言語録

シリアル番号 日付

842

2004/11/10


名言 「われわれが思考するごとく」あるいは「かんがえてみるに」
As we may think
言った人、出典 20世紀中葉アメリカの科学技術政策をリードしたヴァネバー・ブッシュ(1890-1974)の随筆のタイトル
ヴァネバー・ブッシュの経歴:(wiki)
1913年、タフツ・カレッジを卒業。
1917年、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学から工学博士号を授与される。
第一次世界大戦中、米国学術研究会議で働き、潜水艦を発見するための技術を開発。
1919年、MITの電気工学科に移籍し1923〜32年の間、教授として在職。このとき、18変数の微分方程式を解くことが出来るアナログコンピュータである微分解析機を開発した。そのときの教え子クロード・シャノンはデジタル回路を生み出した。
1932〜38年には、MIT副学長と工学部学部長を務めた。
1939年、ワシントン・カーネギー研究機構の総長職となった。この研究所は権威が高く評価されていて研究資金も潤沢であった。ブッシュはアメリカ国内の 研究の方向性を左右する力を得て、軍事的な方向に舵を取るとともに非公式な政府の科学顧問としても助言をする立場となった。また、アメリカ航空諮問委員会 の議長も務め、政治的役割を鮮明にした。
1940年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)の議長となる。ブッシュはNDRC設立を強力に推し進めた。第一次世界大戦の際に科学者と軍の協力関係が うまく機能していないことを見てきたからであった。ブッシュは1940年6月12日に大統領と会談し、部局の新設についての文書を得た。ルーズベルトはそ れを10分で許可したという。政府はブッシュが権力を握って政府を無視して事を進めるのを苦々しく思っていた。ブッシュは後に「その通りだった」と認めて いる。この軍と科学の協力関係によって第二次世界大戦に勝利したと言っても過言ではない。レーダー科学者アルフレッド・ルーミスは「1940年の夏に、あ の男たちが死んでいたら、その後は大変な惨状が待っていただろう。その第一は大統領であり、二番目か三番目にDr.ブッシュが挙げられる」と言った。
1941年、NDRCはブッシュが局長を務める科学研究開発局の一部となり、同局はマンハッタン計画を含む戦時中の科学研究の調整・制御役を演じた。
1950年、ブッシュは戦時中に培われた軍産学の協力関係を維持するために米国科学財団(NSF)を設立し、軍需企業のレイセオン社の設立にも関与した。
1930年代、彼はmemexと呼ぶ概念を発表した。メメックスは情報検索システムとして、後に登場するパーソナルコンピュータやコンピュータのユーザーインターフェイス、Webブラウザなどで広く利用されているハイパーテキストの概念に大きな影響を与えた。
引用した人、他 東京大大学院教授 西垣通 朝日 ヒト科学21

Rev. August 30, 2014

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