第20章 1985-87年

バイオケミカルテクノロジー・プロジェクト

部長拝命

 

 

新規分野進出

私がインドネシアの天然ガスプロジェクトのマネ ジメントで多忙を極めていた 1981年、創業社長が病死した。創立以来、社長を支えてきた技術屋の期待の星、森所副社長は引退し、創業社長の娘婿、ジュニアが二代目社長になった。 1979年、ブカレストで開催された世界石油会議に出席した時、森所副社長が私の横に席をとり 、

「もう疲れたよ、早く引退して静かな余生をおくりたい」

としみじみとおっしゃっていたことを思い出す。その時は本心ではないだとうと適当に聞き流したが、それは心底からの言葉だったのだろうか。エンジニアリン グ業界にありがちなバーンアウト症候群にかかっていたかもしれない。この業界にいると普通人の2倍以上のストレスにさらされるのだ。奥様が健康を心配して 社長は引き受けてはいけないと強く言われたとも聞こえてきた。

二代目社長になったのはジュニアであった。ジュニアは陸軍士官学校主計出身の人間である。

創業社長が森所副社長に

「娘婿をよろしく」

と遺言したと言われているが、作り話しかもしれず、真相は闇の中である。

14年過ぎた最近知ったのだが、ロンドンでの戦友であったかってプロジェクトマネジャーの前葛専務がくも膜下出血で急逝した時には次期社長に内定していた のだという。受注活動のため、月2回のペースで海外を飛び回っていたので疲れ切っていたのだろう。葛専務が急逝したとき、通夜には近くに住んでいた 百平一人を除いて千代田の人間はだれも夜を明かさなかったという。 葛専務にその国際交渉力を評価されて難しい交渉ばかりをさせられていた平たくなどは、南山から「葛専務が死んだ、これでおまえもおしまいだな」とあからさ まな電話をもらったという。 平たくはもはやこれまでと競争会社のベクテルに転籍した。それまで葛専務の回りに腰ぎんちゃくのようにくっついて離れなかったセニョールこと川畠などは手 のひらを返すように離れていったという。赤坂の教会で営まれたお別れの会には社員のほとんどが列席した記憶があるが、これがご遺族との感情のもつれとなっ て長く糸を引くことになった。以後ずっと気まずい思いのままである。なにより会社が失ったガバナビリティーは大きかった。そしてこの損失が次第に顕在化す ることになる。

1981年から1984年までは先代社長が残した遺産で会社は好調であった。特に私の担当したインドネシアのLNGプロジェクトとサウジの石油精製プラント建設プロジェクトは空前の利益をもた らした。2,500人の社員が1年間遊んで暮らせる金額であった。当時健在であった前葛専務は「これからしばらくは無駄なあがきをしないのがベスト。社員 に手持ち現金で現在の給与の半分を保証するから今後5年間は会社は休業すると宣言する手もあるなと」 言うんだよと東頭氏から聞いた。私は最も賢い方策だと思ったが、「5年後には誰も居なくなっていますよ」と東頭氏に言ったのを覚えている。

1985年から2000年までの15年間はわが社の栄光から転落への歴史と重なる。時あたかも日本の高度成長も終わり、中東のマーケットへの進出もはたし ていたが、大型のプラント投資は一巡し、プラザ合意の余波で 極端な円高になり、世界的にプラント投資意欲は低くなくなっていた。 プラントマーケットが極端に縮小したのである。巨大プロジェクトを旺盛な食欲でたべて来たマンモスのような企業にとって餌が極端に減ってしまったのであ る。余剰の人員を減らすことはできない。経営陣は若手を集めて委員会をもうけ、今後どうしたらよいか提案せよという。後日わかるのだが 、我々が苦闘している間に米国の名門エンジニアリング企業のバ ジャー、スタンロジャー、カタリティック・コンストラクションなどが消えてなくなったのである。技術ライセンシングや基本設計に特化してかろうじ て生き残っているという惨状であった。

当時の世界的潮流は多角化であった。多角化は米企業が企業買収を重ねて巨大化する過程でそうなったのだが、日本企業は社内の余剰人員をどう始末するかとい う観点からなされた。同床異夢なのである。本業がだめなら多角化すればよいではないかというわけである。自分の専門分野でないところにチャンスがあるので はと思い込むことをヴァージ ン・バイアスというそうだが、至言である。

会社創立の目的は石油精製業や化学装置産業をコアビジネスの顧客としていたため、化学系のエンジニアが顧客の要求を受けてフロントエンド設計し、土建、電 気、計装等の部門のバックエンド・エンジニアがこれを詳細に具体設計にするという体制であった。マーケットが拡大しているときに少ない社員で対応するため にアウトソーシングしたバックエンド・エンジニアリングをマーケットが縮小したとき、内作に取り込むという選択が望ましいのであるが、一度 面倒な仕事を下請けに出して楽をすることを知ったバックエンド・エンジニアリング部門がきらった。一旦楽するとやめられないのである。それに給与レベルが 高くコスト高の問題もあった。

多角化すればいままで背後で支援していたバックエンド・エンジニアもそれぞれの分野で直接顧客の注文に応じられる平面展開体制となる。バックエンド・エン ジニア達は自立を欲したのである。紅衛兵のような元気な文系営業のみこしに乗って彼らは船出したのである。 中には望んでしたことではない。命令に従っただけだという人もいる。しかし一旦門出してしまえば同じこと。悲しいかな、それぞれの部門で独自の新技術を持 たずに既存分野のマーケットがバブルで拡大していたときに参入したため、利益を生む部門には成長するどころか、バブルがはじけると縮小するマーケットでの 存在価値を失い、いずれ淘汰されるよう運命付けられていたといえる。わが社も日本企業の一つである。ご多分にもれず、SBU (Strategic Business Unit)と称して発電プラント建設や土建工事などに多角 化し、結局破綻してこれを放棄し、コアビジネス復帰することになる。

人口が半減した本体はというと1995年頃、プロジェクトの件数が戻ってきたとき、旺盛な食欲でくらいついたはよいがこれを消化する能力が低下していたの で激しい下痢症状を呈するのである。一旦平面展開してしまったバックエンド・エンジニア達は永久に戻ってはこなかった。 多角化方針を転換して選択と集中に舵を切るチャンスだったが、そうするにはトップの強力なリーダーシップが必要とされるのだ。皆にいい顔しているだけでは ただ情勢に流されるだけなのである。

リチャード・クーも いうとおり、会社トップはこの会社は何をどうしたいかという強烈なビジョンを持たない限り、リーダーシップは発揮できない。委員会方式や社外コンサルタン トから出てくる方策など、当時のマスコミが喧伝する流行に乗ったものなのだ。

 

外部コンサルタントの功罪

創業社長は自分が作った会社を伸ばすために営業方針も組織も幹部人事も全て自らきめていた。このようなワンマン経営では経営幹部は針のムシロであったよう である。会社運営に明確なビジョンをもたず、ワンマン経営下で苦労していた役員達をみていた二代目トップは営業も組織も人事も部下任せにした。営業は「営 業主導」とすると営業部隊に一任した。彼らはご多分にもれず社外コンサルタントを採用した。社外コンサルタントはこの道の専門家ではないため、徹底したヒ アリングで社内のポテンシャルを推し量りレコメンデーションをする。 ヒアリングされた誰かが盛んに吹聴したのだろう、コンサルタントが出した新たな分野は火力発電所と紙パルプ工場のエンジニアリングだった。さすがに紙パル プ分野には何の知見もないので進出することはなかったが、火力発電は可能とばかり参入し、深手を負って撤退するのである。

組織と人事は立川氏がこれを引き受けて影の実力者として力を振るった。プロジェクト運営の理解をもたないから、人事制度も縦割りのオペレーション型であ り、社員はそのほうが居心地がよいのでだれも不平は言わない。結局、組織は足元から弱体化していった。 社員教育や人材発掘は創業社長自から、技術審議会や山中湖にあった研修センターで若手と直接対決して行っていたものを外部コンサルタントに委託した。創業 社長が使った同じ研修センターでコンサルタントが人事研修をするのだ。講師の話を聞いていると当時読んでいた「失敗の本質」がネタ本だなとわかった。こうなると講師が繰 り出す質問に対し満点回答ができてしまう。そのうちに講師がハリガネハンガーを取り出し、これの使い道を制限時間内にできるだけ多くリストアップでよとい う。なにごとも原理原則から考える癖ができているのでたちまち用紙一杯になった。その数を報告したところ私が一番で、引山が二番だった。拡散思考のできる柔軟な 頭脳をもているとでもいいたかったのだろうか。結果として教育コンサルタントが次期幹部候補生としての適性者リストに名前を載せてくれたようだ。

自分が選ばれておいて難癖をつけるのも変だが、何か安直で欠けているものがあると感じたものだ。藤原正彦は「国家の品格」において 「真のエリートたる条件は2つある。第1に庶民とは比較にならない圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。第2にいざとなれば国家、国民のために喜 んで命を捨てる気概があること」と言っている。第1の条件に関しては私は多少の自負をもっている。しかし第2に関しては忸怩たるものがある。人材の流動性 のない日本では仮に会社のために喜んで命を捨てたとしても恒産がなければ自分と家族は路頭に迷うわけだ。そう安易に命を捨てる気概はもてるものではない。 これが人情というものであろう。

というわけで、会社は一見美徳のように見える下位代行という形で漂流を始めるのである。

 

バイオエンジニアリング企業との技術提携

プロジェクトマネジャー稼業を卒業して営業企画に移っていた常畠さんがバイオケミカル部門をテークオフさせるためにはバイオエンジニアリング企業、スター ンズ・キャタリティック社と技術提携するのがよろしいのではと当時、新規分野への多角化の方針には不安を覚えていた桃平さんに進言したらしい。桃平さんは バイオケミカル部門はコアビジネスだと思っていたからこれを成功させ て無謀な多角化を押しとどめたいと思っていたのだろう。提携するつもりになったようだ。

LNG液化プロセスと液化器を開発したエアプロダクツ社がフィラデルフィアの老舗キャタリティック社を子会社としついでデンバーのスターンズ・ロジャー社 といういう中規模エンジニアリング会社2社を吸収合併してスターンズ・キャタリティックという子会社にしていたのである。この吸収合併をリードしたのは エアプロダクツ社のリチャード・アンブラーという人であった。LNGプロセスの基本設計と大型熱交換器の供給だけでは満足せず、エンジニアリング業界に 打って出ようとの野望を抱いたらしい。イェール大を卒業した名家の出身らしく、安易に当時流行していた吸収合併でそのような野望が遂げられると考えたとこ ろはお坊ちゃま芸であったということであろう。結局LNGのエンジニアリングはベクテル、千代田、N社の3社に押さえられてその野望は実現せず、小型のバ イオケミカルテクノロジーでささやかな市場を開拓していたのだ。このアンブラー氏は累積する赤字を少しでも解消するために提携話を長年の友人の常畠さんに もちかけたのではないかと推察する。

副社長の桃平さんと企画を担当していた赤平さんのお供でフィラデルフィアのスターンズ・キャタリティック社に出かけた。内心スターンズキャタリティック社 の持っている技術は想像できるし、必要とも思わなかったが、日本市場では箔付けには有効だ。副社長が金を出してくれるというので断るのももったいない。提 携に反対はしないことにした。スターンズ・キャタリティックでの契約交渉では桃平社長の交渉には面食らった。開口一番、最後の線でまず妥協すると明言して しまってからくどくどと条件ごときものを繰り出すので、相手方はどうしたものかと口をあんぐりあけて聞いている。

国際的な交渉にかけては文系営業のなかでもアンパンのような練達の士がいたのを懐かしく思い出す。 私がインドネシアのLNGプロジェクトを担当していたとき、プルタミナのコーディネーターのストポ氏と昔話をしたことがある。彼はなつかしそうにアンパン とか法務大臣とあだ名された段森さんとある契約の最後の価格交渉をしていたとき、 内心ここら辺が妥協の線かなとおもいつつ、駄目元ともう一押ししたとたん。アンパンさんが黙ってクロスのボールペンをクルとまわして胸のポケットに入れ立 ち上がろうとしたのを見た。

「しまった 、ここで逃げられたら元も子もない」

と即

「わかったこれでよい」

と言ってしまった。

「アンパンさんのボディーランゲージにのせられたよ」

と懐かしそうに話してくれた。人はこうして生涯の友人を得るのだ。TWAのオーナーだった、奇行の多い、ハワード・ヒューズも言っているが

「交渉事でそれが欲しくなったら敗け」

なのだ。私も交渉事は好きではないが、インドネシアLNGプロジェクトの契約交渉で1週間がんばったこ とを懐かしく思い出す。そして交渉相手とは 生涯の友人となった。

私がインドネシアLNGプロジェクトを担当しているとき、善山が私の後を引継いで天然ガスプロセス設計課のリーダーとなっていた。ジュニアの新体制下での 多角化された大組織変革でも、私がプロジェクトから帰ってくれば、天然ガスプラントの設計指揮は私の担当になるだろうと彼は考えたそうである。自分は新し くできるバイオエンジニアリングでも担当させてもらえばよいと考え、都端君とか杉末という優秀な人材をバイオケミカルプロジェクト部に引き連れてゆこうと 人員の配分をきめていた。 善山は東京工業大学の出身だが、九州出身で地元の高校は首席であったという男である。寡黙だが芯の強い男であった。後、桃平社長の下では化学プロジェクト を担当し、武山営業と、頭島さんの値切り攻勢に耐える人生を歩まされることになる。

さて技術提携契約も成立し、会社の新組織が発表になるとなんと善山は技術本部に残り、私がバイオケミカルプロジェクトの責任者に任命された。 桃平さんはそのつもりで私をスターンズ・キャタリティックに連れていったらしい。乗せられたなとは思ったが腹をきめて引き受けることにした。真っ先にした ことはバイオエンジニアリング企業スターンズ・キャタリティックでの2週間の研修である。内容はほぼ推察したとおりであった。ここではじめてリチャード・ アンブラー氏は引退し、エアプロダクツ社はこれをレイセオンの子会社のユナイテッッド・エンジニアーズ・アンド・コンストララクターズに売る話が成立した ことを知る。アンブラー氏は失意の底にあり、寂しそうであった。レイセオンは米国の技術進歩に多大貢献をしたヴァネバー・ブッシュが設立にかかわった国防企業でパトリ オット・ミサイルを開発した会社として当時有名であった。この会社は金が余って使い道に困ったのか、1990年にはプレジャーボートの自動操舵装置を作っ ていた小さな英国のノーテック社まで買い占めた。 その後また売り払っているので米国の企業の売買ははげしい。

その後、ユナイテッッド・エンジニアーズ・アンド・コンストララクターズはレイセオン・エンジニアーズ・アンド・コンストララクターズに再編され2000 年にはワシントン・グループ・インタナショナルに買い取られている。

 

提携先の営業はエンジニア出身

スターンズ・キャタリティック社の営業マンは技術系だと言う。私が

「わが社の営業は文系で固められていてどうにもならない」

と話したとき、けらけらと笑い、

「昔はおれたちの営業もノンテクだったが 、いまでは役に立たないとわかり、歳とって使い物にならなくなった技術系が担当している、貴社はおくれているね」

といわれた。わが社では先代がエンジニア出身の営業をトライして失敗している。文系営業が拒絶反応を示し、妨害する し、技術系も準備していないから対抗できないのだ。この体制は次第にわが社の健康を蝕んでゆくガンのようなものだった。

 

医薬品プロジェクトの面白み

スターンズ・キャタリティック社との業務提携を説明するためにスターンズ・キャタリティック社の医薬品プロジェクトの人間を連れて東京と大阪の製薬会社を 行脚したことがある。東京砂漠を通過し、大阪の御堂筋についたとき彼がホットとしてようやくこころ温まる想いがすると言ったことが忘れられない。東京に緑 したたる並木道がないとその時気がついた。一緒に行脚してくれたエンジニア氏は帰国したらレイオフされたという。会社が斜めになりかかっていたわけでやむ をえないところがあるが、米国だけのことではなく、やがてわが社も襲うビジネスの 浮沈を目撃した瞬間であった。

バイオケミカル部門はもともと医薬品製造業界を顧客としていたため、コアビジネスの一部であった。しかし規模は小さく、運営は小組織でマルチプロジェクト を手がけなければ採算がとれないという難しさがあった。エネルギー産業の巨大プロジェクトを手がけてきた私にとっては採算性を確保するために要員を専門家 にして仕事をベルトコンベアにのせて流すという方法ではなく、要員をマルチファンクション化してセル方式でマルチジョブをこなしてもらうという手法のちが いがあり、それなりに挑戦する面白みがあった。

発足当初、一部の建築家連中が実績を確立していた実験動物飼育舎、研究所、製薬建屋に特化したグループと合体させられが、建築家連中はテクノエースという 子会社を設立して独立した。これこそ勇気ある決断だと思ったものである。

米国の製薬会社が日本に上陸して、わが社に研究棟を発注してくれた。わが社の建築家達はベストと思う案を作って得意げに説明するが、米国人の顧客はそして 第二案、第三案はどこにあると聞くのである。マネジメントが判断するにはいくつかの案をつくるのが当たり前という文化である。我が国の貧しさを実感した瞬 間である。

 

バイオテクノロジー・プロジェクト

バイオテクノロジー部として発足する前にすでに遺伝子組み換え動物細胞を培養して生理活性タンパク質を精製して製造するプラントを設計・建設する2つの プロジェクトを受注していた。一つは 血栓溶解剤であるTPA(ティッシュー・プラスミノーゲン・アクティベーター)、もう一つは貧血治療薬となる造血因子EPA(エリスロポエチン)を製造す るものであ る。両方のプラントは目的とする品質の製品を製造することができたが、TPAは米国のライセンサーが特許戦争に負けてしまい。プラントは 残念ながら破棄せざるをえなかった。

バイオ医薬品の金字塔といわれるにエリスロポエチン(EPO、商品名エスポー)のライセンサーのアムジェンは1987年 から5年間の特許 係争に勝ったため、我々が建設したプラントは商業化され、高崎の利根川沿いに本格的工場も建設され、2012年には日本で30万人、世界中で200万人の 人工透析患者の50%が恩恵 を受 けている。このEPOの製造装置開発に携われることができたのは、幸運であった。

このEPOは熊本医大の講師だった宮家隆次氏が再生不良性貧血患者の尿2.5tonから集めた粗EPO4.5gをもって シ カゴ大のワッサー教授の研究室にゆき、樹脂にタンパク質をつけて精製し、10mgの純粋EPOの結晶を得たことに端を発する。これにバイオベンチャーの ジェネンテック・イ ンスティ チュートとアムジェンが目をつけた。准教授として宮家氏がシカゴ大に残したEPOをつかってアムジェンが遺伝子組み換えでEPO製造法を確立した。 1981 年にオ ハイオ大の教授になっていた宮地氏はジェネンテック・インスティチュートにも精製EPOを渡したのである。

いずれも動物細胞の培養にしても分離プロセスにしても抗原抗体反応の原理や液クロマトグラフを使うなど技術的には新鮮な 経験をさせてもらった。 何万匹というマウスに製品となる生理活性物質(タンパク質)を注射して体内にできる抗体を取り出し、これをリガンドとしてゲルに固定し、ゲルを容器に充填 し、培養液を流して目的物質を抗原抗体反応で分離・精製するのである。抗体をリガンドにしたゲルをアルカリ液供給弁の調整不良でダメにしてしまうなどの失 敗をして 保険で救済してもらったこともある。血清を原料とし、遺伝子組み替えたマウスの細胞培養によって製造した高価な治験薬をM電機製のプロセス制御コンピュー タ のOSのバグで1ヶ月分を下水に流れてしまったことがある。経済的損失もさることながら、治験に遅れをきたしたことは大きな痛手であった。頭を下げに走り 回った。丁度 OSをバージョンアップした直後でタイミングの違いで別ロジックにスイッチされてしまったのだ。プラントライフいっぱい運転し ても問題ないことを示すためにその時間分、加速運転試 験をおこなってバグなしを証明する必要があった。

血管造影剤製剤工場の設計・建設・試運転 も新鮮であった。粉末薬を輸入し、これを蒸留水に溶かして洗浄したガラス容器に入れ、真空乾燥してビンに蓋をするという作業を無菌状態で行うのだ。むろん クリーンルームはテクノエースに担当してもらった。

ちょうどエイズの原因として血液製剤犯人説がでてきたころで、ビジネスチャンスと日赤の血液部長にセールスに訪れ、熱処理すればエイズウィルスを殺せるな どというお話をうかがった。ただ日赤は献血中心の輸血が主任務なので献血が余っても血液製剤に手をつけることができないのだという、妙に潔癖な方針のよう であった。

アミラーゼ、リパーゼ、ペクチナーゼなど5種の酵素を製造する巨大プラントを共産圏のブルガリアに輸出 しようというプロジェクトも外務省の対応が漫画的で面白かった。ブルガリアの専門家を米軍と自衛隊の三沢基地の近くの工場に案内するのだが、許可が必要な のだ、そして許可条件とは無論、航空機は使ってはいけない。国鉄の三沢駅を出たらタクシーに乗り、工場と三沢基地の間を流れて小川原湖にそそぐ小川の工場 側の道路だけは使えるが、基地側の岸に入ってはいけないというものだった。しかしこの小川は蛇行していて東北本線と何回もクロスしている。従って線路沿い には走れない。田園地帯を大きく迂回してやっと工場にたどりついたという。八戸で急行からローカル列車に乗り継いだときも地元警察のお出迎えをうけたとい う。不便をブルガリアの紳士のわびると。

「なれてます。むしろ珍しい田園地帯を見れて楽しかった」

といってくれた。 契約交渉のためブルガリアに出向くと彼らが持ち出した契約書は見慣れたアングロサクソン式のものではなかった。向こうの担当者はナポレオン法典という大陸 型の契約書に習ったもので あるとのこと。ナポレオン法典はローマ法の流れだから、アングロサクソン式の契 約書はむしろ田舎方式なのだと思ったことを思い出す。しかしこのプロジェクトは資金を提供するロシアが合意しなかったので流れた。

乳酸菌サプリメントの製造工場なども担当させてもらった。これに関してはいろいろ面白い話題があるがここでは省く。

ビルマの 精糖工場付属のアルコールプラント の引き合いに参加したこともある。砂糖黍を原料とする精糖工場は農業機械と同じく砂糖黍の収穫期に稼動するだけである。これで収穫した蔗糖を原料にしてエ タノール工場を作りたいというのだ。あまり気乗りしないプロジェクトであったが勉強にと応札してみた。やはり価格がついていかなかった。

フィリピン・マレーシアの精糖工場のモダナイゼーションを提案できないかという営業の要請を受けて外畑君と現地視察した。フィリピンのネグロス島で広 大な砂糖黍畑の運搬用に使っている弁慶式蒸気機関車や往復動式コルリス蒸気エンジンで駆動されるキビ絞り機など1930年代の米国製機械が現役で働いてい るのを見るのは感動であった。絞りローラーは1季節使うと磨耗するので毎年、自家工場で鋳造するのだという。蒸気はバガスを燃焼して発生させるがバガスが 少し不足し、燃料調達費がかさむ。なんとかならないかというものであった。地熱発電の電力でヒートポンプ方式の精糖工場にすることを提案しようかとも思っ たが、やめにした。砂糖黍を原料とする精糖工場は農業機械と同じく稼働率が低い。そのため初期投資の大きなものは採算にのらない。1930年代の米国製機 械を現役で働かせていることがそのなによりの証拠であろう。もう砂糖黍からの蔗糖生産はトウモロコシ ・デンプンをアミラーゼで糖化して製造する液糖にコスト的に太刀打ちできない。斜陽産業なのだ。

RNAがDNAの特定部署を切るという現象が発見されて話題をにぎわしているころ、オーストラリアのオーストラリア国立研究所が実用化のパートナーを探し ているという売り込みがあり、キャンベラ、メルボルン、シドニーに調査にでかけ たこともある。

 

本命の化学合成による医薬品工場

バイオテクノロジーに無限の将来性があるといったマスコミにもてはやされる話題があっても、実際に有用な医薬品の99%は化学合成によって作られたもの だ。合成ビタミン剤プラントは特定の製薬会社から継続的に発注してもらっていた。ノウハウがつまっているのでいつも同じコントラクターに発注してくれるの だ。

通常の化学プラントは特定の製品の製造のために配管で連結した装置を連続運転で使用するが、医薬品の場合は量が少ないのに多段反応で中間製品の種類が多い ためバッチ式の多目的プラントとなる。配管をやめてしまいロボットで反応釜を多目的に使う自動制御装置を開発したくて売り込んでみたが、製薬会社の人は、

「我々の理想は単一目的プラントを使えるような医薬品を開発することにある」

と取り合ってくれなかった。

100億円の開発費をかけて10年に一つという大当たりといわれたオフロキサシンは化学合成による抗菌剤であった。感染菌の RNAの複製を阻害する薬のため、抗生物質のような耐性菌が出てこないと医者から評価され、海外の医薬品メーカーは原末で仕入れるのだそうである。末端価 格で年間1,000億円の商品となったそうである。我々が設計・建設したプラントは3ヶ月で償却したとのこと。

 

新規部門では

葛戸常務を頭にウェスティングハウスのスチームタービンを掲げ華々しく旗揚げした発電プラントプロジェクト本部だったが、パキスタンの発電所のそれも配管 工事で大穴をあけ、これにビビッテあとは泣かず飛ばずの状態であった。そもそも旧式のBTG発電にしたところでエンジニアリング企業の得意とする複雑な化 学プラントに比べればボイラーとタービン発電機を除けばたいしたものは残こらない。まして新式のGTG発電ともなれば、タービン発電機以外ほとんどなにも 残らない。この分野に参入するなど間違っていたのだ。

心労のためか葛戸常務は背骨が曲がってしまい、引退してしまった。かって南米のNGLプラント引き合いの時、受領してテレックスを裏返して、客の真意は裏 に書いてあると、葛戸さんが客の真意とおもうことを 「弁慶の勧進帳」の一幕のように浪々と読み上げたころの颯爽とした姿など想像もできない別人になっていた。

わたしがバイオプロジェクトで夢中で指揮をとっていたころ、後崎は化学プロジェクト部を任されていたようだが、このころ回りを見回しているような余裕など はなかった。多分多角化した新規部門もみな同じように、その狭い世界で夢中になっていたと思う。

新規分野の中でもユニークな設立の経緯をもっていたのが自動車事業部だ、創業者の孫がM商事でサラリーマンをしていたのだが出社拒否症となり、首が飛びそ うだという。二代目の取り巻き連中が、自動車部門にいた彼を救おうと自動車事業部というものを作ってしまったのだ。M自動車の米国工場の一部工事を受注し たが独自技術があるわけではない。その後泣かず飛ばず。リストラクチャリン グ中のN自動車のエンジニアの受け皿になったり、I自動車と共同で子会社を作ったりしたが、所詮消え行く運命にあった。

 

U製薬のオーナー社長の首実検

話はバイオプロジェクト部門設立直前に遡る。ある日、門、赤平と私はニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルのタワーにあるスィートに呼び出され る。理由は説明されなかったが、桃平副社長の阪大の友人であるU製薬会社のオーナー社長がわが社の人間をトレードしたく、さりげなく面接を受けさせたらし い。木町常務立会いであったが、奥様も参加して品定めをしたらしい。気に入られたのか 、彼らが進出を予定しているというウィルミントンの工場予定地の下 調べを頼まれた。まじめに調査して報告書を持って大阪に出張するとありがとうとも言わず、受け取った。不思議と思ったものだが、桃平副社長がトレード話を 断ってくれたと後で聞いた。ワンマン体質の創業家社長の弊害をいやという程、知っていたので仮に声がかかっても真っ平御免と言ったであろう。

それにしても無駄な旅費を使ったものである。 日本企業の進出を歓迎していたウィルミントン市、商工会議所の職員、米陸軍工兵隊のエンジニアには無駄な作業をさせてしまったわけで申し訳ない。この旅の ときコピーではあるがメイン州において漁船に使われていた有名なフレンドシップ・スループの絵を見て気に入り、買って持ち帰ったものを毎日見ながら暮して いる。

当時、希望して米国の子会社にいた門は、その後のわが社の不振とはかかわりを持たなかったため、再生した千代田の社長になれた。

 

バングラデシュ

私は担当ではなかったので詳しくは知らないが千代田はアンモニア、尿素プラントをバングラデシュで建設しした。神戸製鋼はたぶん日本の資金援助で建てたと おもうが我々のものは国際ファイナンスのプロジェクトだった。バングラデシュは殆ど水の中で、陸路の出荷はできない。

製品は河川を使って出荷していた。運転開始してしばらくしたとき、セメントを積んだ通りががりのバージが専用出荷桟橋に衝突して沈み、セメントが固まって しまった。 浅瀬では沈船のサルベージに大型クレーンを使えない。人海戦術となり、半年プラントが止まった。返済金が滞るという難問が生じてはらはらしたことを思い出 す。

 

JALの思い出

何のプロジェクトが思い出せないが仕事で中近東に出張したときのことである。ドバイから帰国にJALを使った。殆ど満席のジャンボ機はなぜか予定の時刻に なっても動かない。通常ならなぜ遅れるかについてアナウンスがあるのだが、30分経過してもクルー達は異様に緊張して黙っている。そのうちに一人の紳士が あたふたと乗りこんできて唯一空き席だった私の隣にブツブツ言いながら座わった。そして私に不満をのべ ていわく

「ファーストクラスの切符を持っているのに、少し遅れたからといって『ダブルブッキングがありましたのでまことに申し訳ありませんがビジネスクラスに移っ ていただけませんか。料金は精算させていただきます』といわれた」

という。

「料金精算してもらったって何の足しにもならない」

とかなりご立腹の様子。

私はヨーロッパ便はワインがうまいBAに限ると決めていた。JALは安物のワインを小瓶で配って勝手にのめという態度なのににたいし、BAは選び抜かれた フルボトルからスチュワードがほしいだけついでくれる。たまにビジネスクラスが満席だとファースト・クラスに タダで乗せてくれるといういい思いもしているので逆もアリかと納得して、彼を慰めた。さて成田について東京に向かう車のなかでファーストクラスに乗ってい た南山さんが

「なんで遅れたと思う」

と聞く。

「さー?」というと

「JALの山地進社長が乗り込んでおれの隣の空いた席に座った途端に動き出したんだ。だれも気がつかないようだったが、おれは前に会っているから知ってい るよ。 見た目はやさしいが、あれは職権で待たせたんだと思うよ。」

というではないか。途端に私の隣に座った男は何も知らずにJAL社長にコケにされたのだと気がつき同情した。ピエール・ロザンスティール、ジャン・プティトーは 「序列的システムにおいては、一つの個体はたった一つの活動的隣接者しか、つまり序列上彼に対して上位にあるものしか認めない」と書いた。山地進社長に とって上位者は顧客ではないことは確かだ。しかし顧客のない駕籠掻きがどういうことになるかは2010年まで待たずともだれでもわかる。 山地社長の頭の中を垣間見て、元々JALは評価していなかったが、高じてだれが上位者であるかをしばしば誤認する官僚は嫌いになった。山崎豊子の「沈まぬ太陽」では山地進 は海野昇ということになっている。

そもそも千代田はメジャーオイルや産油国を顧客とする企業で日本の役所に監督・保護されたこともなく、実力で世界のマーケットを相手に戦っていたから、役 所に気を使う必要もなかったこともあるかもしれない。

同じ頃、船の一級操縦士免状取得のために横浜の訓練所に通学していた。JALの副操縦士とANAの整備士と親しくなり、1ヶ月毎日一緒に行動した。時々 JALの副操縦士がANAはうらやましいと愚痴るのを聞いたのを覚えている。

February 27, 2005

Rev. March 19, 2012

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