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シリアル番号 表題 日付

1428

縮小社会
2014/07/18

総合知学会森田富士男氏推薦書

●竹村公太郎、「日本史の謎は『地形』で解ける」、文明・文化編、PHP研究所、2014/07/15
竹村は東北大で土木を学び建設省でダム建設、治水の行政に携わり河川局長を務めた。地形を見ながら神田上水のルートを探して歩いたことがあるおたり、行徳 運河を歩いたり、利根川の東遷地点を歩いたりしたほど私は地形に興味があるのだが、竹村氏は専門家として詳しく考察している。

織田信長がなぜ比叡山を焼き討ちにしたかは京都への峠越えの「逢う坂の地形」に織田信長が恐怖したためであるとする。桶狭間の山中で圧倒的な勢力の今川軍を破った体験がそうさせたのだという。

信長は1570年〜80年の11年間、各地の一向宗と血みどろの戦いを繰り広げた。この一向宗の本山が大坂の石山にあったので石山本願寺戦争と呼ばれた。 この戦いには2つの謎がある。なぜ、信長はあれほど石山本願寺にこだわったのか? なぜ、あれほど戦いが長期に泥沼化したか?信長は一向宗にこだわったの ではない。「石山」という土地にこだわったのだ。石山とは大阪市中央区の上町台地を指す。縄文時代この上町台地は大阪湾の海に突出した半島で河内湾の西側 を囲っていた。戦国時代の海面はすでに下がっていたが、満潮には海流が北の淀川、南から河内湾にそそぐ大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地 帯であった。浪速(なにわ・なみはや)、難波は名前のとおり海の波にさらされていて、大坂の河内もまさに「河の内」であっ た。当時の大坂、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台であった。さらに、当時の物流を担っていたのは船運であった。その船の行き交う要所が この上町台地であった。この上町台地は淀川の河口に位置していて、京都の朝廷を牽制できた。さらにここは貿易港・堺への通過点であり、西国大名を討伐する 最前線基地でもあった。「石山」つまり上町台地は戦国の世を平定するため絶対的に重要な地であった。これを読むと古墳時代になぜ河内長野に半島からの帰化民族が多かったかも理解できる。

伊豆半島に配流されていた源頼朝が東伊豆から三浦半島・房総半島と行き来していて、挙兵前から三浦氏や千葉氏などの豪族たちと交流があったという想像に発展している。

また、徳川家康が江戸に本拠地を構えたのは、土木工学的には卓見であって、まず江戸から関東地方のあちこちに(東京湾の海路で)行きやすいように、小名木川という日本橋から行徳までの運河を作って、海路・水路で荒川・利根川水系をたどって関東の領地のほとんどに簡単に行けるように水運を整備したこと。利根川を東遷さ せたこと。江戸城の石橋(俗に言う二重橋。本当の二重橋はその後ろの橋)は家臣が出入りする門だが、江戸城建設当時は湿地帯なので、正門はそちらではな く、以外にも新宿方向を向く半蔵門が正門であることを土木工学から明らかにし半蔵門が江戸城の正門であることは、今でも今上天皇陛下しかその門を使わない という習慣からも証明できるのだが、この本ではさらに進んで、その天下の正門である半蔵門のあたりに赤穂浪士が潜伏していたことから、赤穂浪士は幕府に保 護されていた可能性を明らかにしている。

また、一方、赤穂浪士が狙う吉良上野介の吉良家と徳川家は三河の塩田開発を巡って対立関係に有り、塩田開発が吉良家から徳川家に移っていったことを指摘。 さらに吉良家が元々室町時代は三河の守護職であったことから、吉良家は目の上のコブだったという可能性を指摘。つまり、幕府が赤穂浪士を助けるだけの理由 があるとする。

●水野和夫、「資本主義の終焉と歴史の危機」、集英社

●萱野稔人、「日本とは何か」、NHK出版
土地をめぐる争いが多く、土地を自分で守らねばならなかった封建制を経たからこそ、日本は法の支配や軍の編成という近代化がやりやすかった。災害が多発す る国土の厳しさが勤勉性を培ったが予測のむずかしさから危機管理意識を欠く国民性に影響した。拡大再生産をモットーとする資本主義下では集団主義や中央集 権が自己イメージとして定着した。これからは縮小社会になるので日本人の自己イメージは変わるだろう。

●藻谷浩介、NHK広島取材班「里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く、角川書店、2013 30万部のベストセラー。

日本がデフレになったのは物が売れないから。なぜ、モノがうれないかというと人口が減少に転じたから。日本の再生は地方から、エネルギーは里山から、鉄筋 コンクリートから木造住宅へ、加工貿易立国は資源高で逆ザヤ。分業の原理への異議申し立て、マネー資本主義へのアンチテーゼ、グローバル経済からの奴隷開 放、耕作放棄地は資源。林業の再生に関しては私はすでに「広葉樹林と発電」を書いている。

友人の元NHKディレクターO氏から井上恭介 NHK報道局報道番組センター チーフ・プロデューサーの2014.8.28の記者クラブでの講演のヴィデオを 見ろと言ってきた。私は里山という用語には抵抗があるわけで、まだこの本は読んでいない。なぜ里山という用語に抵抗感があるかと考えるに、私は先祖からう けついだ稲作という農を捨てて東京にでて集中の極にある世界のエネルギープラントの設計と建設という職業を選んだのだから今更里山もないわけ。しかし気がつけば我が家の裏には広大な里山が 残っていてこの10年間、散策のほかに、倒木や木の成長速度測定など観察していろいろ考えさせられた。地元の里山だけではなく、10年間毎月登山していた から日本の戦後の集権的林業行政の失敗の傷跡を観た。2003年に西沢さんに誘われて薪エンジンを設計した時にひらめいて「広葉樹林と発電」 という論文も書いた。

このヴィデオで印象的だったのは県別のマネーフローだ。田舎は常にマネーフローがマイナス。当然なことに集中型経済は国家のマネーフローが均衡していれば よいわけ。国家でバランスしていれば税金などによる再分配機能があるのでいいのだ。ところが日本は少しおかしくなってくると再分配する金もなくなる。そう するともう一度分散経済にならざるを得ないというのが日本の置かれた現実だろう。

「広葉樹林と発電」論文の主旨は分散に集中の技術を適用しようとしたのだが、日本の急峻な山地で安全に動き回れる伐採機やチッパーを開発して「広葉樹林発電」をしよ うとする企業家を育てるのは手に余るわけでそのままになっている。群馬の山持ちが話してくれといってきたが、私の皆伐方式には抵抗感があるようだった。会 社の後輩がもっと林業者に受け入れられやすい間伐材を林から運び出す方式を研究している。

私が再生エネルギーに拘るのは分散経済にあるわけ。それを里山資本主義といってもよい。ヨーロッパのサステナブル経済という思想もおなじだろう。私の田舎で同じ同姓、同い年の男がいる。彼は工 業高校卒業後鉄工所を経営していたが長野市の市会議員になって、オリンピック招致を提案して実現し、その栄光と失敗を観ている。その弟はサラリーマンをし ていたが、今年、先祖伝来の田んぼをすべてつぶしてウン千万円の蓄財を再投資してPVを水田にしきつめた。これも立派な里山資本主義だなと思う。

日本政府、経団連、電力などは頭のなかは集中・集約しかないから、困ったものだ。西洋と東洋が海洋貿易に同時のりだしたそのとき、信長が村上水軍にてこずっ たのを見て秀吉が海賊停止命令をだして以来、日本は鎖国にはいり、西洋に完全に出し抜かれた。明治期に技術だけは西洋からもっらたが、いまだに分散経済を 揺りかごとする産業育成をつぶす悪いくせがある。電力(秀吉)の再生可能エネルギー(村上水軍)潰しというわけ。NHKはこの里山資本主義をもっとスケー ルのおおきなコンセプトにそだててくれればいいのだが。そのまえに頭の中が集約しかない安倍政権に骨抜きにされていまうかも。

農水省の六次産業の旗手としてサンクゼールがあるようだが。これは地産地消の里山資本主義ではない。つらつら考えるに「里山資本主義」は目標すべきものではなく、国家が衰退した先にある熱力学でいう熱的死のようなものだろう。


●中野孝次、「清貧の思想」、草思社、1992
西行、芭蕉、越後五合庵での良寛、鴨の長明と方丈庵などに代表される清貧の思想の復活が人類を救う

●佐々井信太郎、「報徳生活の原理と方法−平和に生きる道」、一円融合会、改版、1995
二宮尊徳の思想
Rev. September 11, 2014


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