞台になった戦場跡が伝承館の二階ベランダから見晴らせる。かっては一面の芦野ヶ原であったところが土地改良されて広大な水田になっている。遠くには網張山、大岳、守門岳も少し頭をのぞかせていることが下の写真で分かる。夜陰にまぎれて八丁沖を渡ったコースは下の写真の高圧鉄塔のあるあたりである。





安藤館長から今町の戦い、福井・大黒周辺の戦い、森立峠の戦い、八丁沖の戦、長岡城奪還作戦に関して戦場模型を使って説明を受ける。

展示物には四斤山砲の模型、元込め銃、マンソー銃などお決まりの兵器の話に加え、兵が袖に縫い付けた「袖章」という姓名、所属などを書いた布切れが展示されていた。殺した敵兵の 首の代りにこれを切り取って戦勲の証拠としたわけである。展示物は長岡藩士伊藤祐国32才が倒した長府藩藤井正治23才と長州藩の斎藤義友の「袖章」である。

安藤館長によれば北越戦争は米国の南北戦争の後だったために南北戦争に使われた中古銃が武器商によって多量に日本に持ち込まれたという。





安藤館長には住民側からの視点を詳しくお聞きでき、大変勉強になった。はじめは長岡藩の要請に基づき、租税、食料、労役を提供させら れたが、長岡藩が敗走するとき全家を焼かれ、西軍がやってくると再び租税、食料、労役を提供させられるということで後に何も残らない。

書かれたものには欠落があるというのを実感した。やはり明治維新は下からの革命でもなんでもなく、単なる支配層の交代に過ぎなかったということ。これから日本は自律的に国家を維持してゆけるのかどうか、はなはだ心もとない。


八丁沖古戦場

北越戊辰戦争伝承館をでて長岡東バイパスを南下。亀貝北で左折、亀貝町に入って八丁沖古戦場を探すもみつからず。もすこし東に行けばあったはず。

この亀貝町の北の集落である福島村には長岡城が落ちてからは富山藩の本陣がおかれていた。6月22日の夜襲戦で21軒を焼かれた村民は長岡の侍を恨んだと いう。ここ福島村の西のはずれにかって閻魔堂がある。30才の美貌の貞心尼がここに住んでいるとき、70才の良寛と出会うことになる。良寛は5年後に亡く なるが、貞心尼は良寛の歌を集めて歌集「蓮の露」を編纂。

はじめてあひ見奉りて              貞心尼
君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ
御かへし                    良寛
夢の世にかつまどろみてゆめを又かたるも夢もそれがまにまに


レストラン栄蔵

再び長岡市市街地をでて14km南下し、長岡市釡沢町の高原にあるレストラン栄蔵に向かう。(0258-23-1377)このレストランは予約者にフルコースのフレンチをサービスしてくれる。



レストラン栄蔵にて

ここで北越戦争後減封されて苦しんでいた長岡藩を救うために牧野家の分家の三根山藩からの救援米を長岡藩大参事の小林虎三郎が売却して人材養成のための 「国漢学校」を整備した。この「米百俵の故事」を語り合いながら昼食をいただく。小林虎三郎は佐久間象山に学び、吉田寅次郎(松陰)と共に「象門の二虎」 と呼ばれた人物。



長岡藩牧野氏資料館

長岡藩牧野氏資料館あ旧長岡市役所の中にある。譜代大名の牧野氏は歴代藩主を努めた。表高7万4,000石である。現在の長岡駅は長岡城の 本丸の上に建っている。模型を見ると本丸には天守閣はなく、御三階とよばれた三層の櫓が一隅にあったのみである。河井継之助の屋敷は3重の堀の北側にあっ た神田橋御門の外にあった。


山本五十六記念館

旧越後長岡藩儒学者の六男として生まれた。五十六は薩長が幅を利かせている陸軍はさけて海軍兵学校に入ったという。13代牧野忠篤の口 添えで、旧長岡藩家老の家柄であった山本帯刀家を相続した。24才の山本帯刀は継之助が倒れたのち藩士120名を率いて殿軍となって八十字越を指揮し会津にはいる。しかし飯寺村(にいでらむら)の奪取作戦でとらわれ、降伏を拒否して斬首された。記念館にはブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた一式陸攻の左翼などが展示されている。前端に樹木とぶつかった跡が生々しく残っている。


河井継之助記念館

26才で江戸にでて蘭学を学び、佐久間象山に西洋砲術を学び、松山藩の財政を救った陽明学者山田方谷(ほうこく)に弟子入りした。牧野忠恭(ただゆき)に外様吟味役に登用されるや山中村(現在の刈羽郡)の庄屋と村民の闘争を解決し、藩の組織・財政改革、賄賂・賭博・遊郭禁止、商業発展のための川税、株特権解消、禄高是正、門閥解体などの手腕を発揮した。

この記念館は河井家のあった場所にある。江戸藩邸の売却した金で購入したガトリング砲のレプリカが展示されていた。

長岡新幹線の16:33発で帰宅。

今回の参加者:小川、小粥、竹内、田中、青木の5名

帰宅後、参加者の田中氏から 長岡城奪還作戦に拘泥せず、ゲリラ戦法をとれば大群となった官軍の崩壊もあり得たのではないかとの仮説が提示された。

靖国神社は1864年に長州藩国事奔走志士招魂社を15社464柱祭神として合祀、1865年薩長全招魂社を一社に纏め、九段坂上に『東京招魂社』を 造ったのが源 流である。この中には暗殺された坂本龍馬や刑死した吉田松陰は含まれるが佐久間象山は含まれない。その後、日清、日露、第一次大戦の軍人戦死者、第二次大戦で戦死した日本軍軍人・軍属約230万人、東京軍事法廷戦犯と戦死などしていない山縣 有朋などが合祀されているが会津藩、仙台藩、盛岡藩、鶴岡藩、長岡藩など戊辰戦争犠牲者は合祀されていないと田中氏から指摘があった。

同じく明治政府に逆らった西郷隆盛、青森歩兵第五連隊八甲田山雪 中行軍死199名、ひめゆり部隊の死亡者123名、1945年3月10日の東京大空襲犠牲者、広島・長崎原爆犠牲者の80万人も靖国には合祀されていない。

小川様には大変お世話になりました。

May 7, 2018

Rev. May 31, 2018


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