ケロニアIII世号

2004年7月3日(土曜日)、晴れ、南西の風、5m/sec。 大学同期の安部君がヨット部同期の鈴木氏らが所有する36フィート艇、ケロニア号、(Kelonia)の乗艇会に参加しないかと声をかけてくれた。小網代 湾に係留してあるという。横須賀線と京急を乗り継いで、三崎口で合流。シーボニア入口バス停下車。グループが賃貸している民家に着替えを残し、桟橋にゆ く。ケロニア号ではメンバー5名が出航の準備に余念がない。手漕ぎテンダーで迎えに来てもらいブイに係留されているケロニア号に横付けする。小網代湾の奥 は葦などが生えた自然が残っていて心地よい。東京湾はほとんどコンクリート護岸に取り囲まれているがここは自然の優美なスロープが残っている。専用バース をもつ瀟洒な水辺の別荘なども散見される。

船は横山2世の設計の36フィートのレース艇という。やけに大きいと感ずる。特にコックピットが広い。メンバーはレース 指向のグループとお見受けした。鳥羽、大島、ハワイのレースには何回も参加して賞をもらったそうである。グリーンウッド氏と同じ世代がメンバーである。 「最近の若者はヨットはキケン、キツイ、キタナイと敬遠し、よりつかなくなった。シャワーとクーラーがないのが気に入らないのかも。レース参加艇の数も激 減している。山も同じでしょう」という。まさにそのとおり。たしかにヨットは快適な乗り物ではないが、完全に燃焼しつくさない生き方などどこが面白いのだ ろうかとも思う。せっかくまわりは海だというのに、内陸に閉じこもっていてはもったいない。

川勝平太が「奈良時代以前の倭の国の時代は海洋志向であった。しかし663年の白村江(はくすきのえ)の海戦で 唐に負けてからは内陸志向が鎌倉時代まで続く。1274年元寇の失敗で中国がシナ海の制海権を失い、倭寇の跳梁する海洋志向の時代がくる。この海洋志向は 室町時代も継続されるが、1592-1598年の秀吉の朝鮮出兵の敗北以降、江戸時代を一貫して内陸志向になる。明治期に海洋志向になるが、1941- 1945年の太平洋戦争の敗北で内地志向になった」という。民族学者の柳田国男は「日本は海に背を向けて暮らしてきた」と慨嘆したとおりだ。戦後の高度成長期にようやく海洋指向の方向に向かったのに、1990年代の第二の太平洋戦争に負けてチジミ指向になってしまったのだろうか?

ブイに手漕ぎテンダーを結び、エンジンを始動、モアリングロープをレッツゴーして風上に向けて1艇身前進し、90度回頭して他の船の間を縫って水路に出る。うまいものだ。シーボニアの岸壁にはチャーター用大型帆船が係留されているのがみえる。

コックピットの面々 (渡邊龍彦氏撮影)

スピネカー上げてランニング

ジブ上げてスピン取り込み

相模湾に出ると穏やかな風で台風7号がはるか沖合いを東に去った直後であるが、うねりは長波長でマストトップの風速も 7m/secで穏やかなセーリング日和であった。それでも5-6ノットは出る。第3ジブで初島方向に切りあがり、南東方向にみえたブイを回航し、スピネ カーを上げて帰路につく。ジブを再度あげ、スピンを取り込んで2番目のブイを回ってフィニュッシュ。3時間のセーリングであった。相模湾は本船もなく、の びのびとセーリングできるのがうらやましい。たった1回のタックで帰ったわけである。

船にヘッドはあるが、ビールに起因する生理現象を解決するためにトランサム上に乗り出して深川芸者よろしく立ちションする醍醐味も味あわせてもらった。帰港後、ブームにカンバスを張って、その下で、乾杯と昼食とする。過去のなつかしいセーリングの思い出話が楽しい。

大学運動部出身のヨット乗りにはバンカラの気風が残っていて、ライフジャケットなど着用しない。過去に落水事故も経験し ているらしいが、落水者の写真撮影する余裕すらあったようだ。シエラザードの共同オーナーはICUのグリーンフィールド教授夫妻なので、K氏はライフジャ ケットを着用するのが習慣となっている。リスクを忘れて冒険しようという文化とリスクにそなえて冒険するという文化の違いが面白い。グリーンウッド氏はシ ングルハンドなので当然ライフジャケットに加え、ライフラインも使う。だれも助けてはくれないためである。

若き頃、ミラークラス・ディンギーで遊んだ三戸浜は小網代湾のすぐ北隣にあり、その沖合いの亀城礁も持参の双眼鏡で視認できた。Festina Rente III号で城ヶ島を回航したときより、城ヶ島には建物が増えた感じである。


トップページへ