読書録

シリアル番号 737

書名

鎖国の比較文明論

著者

上垣外憲一

出版社

講談社

ジャンル

歴史

発行日

1994/3/10第1刷

購入日

2005/12/14

評価

講談社選書メチエ

妻の蔵書

秀吉の朝鮮侵略の失敗後、家康、家光が次第に厳しい鎖国に入ってゆく背景にはキリスト教国だけとの関係だけでなく、当時の東アジア、特に明と朝鮮との関係があって初めてそうなったという論を「明史」、「徴録」、「徳川実紀」の文献を紹介しながら当時の為政者の心理まで推し量りながら解説してくれる。

鉄砲の製作技術は取得したが日本は硝石を産せず、輸入が必要だったため秀吉にしても家康にしても鎖国は考えていなかった。むしろ中華思想の影響を受けて琉球を征服し、東南アジアを版図に押さえ朝貢させ日本型華夷秩序を作っていた。

しかし不寛容なキリスト教徒が起こした島原・天草の乱にてこずったこと、明が中国南部の福建州などが日本の倭寇と一緒に東南アジアを暴れ回ることに手を焼いた明が海禁政策をとったのを見ていたことから家康が次第に鎖国に傾いてゆき、家光の代で完全鎖国に踏み切ることになる。家光のブレーン、林羅山は明は尊敬していたが対西洋人人種偏見、朝鮮蕃国観を持っていて国をリードしたと文献からわかるという。

田沼意次時代には開国も検討されるようになったが、松平定信執政時代に朝鮮通信使も対島止まりとして一層きびしい鎖国となった。田沼意次は腐敗政治家と教わった。しかし実際には重商主義政策による社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなった。農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村が荒廃する。それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、田沼政治への批判があつまっていく。外国との貿易により国内の金保有量を高めたほか、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、1786年、将軍家治の死亡後に失脚した。田沼意次時代がいまだに腐敗時代という汚名を着せられていることは考えさせられる。

さて1690年にオランダ東インド会社の医師として日本を訪れたドイツ人エンゲルベルト・ケンペルが日本旅行記を書いて鎖国下で繁栄している日本を詳しく書いている。そのトーンはまさに松原久子の「驕れる白人と闘うための日本近代史」に描かれている日本である。もしかしたら彼女の種本はケンペルの旅行記かなと感ずる。

落日のカトリック国、ポルトガルが日本にもたらしたキリスト教は不寛容であった。このキリスト教を弾圧した家康は正しかったと言える。西洋の近代化は、国家の宗教からの分離、科学の宗教からの独立を大きな柱として遂行され、ポルトガルはヨーロッパの近代化に遅れをとったのである。西洋の近代化をを鼓吹した思想家、ヴォルテールは「寛容論」で「日本は世界で最も寛容な国民である。日本では十二の宗派が平和に共存していた。ところが、キリスト教が日本に入った途端に流血である」と書いている。新教国のオランダを鎖国下のパートナーとして選んだのはけだし慧眼であったわけだ。和辻哲郎が「日本の悲劇」で鎖国のマイナスのイメージを過大評価しているが、鎖国を開始したころの日本朱子学の開祖藤原惺窩の「船中策」を読めば、西欧の啓蒙主義哲学に百年先駆けて格調の高い人道主義を述べているという。

ただ問題は鎖国は変転する世界情勢に自ら目隠しをする行為であったことだ。西洋と遭遇した最初のマイナスイメージのままその後の西洋文明の進展に気がつかず大きな出遅れをしてしまった。西洋が近代技術を開発した時点、すなわち開国の機運があった田沼時代に開国していればと惜しまれるのである。しかし同時代の西洋が宗教戦争、スペイン継承戦争、七年戦争、ナポレオン戦争と戦争に明け暮れしていた時期を平和に暮らしたというメリットもあったわけで、どちらが良かったかはその時々の価値観で評価がかわるのであろう。


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