読書録

シリアル番号 762

書名

越前の諸道

著者

司馬遼太郎

出版社

朝日新聞社

ジャンル

紀行文

発行日

1987/2/20第1刷
2004/6/20第18刷

購入日

2006/4/12

評価

街道をゆくシリーズ18

能登半島・若狭湾の旅の旅の予習として買う。

永平寺は曹洞宗の大本山として鶴見の総持寺より有名だが、永平寺の開祖道元は現在のような大伽藍にすることは欲していなかったそうだ。大伽藍にしたのは彼の死後、第三世の義介とのこと。道元の参禅三昧の修行をよしとした弟子は中国から道元に従ってきた寂円だそうで、彼は宝慶寺という小さな寺を大野盆地の南の谷間に建てた。この寺は今は住職はおらず永平寺の雲水が5人ずつつめているということだ。司馬 遼太郎はここを訪れた後、勝山市の平泉寺・白山神社を訪れる。

公地公民を理想とした律令時代は日本の国土を国有化し、公地の農民は農奴として使役されたので労働意欲は低かった。そこで公地とは別に新に開墾したものには私有地を認めることになった。こうしてできた荘園には公地から逃散した農民が逃げ込んだ。貴族、社寺が荘園のオーナーとなったが力が弱かった神仏混合時代の白山権現をまつる平泉寺・白山神社は天台宗の比叡山の傘下に入ることで新に開墾した土地の安堵を得たという。当時の修験者とは地主ということのようだ。こうして平安期は泉寺・白山神社は栄えるのだが、律令制が否定された鎌倉期以降は力を失ったという。

農民にとっては白山権現をまつる平泉寺・白山神社は地主であり、煙たい存在であった。農民に一向宗が広がると、平泉寺・白山神社は焼き討ちに合い、完全に歴史から消え、徳川期にささやかに復興されたという。 それでも一旦焼き払われ徳川期に植林されてよみがえった菩提林はみごとなもののようだ。

越前に恵みをもたらす白山の雪融け水をあつめて流れる九頭竜川の河口三国湊は継体天皇の出身地だ。1999年に訪れた東尋坊の直ぐ南にある。


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