恩田

熊ヶ谷横穴墓群

以前、横浜市の青葉区に住んでいたことがある。長津田から「子供の国」にゆく途中にある奈良川の西側の丘陵部には横穴墓が多いという。この熊ヶ谷横穴墓群 は宅地開発に伴い発見され、1983年に発掘調査が行われ、全部で25基の横穴墓が発見されたという。墓は6世紀後半から7世紀頃にかけて造られたもの で、鉄刀などの武器や耳環、勾玉などの装身具も出土し、当時この地を治めた有力者の墓であるらしい。残念ながら現在は非公開で、見学することはできない。

この頃、大和政権のあった畿内では飛鳥時代であったが、東日本ではまだ古墳文化が続いていた。古墳は有力者が視覚的に権威をみせつける象徴として小さなものも沢山作られ た。神奈川県でも秦野市の桜土手古墳や市ヶ尾の稲荷前古墳群のような小さな古墳が沢山作られた。

小さな古墳も作れない階層の人々が作ったのが群集墳であり、吉見の百穴(ひゃくあな)横穴式集合墳墓、恩田の熊ヶ谷横穴墓群、市ヶ尾の横穴古墳群、野川沿いの河岸段丘にある出山横穴墓、宮城県東松島市の矢本横穴墓群はすべて古墳時代のもの。大和政権から与えられたものと推定される豪華な副葬品が出るのが特徴とされる。

鎌倉に沢山あるやぐら群や逗子の曼荼羅堂やぐら群は技術的には同じ横型をしているが、ずっと後期の鎌倉から室町時代の墳墓とされるようである。その根拠は4-7世紀の古墳 から出土する大和朝廷との交流を示す品がみつからないからのようである。では縄文時代の狩猟採集民がつくったのかという疑問がでるが、縄文人はこのような横穴を掘る鉄をいまだ持ていなかった。

December 2, 2017


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