沙羅双樹の花

釈迦は80才の時、古代インドマッラ王国のクシナガーラ郊外の沙羅双樹のもとで頭を北にむけた床で入滅したとされる。 その時、双樹の一本が枯れたという。沙羅の木は二葉柿(ふたばがき)科の高木で日本では温室以外では育たない。日本で一般に沙羅の木と呼ばれるものは夏椿で全く異なるものである。 昔、ある僧侶が沙羅の木は日本にもきっとあるはずと山に入って探した。文書にある沙羅の木に似ていた夏椿をそれだと思い込み喧伝したためという。

平家物語には「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」と表現されている。平家物語を書いた人は夏椿の花の色を見て書いたと考えられている。天城山に多い姫沙羅も椿科の植物だ。

ところでお釈迦様が悟りを開いたところにあったという「インド菩提樹」はクワ科の熱帯樹でこれも気候的に日本では育たない。日本で菩提樹とされるものは中国原産のシナノキ科の木でインド菩提樹とは異なるという。シューベルトのリンデンバオムは西洋シナノ木とのこと。 下の沙羅の木の花の写真は亜細亜大学の飯島正名誉教授がたまたま仕事でネパールを訪問した2004年3月18日、ネパールの標高1,150mにて撮影したものである。

沙羅の木の花

先生は東京農業大学卒業後、米国のワシントン州ベリンガムにあるウエスタン・ワシントン大学、ICUなどの教授を歴任後、亜細亜大学で経済学を教えておられた方である。アジアの開発・環境・環境協力を研究している国際関係学部の教授で退任され。大学の理事を兼務されながら新潟の案山子山荘で農耕と著作活動をされながら悠々自適の生活をされている。

先生は1969年、スリランカ→ボンベイ→ネパール→パキスタン→アフガニスタン→イラン→イラク→アラビア半島のコースをたどる亜細亜大学主催、鈴木自動車 ・毎日新聞後援の第二次アジアハイウェイ学術踏査隊を率いていた。ちょうどニューデリーに滞在中、インディラ・ガンディー首相官邸に招かれて、スズキ自動車との提携のためのコンタクトを依頼されたという因縁を持つ方だ。

これが契機となってインディラ・ガンディーの次男のサンジャイ・ガンディーが1972年に小さな自動車製造会社を設立した。彼が不慮の航空機事故で亡くなった後、インディラ・ガンディーがこれを国有化し、1982年にスズキが合弁相手として選ばれ、インドの自動車会社として成功し、今日に至っている。カースト制が国民一般を束縛する国で日本式企業経営方式が成功を収めた好事例となっている。(アジア研究所所報第49号1988年1月11日)

先生から玄奘訳の佛説摩訶般若波羅蜜多心経、サンスクリット原典、中村元氏の現代日本語訳 、鈴木大拙氏の英訳をいただき、この4つを対比して読む楽しみを教わった。

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Rev. October 9, 2006

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