鎌倉プロバスクラブ卓話

ビジネスマン時代

2003/9

グリーンウッド

鎌倉プリンスホテル

森のなかで道が二つにわかれており、私・・・
私は人が通ったあとが少ないほうを選んだ。
これで、その後のことすべてが変わった。

ロバート・フロスト「通らなかった道」

応用化学を学び、石油精製工場、石油化学工場を設計・建設する千代田化工建設鰍ニいうエンジニアリング会社に入社したのは1961年のことです。ざっと40年前です。卒業する時、戦争中は石油精製会社にいて、戦後、大学教授になった徳久先生から石油は19年で枯渇すると聞いておりました。40年後の現時点ではまだ石油は半分残っているのでこの予言ははずれたようにみえますが、もう石油精製業が規模拡大に投資することはないでしょう。いずれにせよ若かったですから先生の言葉を信じ、人生の後半で失業するのは嫌だと思い、また皆がドット目指す方角で押し合いへし合いするのもイヤと思い、配属先は化学工場の設計担当を希望しました。希望を聞いた常務さんはホーというような顔で聞き、この願いを聞き届けてくれました。ほとんどの新人はエンジニアリング会社が得意とする石油精製プラント担当を希望したからで、会社として実績の少ない化学プラント設計を希望する人間は少なかったのです。あとで考えればこの時が人生のターニングポイントだったと思います。

石油精製プラントの設計で忙しく働き、ベテランになってゆく同期入社の連中の背中をみながら、シマッタナと慙愧の思いでした。しかし自分で選んだ道なので文句もいえません。会社が経験のない分野の、実現も怪しげなプロジェクトを追いながらむなしく5年間が過ぎてゆきました。いつも未経験な技術に立ち向かわねばならなく、それも実現しないで試設計で終わるという、賽の河原に石を積み上げるような日々でした。それも先輩に技術指導を受けるというわけでなく、全て自分一人で調べ、構想を練り、設計するという日々だったわけです。

同じような日々が続いていたある日、冷凍LPGを船から受け入れ、大型冷凍タンクに貯蔵し、これを温めてブレンドし、LPGローリーに出荷するという輸入基地の設計が持ち込まれました。会社では誰も手がけたことはないので、いつも器用になにかしらの設計をでっち上げる人間に当座やつけてもらおうという魂胆でしょう。気軽に引き受け、それなりに考えて、設計し、設計図書を積算担当者に渡して、そのようなことをやったことも忘れた頃、私の設計に基き見積もりをして応札したらタンクは別にして付帯設備は他社の半値で一番札になったという報告がはいりました。いままで、そもそもプロジェクトがゴーになったことも無かったのに、競争入札で勝ってしまったのです。心配した上司が私の設計書を点検して、「おれが設計した潤滑油脱蝋装置の冷凍機負荷には撹拌器の軸動力に相当する冷却負荷を入れたと記憶しているが、君の計算書には冷凍LPG船の荷役ポンプの軸動力のうちポンプ損失分しか算入してないね」というではありませんか。チョッと専門的な話しになるのですみません。よくよく考えてみればモーターからポンプの軸に与えられた動力のうち、ポンプ損失分以外は一旦冷凍LPGの圧力エネルギーに変換されますが、最終的には、この圧力エネルギーはポンプ吐出弁や荷役配管で生じる摩擦で熱になるか、位置のエネルギーに変換されます。位置のエネルギーとはタンク液面と船の液面との差に相当するエネルギーです。水力発電所はダムの水の位置のエネルギーを電力に変換しているのでお分かりでしょう。位置のエネルギーは荷役にともなう船とタンクの液面変化に応じ刻々と変化します。荷役終了時は荷役ポンプからLPGに与えられた圧力エネルギーはほぼ全量位置のエネルギーに変換されますので。私の設計とほぼ同じになります。しかし荷役開始時は船内のLPG液面がタンクのそれより高いため、圧力エネルギーは全量熱になります。それのみか船の液がはじめから持っている位置のエネルギーも摩擦で熱に変わりますのでこれも冷凍機負荷に計上しなければならないといことになります。マイッタナ、今更安すぎたともいえないし、なんとかならないかと一晩頭をひねって妙案を思いつきました。絶体絶命の崖っぷちにたつと不思議と頭が回転するものです。大型冷凍タンクはドーム型の屋根を持っていて、底板の隅も内部圧力で持ち上がらないようにアンカープレートでコンクリート基礎に固定してあります。このため水柱(圧力をガラス管に入れた水の高さで表現すること)にして何がしかの内部圧力に耐えることができます。不足する冷凍能力でLPGの蒸気圧がどの位上昇するか計算すると設計圧力の10%と出ました。たったこれだけの圧力上昇で冷凍能力が半分にできるのです。他社より冷凍機など付帯設備費用が半値なのは当たり前だったわけです。荷役が終われば冷凍機負荷はタンク、配管の保冷壁を貫通してはいる入熱だけになりますので、余剰冷凍能力でもって、次ぎの入荷までに冷却すればよいわけです。これは畜熱方式による冷凍機能力の節減法といってよいでしょう。ケガの功名といったところです。顧客はこの設計思想を買ってくれました。以後、この分野では連戦連勝で競争会社をブッチ切り、市場占拠率60%の実績を上げることになります。この中にはあのとてつもない神戸地震を生き抜いたLPG基地も含まれます。まだ若く知的所有権などの知識もなかったのどかな時代ですからこの設計思想を特許にしそこない、いまでは世界の共有財産になっております。

LPG輸入基地の設計・建設プロジェクトをあまり沢山受注できたので、LPGは後進にゆずり、LNGを担当することになりました。プロパン、ブタンがメタンになるだけのことで原理は同じです。日本ではじめてのLNG輸入基地の基本設計のために当時日本橋にあった東京ガスの本社に1年間派遣されて、根岸工場の基本設計を担当させてもらいました。まだ電子計算機が使われる前の時代ですから設計計算書の厚さは8センチになりました。これを東京ガスに提出して帰りましたが、かなり長期間、東京ガスではバイブル扱いだったそうです。本社帰還後は設計課長となって東京湾を囲むほぼ全てのLNG輸入基地の基本設計を手がけることになります。

そうこうしているうちに海外産油国に立地する冷凍LPGやLNGプラントのプロジェクトにも巻き込まれました。米国のベクテルと共同受注したアブダビのLNGプラントの設計のためにロンドンに足掛け3年間、正味1年チョッと家族同伴で滞在しました。3年後にこのプラントが完成したときには、試運転のためにアラビア湾のほぼ中央にあるダス島という軍艦島のような島に約7ヶ月篭りました。山積する問題点を一つ一つ解決しながら巨大なプラントに命を吹き込んでゆく醍醐味をたっぷり味わいました。その次にベクテルと共同受注したインドネシアのスマトラ島にあるLNGプラントの建設プロジェクトではプロジェクトマネジメントを担当しました。動員設計技師数350人、ピーク時の現場作業員5,000人という巨大プロジェクトでした。

根岸工場にアラスカから輸入されたLNGは温度の異なる純粋冷媒で天然ガスを順次冷却する3元カスケード法で製造されましたが、その後建設されたLNGプラントでは混合冷媒を使い、巨大な液化器で一挙に冷却液化する方式が採用されました。この冷却サイクルを逆回しにすればLNGを気化して天然ガスに戻す工程で電力を回収できることに気がつき、今度はぬかりなく特許を申請いたしました。東京電力にこの構想を持ちこみましたところ、既に純粋冷媒を使う方式の研究開発に着手していたためと、巨大組織ですから決断はすぐにはつかずグズグズされておりました。幸い東京ガスが採用を即決してくれましたのでパイロットからはじめ、遭遇する技術的な問題を一つ一つつぶしながら商用機までたどりつきました。この開発過程もなつかしい思い出となりました。この商用機は今でも15年以上安定して稼動しております。

巨大プロジェクトに関わるようになると、プロジェクトの端境期に企業内失業する時期が出てまいります。そのような時期にお助けマンとして帝国石油が開発した新潟の長岡地区の地下4,000メートルのグリーンタフという地層から産生するガスを集め、精製して東京地区に連なるパイプラインに送入するプラントのスタートアップの総合指揮をさせてもらったことがあります。帝国石油はかってこのようなプラントを運転したことがないので運転指導はコントラクタの責任であるという契約でありました。70人の運転員を預かり、ガス井に サファイア製のプランジャーポンプで防錆剤を注入することからはじめ、クリスマスツリーの次に設置した調節弁を開けてレトログレードコンデンセーションにより発生する 液とガスの混合2相流を流すフローラインを生かし、ガス系、コンデンセート系を遂次スタートしてゆくので す。フローラインはある程度の流速以上にしないと駅が溜まりすぎてスラグとなり、これが液ガス分離器に入るとその能力を超えてしまいますので、一気に勇気をふるって調節弁を開かなければなりません。圧巻はフル操業中の停電を想定した実機テストでした。安定運転している時に突然買電のメインスイッチを切って、自家発電機が自動で立ち上がるのを確認し、重要でないとして自動停止した回転機械類を順次手動で立ち上げて、安定運転に復帰させるのです。この間もガスの処理は継続されつづけパイプラインへのガス供給が途絶えることも製品品質が仕様からはずれることがあってはならないのです。部分テストはしてもこのような過激な総合テストは初めての経験でした。その後も聞いたことがありません。部分テストをすべてパスした後、自信をもってこれをするのですが、総合運転指令室でスイッチを切る直前の切ない気持ちがいまでもまざまざと思い出されます。全ての試験を完了した打ち上げ式ではしこたま酔ったものです。

時期は前後しますが、お助けマンとしてはエチレンを2元カスケードサイクルで冷却して常圧の液体にしてケミカルタンカーに出荷する設備の試運転や水素と一酸化炭素の混合物のリフォーマーガスを深冷分離してオキソ合成ガスを製造するコールドボックスの試運転を指揮したこともあります。 エチレンの2元カスケードサイクルではエチレンの気液分離機の液のボルテックス現象を経験しました。オキソ合成ガス製造用コールドボックスの低温は窒素のターボエキスパンダーとジュールトムソン膨張のカスケードサイクルで発生させておりました。コールドボックスは通常保冷材と窒素ガスが封入してありますが、このコールドボックスは内部にもう一つコールドボックスがあり、内部温度が窒素の液化点以下のため、水素ガスを封入してありました。しかし粗製水素ですので一酸化炭素を含み、 これが微量外気に漏れるため、運転員には評判の悪い装置でした。

20年間天然ガス関係の仕事をしてそろそろ飽きがきたころ、当時新技術としてもてはやされたバイオテクノロジー関連のプロジェクト部長を拝命しました。まったくゼロから勉強しましたが、若い頃の5年間に身につけた手法でなんなく適応でき、遺伝子組み替え動物細胞を培養し、これが産生する生理活性物質を抗体をリガンドとするゲルなどで精製して医薬品として生産する設備もいくつかてがけることができました。無論化学合成による、抗菌剤などの化学合成工場も手がけました。16段階の化学合成を駆使する製造技術でした。これは日本で開発された新薬で 末端価格換算の売上高は年間1,000億円という成功例です。細胞内のRNA合成を阻害する薬のため、抗生物質などのように耐性菌がでてこないため、医者に人気がでて世界をマーケットにできましたので3ヶ月でプラントの建設費が償却できたそうです。

年をとると、次第にマネジメントを担当せざるをえず、実線から遠ざかるのはやむをえません。私は管理志向の人間ではありませんので、プロジェクトに設計エンジニアを提供する部門に所属する900人のエンジニアをあずかって設計作業の生産性を高めるという自己矛盾的な命題を前に苦労しました。配管設計などマンアワーを擁する設計作業はコストダウンのため、当時すでに国内の設計専門会社にアウトソーシングしておりましたが、これら設計専門会社に当時開発されたCADという新技術を使って設計し、立体障害を自動チェックし、材料拾いも自動化するように仕向けるのは至難のワザでした。設計専門会社の経営者はたたき上げのエンジニアでCADを使うという経験もインセンティブもないわけです。また零細企業でCADに投資し人を再教育する余裕もありません。結局、国内は切り捨て、海外に設計会社を設立して新人を採用し教育して使うという方向になりました。このように役員の末席を汚していた期間には良い思い出はありません。ストレスに耐える8年間でした。でも時々、営業のフロントに出ることもありまして気持ちのよい思い出もあります。カタールの砂漠にグラスルーツで建設するLNGプラント建設プロジェクトの設計が完了し、工事の競走入札があるとの情報があり、この設計を監督しているメジャーオイルのエンジニアリング部門のナンバー2に表敬訪問に出かけることになりました。出発の直前、長年一緒に仕事をしてきたベテラン・エンジニアが「顧客が設計上の問題を抱えて、困っているが、うまい解決法がある」とささやいてくれました。そこでこのナンバー2にあったときチョッとささやくと、顔色が変わって、明日担当の部長達をあつめるので詳しく説明してくれというではありませんか。うろ覚えですので一晩中、電話やファックスで詳しい資料を本社より取り寄せて勉強し、寝ずにA4、1枚のサマリーシートを作成しました。これを持って説明したら部長達は目からうろこという顔をして聞いてくれました。質疑応答をいれて2時間は立て板に水としゃべりっぱなしでした。結果は設計変更を含めて、本工事の受注に至りました。1,600億円の受注が一言ささやいたことから始まったので大いに面目を施したわけです。このようなことは、顧客よりも技術レベルが高くなくては不可能なことであります。顧客の部長はちょうど弟子のような気持ちで話すことができました。

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オフィスで

技術部門のトップを勤めているとあらゆるトラブルの報告が上がってきます。それぞれ専門家を派遣して解決するのですが、難しい問題で適任者が見つからないときには自ら現場に出向き直接原因究明の指揮をとったこともあります。なかでも重油の水素化分解装置の火災の原因究明は、不謹慎ですが、自らの持てる知識を総動員して解決するという醍醐味を味あわせてもらいました。

ちょうどビジネス人生の終わり近く、エンジニアリング企業もご多分にもれず、日本企業同士で無益な価格競争を繰り広げて大いなる痛手を被りました。この渦中にあって大変苦しい経験をしました。その後、環境調査をする社員50人程の子会社の経営を2年担当して引退しました。現在、在籍したエンジニアリング会社の株価は昔のレベルにもどりました。利益の源泉はいまだにLNGプラントで、かっての直属の部下ががんばっております。自分が切り開いた分野が今の会社のメーンストリームになっており、苦労して立ち上げた海外の設計会社が稼動しているのを見るのは気持ちのよいものです。石油資源はもう半分使い切ったといわれ、今後は天然ガス時代がしばらく続きます。当分は仕事が期待できます。しかし第二、第三のストリームを後輩達が開発してくれなければ、いずれは時代に取り残されてしまいます。皆が行くほうにぞろぞろついて行って不毛な価格競争をするのではなく、わが道を考え考え新たな道を切り開いてゆく人がでてこなければ将来はないと、自分の経験から感ずるわけです。”鶏頭となるも牛後となるなかれ”です。

塩爺こと塩川正十郎前財務相が「ホイッスルが鳴るまでロスタイムを大事にして有意義な人生を送りたい」といって引退されましたが、私も全く同感です。引退少し前にハーレダビッドソンを購入し、75歳の石原氏をボスとあおぐロータリークラブのメンバーで構成されるハーレークラブに参加して、北は北海道、南は九州、海外は米国のルート66、そしてニュージーランドまで遠征しました。定期的にツーリングを楽しんでおります。引退直後にはベルギーから24フィートのセーリング・クルーザーを輸入し、横浜ベイサイドマリーナに係留して 浮かぶ別荘として楽しんでおります。この他、中学・高校時代の親友4名で構成される登山グループWakwak山歩会(わくわくさんぽかい)に所属して3年、毎月どこかの山に登ってます。今年は中央アルプスの縦走をいたしました。生まれつきの高所恐怖症からなかなか脱却できず、急峻な岩場やナイフエッジのキレットなどは苦手としています。最後にグリーンウッドというペンネームでウエブサイトを主催し、世界に向けての情報発信することも趣味として行なっております。

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2003/10/19

Rev. June 3, 2009


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