長崎・島原・天草

周遊ドライブ

グリーンウッド夫妻は2005の2月20-24日、雪、晴、雨と変りやすい天候のなか、隠れキリシタンの歴史を訪ねて長 崎・島原・天草のドライブをした。九州には43ヶ所の天主堂があるそうだが、今回は代表的な5ヶ所を訪れた。

グリーンウッド氏にとっては島原市本光寺蔵の「混一彊理歴代国都地図」(こんいちきょうりれきだいこくとちづ)本光寺図)がある天草と いう点でも興味があった。

観光ルートを外れて多島海の海岸沿いに生活道路をゆっくりと巡ると、思わぬ自然の美を発見できるという貴重な体験をし た。
 

第1日 2月20日

羽田10:25発ANA663で長崎空港着。空港の東側には多良岳(996m)が望める。 長崎空港は旧帝国海軍大村飛行隊の基地の沖合2kmの島を削って建設された海上空港だ。海上自衛隊大村航空隊は旧軍の基地をそのまま使っている。ここで伯父は渡洋爆撃をした 大村飛行隊の訓練に従事したと後で知った。

旧空港でニッサン・チェリーをレンタル。遠藤周作の名著「沈黙」の舞台になった外海(そ とめ)の 黒崎に向かう。ナビが旧式のため、使い方が分からない。とりあえず、目的地設定なしで長崎自動車道、長崎バイパス経由で大過なく到着。途中から雪が舞うよ うになった。黒崎は迫力ある岬だ。この岬の上にある遠藤周作記念館を訪問。文学館からは沖ノ島、母子島などが見渡せる。 その向こうには五島列島がある。五島列島は今回はパス。そして五島列島の向うは隣国、中国だ。取って返して雪のなか、黒崎の付け根にある黒崎カトリック教 会に立ちよる。1879年に来日したフランス人宣教師、マルコ・マリ・ド・ロ神父設計という。

黒崎

黒崎カトリック教会

遠藤周作文学館

ナビを使ってホテル清風に無事到着。 (Hotel Serial No.299)稲佐山中腹の見 晴らしのよいところにある。新婚旅行の時、このような景観は見た覚えがないので。多分市中のホテルに泊まったのであろう。 眼下に三菱重工の長崎造船所がある。長崎湾を横断する斜張橋が建設中であった。かっての出島は今は市街地になっている。JRの駅だってかっては海の中で あったのだ、長崎湾の最奥部はドンドン埋め立てられてきたことがよく見える。ここで平地は全て埋立地とのこと。

第2日 21日

朝起きると雪が盛んに降っている。稲佐山山頂訪問は中止し、山を下り、浦上川を遡って 原爆資料館に駐車する。浦上天主堂、平和公園、資料館は徒歩で訪れる。浦上天主堂では小雪が舞っていた。このロマネスク様式の天主堂は原爆後に再建された ものだ。 原爆の爆心地から500mの距離にあり、壁と焼けただれたマリア像だけが残っていていた。原爆の記憶のために残すという選択肢もあった。しかし長い信仰を 記念することを重視して再建されたのだそうである。平和公園はもと長崎刑務所浦上刑務支所跡であることは知らなかった。監獄の壁は全て倒壊したそうである が、放射状に配置された基礎がそのまま記念に残されている。この公園には西欧のオランダとイタリア以外は旧ソ連圏の国々から送られた記念彫像が圧倒的に多 く陳列されていて、かっての冷戦の跡が刻印されていて興味深かった。

長崎原爆資料館の展示内容は良かった。爆発の瞬間、衝撃波が作る透明な球、その透明な球の中で膨張する火炎、放射熱で過熱される地面、高温になった 地面で加熱された空気が強い上昇気流になってキノコ雲を発生させる過程がアニメーションで 克明に再現されている。米国は多分三菱の造船所を狙ったのだろうが、大分それて、浦上上空で爆発したというのが真相のようだ。爆縮レンズを使ったプルトニ ウム型爆弾、ファットマンの模 型はよくできていた。米軍が3個投下したという爆発を検知するラジオゾンデのうちの1つの実物も展示されていた。気圧を計測するブルドン管がバリ コンを回転させる仕掛けや真空管1個を使った送信機が全て1枚の板の上に組み立てられている。

西坂公園に移動し、そこの駐車場に車を停め、26聖人記念館を見学。1494年スペインとポルトガル間で締結されトルデシリアス協定が契 機となってスペインからフランチェスコ会が日本にやってき たときサン・フェリーペ号航 海士失言事件をおこした。これにより「26聖人の殉教」が生じたという歴史のある場所だ。

長崎原爆資料館

浦上天主堂

日本26聖人殉教地

大浦天主堂下の駐車場に3度目の移動をする。そして大浦天主堂とグラバー亭を再訪する。大浦天主堂(26聖殉教者天主堂)の司教座聖堂(カテドラル)とし て歩みは、1866年にプチジャン神父が代表司教に任命されたことから始まる。昭和37年(1962年)には再建された浦上天主堂が司教座聖堂に指定さ れ、それまで司教座聖堂であった大浦天主堂は準司教座聖堂になった。

クラバーはスコットランド出身で薩摩と長州に武器を売った「死の商人」として財を築いた。いわば倒幕の影の立役者である。三菱造船所の前身のソロバン・ ドックを建設し、維新後は華族待遇で三菱の顧問として東京芝公園地に住み、天寿をまっとうした人だ。グラバー園内にはエスカレーターも設置され、全体にき れいになっている。ここはさすがに観光客で一杯である。

オランダ通り経由でオランダ坂に散策。途中、旧英国領事館のレンガ建てビルがある。オランダ坂はヴォーリズ設計の活水女 学院への私道のようだ。 オランダ坂横にある東山手十三番館は個人所有のコーヒーショップのようであった。

グラバー亭

大浦天主堂

オランダ坂

今日は雲仙までの移動日である。新しくできた「ながさき出島道路」の長いトンネルを使いそのまま長崎ICから高速道路を使う予定であった。しかしここで気 が変り、観光客が踏み込まない枇杷の産地の茂木経由で島原半島に行くことにする。 茂木からは断崖の上の丘の上に生活道路が付けられ、この道路から島原半島と天草下島が一望のもとに見渡せる。石積みの段々畠で枇杷に紙袋をかけて丁寧に育 成している。ビニールハウスが非常に多い。長崎は都心も田舎も墓場がやけに目につく。それに墓石の文字は全て金色に輝いている。こうして観光ルートをはず れた田舎道を満喫した。その後、観光ルートに合流し昭和天皇も立ち寄ったという愛野展望台にも立ち寄ったが、茂木の生活道路からの景色が最高であった。

小浜(おばま)から雲仙に登り始める。雲仙の普賢岳頂上は樹氷に覆われて 美しい。雲仙の高級ホテル半水廬の前を通過してJTB指定の富貴屋につく。 (Hotel Serial No.300)このホテルは八 幡地獄に面していて絶好の位置にあるが、建物が古く、団体客優先 の営業方針で個人客の気分を損ない、悪循環に陥っているようだ。新婚旅行の時は東洋館であったと思う。

茂木から雲仙方向を望む

樹氷の普賢岳

仁田峠第二展望台より平成新山

第3日 22日

朝食後、雲仙の地獄を散策してから出発。仁田峠へ向かう途中の第2展望台から見る平成新山(1,486m)の溶岩ドームは迫力満点である。1990-95 年にかけての噴火のため、丁度10年経ったことになる。まだドームからが水蒸気が上がり、樹木は生えていない。その向こうには島原城の裏山眉山(まゆやま)が一段下に見える。島原湾の対岸には熊本城の西側にある金峰山の山塊が宇土半島、大矢野島、天草上島、下 島と連なって見える。雲仙ロープウェーで妙見岳展望台には登らなかった。

雲仙の東側に下り、島原城に向かう途中、平成新山の土石流の災害現場を巨大な橋で通過する。今ではビニールハウスが一杯に展開している。島原城ができてす ぐに発生したという眉山の崩落の跡もはっきりと視認できる。1637年に約3万人が反乱した”島原の乱”の原因を作ったと司馬遼太郎が指弾する松倉重政が 築城した島原城は確かに立派だ。司馬遼太郎の指摘の通り、破風が無い五層の天主閣は政治目的というより実戦目的であったのであろう。島原城と武家屋敷(鉄 砲町)を散策する。たしかに水田がほとんどないこの半島で、重税を課し、これだけの城を築いた結果、キリシタンの一揆が発生したということは納得がゆく。 平和は利己的な松倉重政とその息子によって破れたという構図である。

混一彊理歴代国都地図」 のある本光寺は武家屋敷より眉山側にある。

原半島東岸を南下、一揆軍が立てこもった原城址を訪問する。松倉重政が島原城築城のために有馬氏が築いた原城から石垣を取り外して運んだというが、結構石 垣は残っていた。

島原城

鉄砲町

原城址

口之津から島鉄フェリーで天草下島の鬼池(おんのいけ)に渡る。鬼池から一走りで本渡町(ほんどちょう)の丘の上にある国際ホテルアレグリアに到着。対岸の雲仙の平成新山を眺めながら、露天風呂を満喫。 (Hotel Serial No.301)

国際ホテルアレグリアから天草上島を望む

天草切支丹館

天草富士

第4日 23日

晴天なるも昨日よりモヤが多い。雲仙岳は見えない。朝一番で本渡町の天草切支丹館を訪れ、天草四郎の陣中旗と1582年にローマに派遣した4人の天正遣欧 少年使節団が持ち帰ったというグーテンベルク印刷機で刷った天草本(イソップ物語、平家物語、太平記抜書、ラテンー日本語辞典など)を参観。全てローマ字 で印刷してある。

天草下島一周は東岸に沿って付けられた生活道路、本渡牛深線で南下することにする。一般観光客は島の中央の道を南下するだろう。東岸沿いでは宮野河内湾、 八幡の瀬戸、八代海、深海湾(ふかいわん)、天草富士など、沢山の入江や未開発の砂浜を堪能した。 ただどの入江の奥もコンクリート製の壁で仕切り、その上に道路を付けて居る。生活のためには便利であり、高潮の被害を軽減するのであろうが、かっての干潟 によどんだ濁水が溜まり、ススキの生える荒地になっているのを見るのは悲しい。 これなら干潟のまま残したほうが、水産資源が確保できると思うのだが。減反時代には水田として耕作する人もいない。たしかにこの界隈では干満差が大きく、 干潟は美観的にも好ましくないということもあるのか。

牛深漁港を渡り、下須島の砂月浜まで南下して反転、茂串、魚貫経由、羊角湾に出る。ここ は観光施設がなく、自然が一杯である。

茂串から魚貫崎を望む

羊角湾

崎津の漁村に崎津の天主堂はあった。丁度ヨーロッパの町の中心に教会があるような感じであるが、ここはかって庄屋の跡とのこと。1855年10月勝海舟が 蒸気機関付き有帆船、”観光丸”艦長として天草来訪の おり、この庄屋に宿泊したことがあったと看板に書いてある。1934年にハルブ神父がここにゴシック風の教会を建設したとのこと。教会は改装中であった。 教会前の漁師さんから醤油と砂糖に浸して日干しにした自家製のアジを買う。これは美味だった。

この少し北には丘の上にロマネスク様式の大江天主堂がある。1932年フランス人宣教師ガルニエ神父が私財を投じて建設したという。

キリシタンの里 崎津と天主堂

大江天主堂

2つの教会を訪問して後、荒尾岳(342m)山頂に車登山。この山頂であやしい外国船を見つけると”のろし”で連絡したと看板にある。急な林道をロウ・ギ ヤで下り高浜に出る。あとは50mの断崖の上につけられた国道を 天草灘を左手にみながら北に向かってまっしぐらに国際ホテルアレグリアに向かう。この雰囲気はロスアンゼルスからサンフランシスコに抜けるビッグ・サーの景観に通 ずるものがある。妙見浦で小休止しただけで富岡岬を回り、東行し、通詞島を左に見ながら鬼池に至り、天草下島を完全に時計回りで回ったことになる。国際ホ テルアレグリアで二泊。

第5日 24日

朝起きると雨だった。雨の中ただひたすらに天草上島、天草松島、大矢野島、宇土半島と天草五橋で渡り、熊本に出る。天草松島にかかる天草五橋からのの景観 は車のなかでチラッと見えたが、景色の良いところは駐車できず、駐車場のあるところは、景観に恵まれていそうもないのでそのまま走行。結局熊本までノンス トップ走行であった。

雨の中、熊本城を見物し た。天草のような水田の無いところから来ると、熊本平野はまるで関東平野のように広く感ずる。このような面積があったればこそ、加藤清正はこのような壮大 な城を築くことができたのだと理解する。 狭い島原を与えられた松倉重政のおろかさを知るにはよい機会であった。歴史にイフはないが、もし松倉重政という人物が居なかったら日本のカソリックはどう なっていたか興味のあるところだ。 熊本城の天守閣は西南戦争の時燃えてしまったので現在の天主閣はコンクリート製のコピーである。それでも外見は木材を使い本物らしくみせている。 破風が立派なため、これは政治目的の天主閣であったと理解できる。最近完成した大手門2つと本丸御殿は 巨木を使った本格建築である。城内至る所にある年代もののクスノキは見事。

いままで鹿児島にあるものと思っていた西南戦争の激戦地、田原坂(たばるざか)は 熊本の北にあるのだと今回はじめて知った。それから宮本武蔵が”五輪の書”を書いた霊厳洞のある霊厳禅寺も近くにあるが、 今回はパス。最後のしめくくりとして三大回遊式庭園の一つとされる細川家が造った桃山様式の水前寺成趣園を周遊して熊本空港に向かう。ここでレンタカーを 返却。全走行距離は566キロメートルであった。

天草五橋の第1号橋 天門橋

熊本城

水前寺成趣園

熊本空港発JAL1812で羽田20:10着。

感想

キリスト教は大航海時代にポルトガル・スペイン人によって日本にもたらされ、急激に信者を獲得したが、秀吉と家康の弾圧で息の根をとめられた。塩野七生は このキリスト教もコンスタン チヌスな くして世界宗教にはならず、ユダヤ教の一派としての地位にとどまっただろうという。コンスタンチヌスはミラノ勅令でキリスト教を公認し、ニケーア公会議で 三位一体のドグマを支持し、この一神教を支配の道具(インストゥルメントゥム・レーニ)として王権親授神話を作り、帝位を磐石にしようとした。このコンス タンチヌスの政策によってローマはローマでなくなり、やがて滅亡する。こうしてヨーロッパは中世の暗い世界に入り、新たなる輝きは啓蒙の時代の時代を待た ねばならなくなったという。歴史の皮肉というか、微妙な色合いを感じさせる旅であった。

旅から帰って、新婚旅行のコースと一部ダブっていたことを思い出し、古いアルバムを開いてみて全く記憶のない部分があることを発見した、記憶では新幹線で 大阪→船で別府→国鉄で阿曽山横断→雲仙→長崎→JALで羽田と記憶していた。ところが驚いたことにやまなみハイウェーの写真、阿蘇山山頂に登ってお釜を 覗いている写真、天草五橋の下を通過する船に乗っている写真がでてきた。そこで考えられるのは、バスで別府から阿曽まで移動し、阿蘇山登山してから国鉄で 熊本に出た。しかし熊本はパスしてバスで三角(みすみ)に 移動し、ここからフェリーで島原に渡って雲仙入りしたことになる。三角港らしい写真もある。島原の記憶は全くないが、写真もない。そもそも島原の歴史には まだ興味を持っていなかったからであろう。雲仙からは多分バスで長崎入りし、市内観光して長崎空港から帰宅したのだろう。長崎市内で一泊した記憶がないの は不思議でないのだ。後、御巣鷹山で殉職されることになるパイロットのご好意で、帰りのJALではコックピットを見学させてもらった。真っ暗なコックピッ トのなかでレーダースクリーンが明るく輝いていたことが強く記憶に残っている。ご冥福をお祈りします。


2013/8/12

吉村昭 「ふぉん・しいほるとの娘  上下」を読む。シーボルトは長崎では出島と鳴滝にしか縁がないが、その連れ合いのお滝などにとっては諏訪社などが大切な存在として描かれる。



2019/11/25

フランシスコ法王が長崎で核廃絶を訴えた。このとき、パウロ三木の4回言及した。パウロ三木は「26聖人の殉教」の一人であったからだが、教皇はアルゼンチンのイエズス会出身だからと推察されている。

February 28, 2005

Rev. November 25, 2019


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