読書録

シリアル番号 1308

書名

峠 (一 二)

著者

司馬遼太郎

出版社

文芸春秋

ジャンル

小説

発行日

1972/9/30第1刷
1997/6/10第9刷

購入日

2017/08/02

評価



鎌倉図書館蔵

長岡藩家老河井継之助が近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至ら ず、最後には武士として、長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選ばざるを得なかった英雄の悲劇を描いた小説だという。

友人S.K.が長岡にでかけて河井継之助に興味を持って読み始めたときいた。若い頃は司馬遼太郎のファンで手当たり次第読んだものだが、歳とると司馬節にも飽きて、本書はいまだ手に取っていない。そこで図書館より巻一を借りてきて読み始めた。 主人公は想像していた人物とは若干異なるが、こういう人間が居たらしいことは納得。

いきなり冬季の三国峠越えが出てくる。史実は冬の鳥居峠越えだそうだ。江戸遊学中に吉原の花魁の「小稲」を買う場面がでてくる。そして諸国行脚の途中、京 で織部という女性の「ちそう」の饗宴を満喫することになる。司馬遼太郎は女性を描くのが下手。読者サービスのためか増量のために無理して書いているような ところがある。やはり本論の政治向きのテーマになりようやく引き込まれる。

藩主に認められ、郡奉行になったところで。原発のある刈羽村がでてくる。ここの一揆を抑え込む。郡奉行から町奉行になったところで藩政改革に着手。出来た 資金でアームストロング砲、ガトリング砲(機関銃)、エンフィールド銃(前装式施条銃)、スナイドル銃(後装式小銃)などの最新兵器を購入して準備する。

そうこうしているうちに慶喜が大政奉還するという大事件が発生する。河合継之助は藩として徳川と関係を持たず独立して生きてゆこうと提案するが藩主は譜代大名として はそれはできないという。ならば藩主もろとも京にでかけ、将軍を守ろうと言うことにして出かけるが、何もできずに逃げ帰る羽目になる。 こうして事態は悲劇へ向けてひた走るのだ。

江戸屋敷を処分し、その資金で銅銭と米を買って、米を函館で売り、銅銭を新潟で売って資金を稼ぎ、長岡に帰る一計をめぐらす。そのために、横浜のエドワルト・スネルの汽船をチャーターした。ついでに会津藩と桑名藩の武器・要員も同乗させている。チャーター船までは深川の小此木川と隅田川に面した丹後田辺藩から預かっていた小屋敷から手漕ぎボートで移動したという。

主人公の河井継之助は英雄肌の人のようだ、無武装中立で平和が保たれると期待するのはまことにウブで、我々の体に免疫システムが備わっているように、武装 は自衛の重要な要素だ。継之助はこの武力をもって武装中立を構想していたのが、結局、継之助がいよいよ西軍のいる小千谷の慈眼寺に単身乗り込み談判にする と察知した会津藩が松代藩の藩兵が駐屯していた片貝村を襲撃して中立を妨害して頓挫。

幕末に武装中立戦略をとった長岡藩の家老、河井継之助は当時の最先端の武器である機関銃まで手にいれて中立作戦をたてていたとか、しかし不幸にも西軍の指 揮官が狭量だったことと会津藩の妨害で戦争になってしまった。これと相似なのが米国のトランプだ。 時あたかも北朝鮮、韓国、米国、中国、ロシアが入り乱れてパワーポリティックスに夢中。北朝鮮の戦略は武装中立だ。そのために最も投資効率のよい原爆と ICBMを選んだ。これはとても合理的な選択だ。日本の安倍首相がうしろから煽いでいるからブッシュと同じく逆上して北に攻め込むかもしれない。とうぜん とばっちりは日本にもくる。クワバラクワバラ。

ところで片貝とはどこかで聞いた名だと地図を開けて私がここに3ヶ月滞在して帝国石油の天然ガス井を 開け、精製したガスを東京に送るプラントの試運転の運転指揮をとった場所だ。この片貝村の西側に丘陵がある。この山頂より4,000m掘るとガスが多量にあった のだ。生物起源説では説明のつかないガスだ。そういえば我が回顧録では片貝村での生活に関し一切触れていないない。何もない借り上げたアパートで食事をとり、寝るだけだったのだ。夜、窓の外にはこの丘陵の斜面に生える樹木の黒々とした姿しか記憶にない。

戦争になってからの下巻は1月後に完読。北越戦場として
などが出てくる。

司馬遼太郎の語りは久しぶりだがやはり面白い。このような人気の国民作家なのになぜか『CLOUDS ABOVE THE HILL: A historical novel of the Russo-Japanese War』『Kukai the Universal: Scenes from His Life』以外英訳がほとんどないそうだ。漱石、谷崎潤一郎、安部公房、大江健三郎、遠藤周作、村上春樹が英訳されているにもかかわず。司馬は外国では極 度に評価が低く、誰も翻訳しようともしない。理由の一つとして権力というものを疑問もなく天から与えられたものとして是認するところにあるのではという見 方がるという。同じように藤沢周平もあまり英訳されない。

辺境文化で説明できるか?パソコンやガラケーが世界標準になりえなかったのは世界の人間が憧れる文化発信力が日本にはなかったためだろう。エレクトロニッ クスは文化の超安価な伝搬道具だ。日本のエレクトロニックスが世界の中心から外れたのは周辺部族の文化だったからだろう。依然米国がその中心に居るがエレ クトロニックスの製造拠点は韓国、台湾、中国に移ってしまった。こうして日本の弱電と強電産業は崩壊してしまった。携帯電話製造に最後まで頑張って いた富士通も身売りだとか、そのまえにソニー、NEC、東芝全て消えている。原子力だってコスト的にも採算とれないのに、政治が旗をおろさないので傷がジ リジリと深くなり、腐り始め再起不能になるかも。一方トランプはエレクトロニックス製造拠点も米国に取り戻そうとしているが、うまくゆくのだろうか?

経産省は石油精製は自由競争にまかせておけばよいところ、重質油を分解してもっとガソリンの生産を増やし、輸出して稼ぐように税金を補助金にしてもよいなん て言い出した。水素で失敗してるのに恥の上塗りをしようというわけか。しかし石油業界はこの餌に食いつくとかえって損するのでやりたくないと言っている。 死んだ子にカンフル注射するような行為だ。まさに河井継之助がつかまった地獄そのもの。エンジニアリング会社はおいしいおやつをもらっても、1回限りの仕事 ならあまり意味がない。そもそもエンジニアがもう居ない。

というわけで巻二を無理してさがして読んでも気分が悪くなるだけのようだと気が付いた。

郷里の掘直虎が藩主だった須坂藩は外様大名だったが、長岡藩は譜代大名の牧野氏が藩主だ。両者とも洋式軍制を導入したが、掘直虎死後、須坂藩は佐幕の方針 を転換し、新政府への恭順の姿勢を明確にした。長岡藩は佐幕派と認定され防戦しか道はなかったようだ。なぜ両者の軌跡は異なったのか。単に時の流れの渦の結果なのだろう。河合継之助の自信も相手が理解できなく、全く出る幕もなかった。

ところで、河井継之助が若い頃、松山藩まででかけ陽明学者・山田方谷(ほうこく)に弟子入りする話がでてくる。方谷は自分が説く「理財論」 および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。理財論は方谷の経済論。漢の時代の儒者であった董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考 え方で、改革を進めた。この理財論は方谷が佐藤一斎の弟子だったと時に書き上げた。佐久間象山も同じころ一斎の兄弟弟子だった。

それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。而 るにいまの理財者は悉く財の内に屈す。蓋し昇平已に久しく、四疆は虞なし。列侯諸臣は坐して其の安きを享く。而して財用の一途、独り目下の患ひなり。是を 以て上下の心は一に此に鍾まる。日夜営々として其の患ひを救ふことを謀って、其の他を知るなし。

時あたかも財務省理財局の佐川宣寿氏が事の内に立ちて天下の事を処置して国政を混乱に陥らせた。

なお理財局の「理財」の用例は、中国の古典「易経」にある理財正辞(財を理(おさ)め辞を正す)の記述にさかのぼるという。

これ読んで「北越戦争戦場めぐり」を敢行。

Rev. March 17, 2018


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