鎌倉広町緑地の倒木調査に参加して

グリーンウッド

七里ガ浜2丁目は広町緑地を背にして相模湾を見下ろす高台にあり、その住民は海と山の両方を手にできる恵まれたところです。だいぶ昔のことですが、自作ヨットを江ノ島で進水させて七里ガ浜沖をセーリングしたとき、この高台に造成された住宅地を目にし、いつかここに住みたいものだと思いました。幸い、念願はかないました。しばらくしてこの高台の北斜面にまだ開発されていない山林を発見し、休日など散策を楽しむようになりました。長年放置されていたため、生存競争を繰り広げるジャングルのようになっていて夏など決して散策しやすいところではありませんでした。それでも四季折々、入山しました。始めのうちは有名な桐や桜の大木を見つけては喜んでおりましたが、次第に昼なお暗いスダジイの森とか喜八窪のエノキの大木、大竹ヶ谷のムクノキの大木を発見し、喜びが沸いてくるのを感じました。そしてこれらの木を大切にしたいという気持ちがフツフツと湧いてきました。人の手の入らない自然は野蛮ですが、七里ガ浜の上空を飛翔するトンビのねぐらでもあり、渡り鳥の休憩地でもあり、生物の多様性の維持にとっては大切のようにも思いました。

昨年、広町緑地の自然観察をするボランティアを募集していると知り、迷うことなく参加させてもらいました。植物についてなにも知らない素人ですので一番簡単そうな倒木調査を担当させてもらいました。

なぜ倒木に着目したかといいますと昭和36年ころまであった松が殆ど姿を消していることでした。広重の東海道五十三次の浮世絵には松林が描かれております。星野写真館が撮影の昭和初期に撮影した小動岬と江ノ島の写真にも松が写っております。明治期に当時の陸軍測量部が作成した五万分の一の地図にも松林の印が付いています。鈴木病院の鈴木道夫氏が昭和36年に空撮した開発前の七里ガ浜二丁目の写真も同じです。ところが現在の広町緑地には松は殆ど見当たりません。昭和30年代までの里山は古代より継続した積年の栄養分の収奪で貧栄養となり、痩せた土地に生える松しか生育できなかったのです。ところが戦後、石油燃料時代にはいり、マキ・スミは不要となり、農地に化学肥料が大量に使われるようになった結果、堆肥として落ち葉を持ち出すこともなくなり、結果として山は豊栄養となり、広葉樹が増え、松は生存競争に負けて消え去ったということのようです。昭和36年以降40年間でこれだけの変化があったことになります。

このようにして広町緑地から松は消え、戦後植林したスギ、ヒノキなどは別としてケヤキ、ムクノキ、サクラ、コナラ、クヌギ、カラスザンショ、ヤマウルシ、ハゼなど落葉樹で構成される陽樹林とスダジイ、タブノキ、モチノキ、ヤブツバキ、アオキなどから構成される常緑広葉樹からなる陰樹林が優勢の森となっています。現在の広町の森は主要な樹種が25種という雑木林です。陽樹林は20-30年で再生されますが、陰樹林が再生されるためには200-500年かかるといわれるのです。ではなぜスダジイがあるのでしょう。そのなぞは昭和39年撮影の広町緑地の航空写真を見てわかりました。急斜面など耕作に適さないところは戦中も戦後も手が入らず、原始林のまま残されていたのです。現在のスダジイを中心とする陰樹林はこうして戦争にも生き残ったようです。

土地の人の話では雨乞いの池の北側にある竜王山から竹ヶ谷に向かって北に伸びる尾根の末端はカヤ葺屋根向けのカヤ畑であったそうです。航空写真にはこのカヤ畑が写っておりました。今ではカヤ畑跡はコナラなどの陽樹林となっています。広町緑地の尾根の平坦部は現在の二丁目を含め、戦争直後は食料増産のために畑であったそうです。竜王山の頂上に今も残るコンクリート桝はこえ溜めと水溜めだったそうです。かっての耕作地跡にはアズマネザサがはびこり、人を寄せ付けません。耕作地の縁にはクワの木が植えられていたそうですが、野生化して大木に育っております。まさに広町緑地は40年前は里山であったわけです。

鎌倉市の都市林計画区域は60ヘクタールあるそうですが、このうち48ヘクタールの中の総延長8キロにおよぶケモノ道に沿って倒木調査をしました。予備調査は全員で行ないましたが、詳細調査は植物図鑑と双眼鏡をもって約1ヶ月、森に入り浸りで、山道を歩きながら行ない、報告書を作成いたしました。おかげさまで、森を観察し、楽しい時をすごさせてもらいました。くわしくは報告書をご覧ください。

七里ガ浜ニ丁目在住 グリーンウッド

2003/10/19


トップページへ