国分寺崖線の湧水

都立殿ヶ公園、お鷹の道、真姿の池湧水 群、深大寺、等々力渓谷

「国分寺崖線」とは多摩川が10万年以上かけて武蔵野台地を削ってできた河岸段丘である。野川は国分寺崖線の湧水を集めて流れる。日立中央研究所構内の湧 水が一番上流となる。ここは毎年4月と11月の一般開放以外には接近できないが、都立 殿ヶ公園、お鷹の道、真姿の池湧水群、 深大寺の湧水は自由に 散策できる。崖線周辺では水を浸透させにくい粘土質の土壌の上部を流れるため、河川による開析が進んでいない。等々力渓谷は野川が多摩川に合流した地点よ り下流の湧水を集めて流れる谷沢川(やざわがわ)が武蔵野台地を掘り進んだV字渓谷である。国分寺崖線は日立中央研究所構 内の湧水に始まり、亀甲山で終わる。亀甲山は固い岩盤で、目下多摩川がこれを削っている最中である。こうして国分寺崖線は杉並区や大田区まで 30km続いている。


都立殿ヶ公園

萩和会歩こう会の行事として計画として「府中から国分寺」が提案され却下された。そこで2014年9月30日(火)に国分寺病院でリハビリ中の亜 細亜大学の先生を見舞いに出かけるついでに、都立殿ヶ公園、お鷹の道、真姿の池湧水群、武蔵国分寺跡、現国分寺などの国分寺崖線周辺を散策した。

JR国分寺駅に降り立たつと左手に都立殿ヶ公園への入口がある。1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、三菱の社員江口定条の別荘と して庭師・仙石の手で作庭される。1929年(昭和4年)に 三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、津田鑿の設計で洋風邸宅、数奇屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備したところだ。国分寺崖線と呼ばれる 段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた、回遊式林泉庭園である。紅葉亭の前が段丘崖となっており、崖下には池があって、そこに陰下からの湧水が流れ 込んでいる。



紅葉亭


都立殿ヶ公園の東にある東京経済大学の東側にある野川に下る坂は「くらぼね坂」という。雨が降ると赤土の坂は滑って馬でも骨をおったという。


お鷹の道、真姿の池湧水群


都立殿ヶ公園をでて駅前の急坂を下ると野川が流れている。まだ小川だ。不動橋をわたって、国分寺崖線にそって西に歩く。野川は東恋ヶ窪からこの国分寺崖線 を削ってできた谷から流れ出ているため野川に沿って歩くと東恋ヶ窪に向かって北上してしまうので鬱蒼とした森林でおおわれている国分寺崖線(ママとかハケ という)に沿って西に歩く。しばらく住宅地を歩くと、やがて「お鷹の道」と呼ばれる清流にそった小道が見えてくる。この清流は野川にそそぐ。



お鷹の道


1748年(寛延元年)から国分寺は、徳川御三家尾張藩の鷹狩の狩り場となり、ハケやママの下部から流れ出る清流に小道を整備した。

お鷹の道を遡ると「涌水園」の長屋門に出る。旧国分寺村の名主屋敷の門だった。「涌水園」の脇に「真姿の池」 がある。



真姿の池


近くの史跡の駅「おたカフェ」でインドカレーの昼食とする。


武蔵国分寺跡


「おたカフェ」から住宅地を南下し奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺金堂跡に向かう。相当大規模な寺であっ たが鎌倉時代末期の、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた分倍河原の戦いで焼失したという。



金堂跡


武蔵国国分寺金堂跡から真っ直ぐ北上すると国分寺崖線を登ったところに武蔵国国分寺の後継寺院があった。新田義貞により薬師堂が再建されたという。



仁王門


国分寺から立川国分寺線を横断して北上すると東山道武蔵路跡が広い歩道となって残っている。府中街道を北上し中央線を越えて東恋ヶ窪の国分寺病院に向か う。以上のコースは恋ヶ窪駅まで含めて全長5.8kmであった。



国分寺病院にはアジア大の飯島名誉教授を見舞うためであった。

立川国分寺線を西に向かえば「たまらん坂」(多摩蘭坂)になるが時間がないので割愛。「たまらん坂」立川国分寺線の多喜窪通りにある登り坂。 昔、学生が国分寺駅から一つ橋大に向かって登りながら「たまらん」と言ったためとされる。RCサクセッションの忌野清志郎が「多摩蘭坂」というタイトルの 曲を発表したことで有名になる。

またこの坂に北から下る坂は白明坂といわれ、夜討ちをかけようとした新田義貞が武蔵野越えに手間取り、この坂で夜が明けてしまったので、白明(し らみ)坂となったという。



野川と深大寺

深大寺周辺の崖線に湧いた水は結局、全て野川に流れ込む。歩く会はゴールデンウィーク直前の2018/4/23 深大寺周辺の野川を歩いた。午前9:30 京王線柴崎駅に集合。  曇り気温20℃で歩くには最適。


鎌倉からは鎌高前駅7:06→藤沢→新百合丘8:27→(小田急多摩線)→8:36小田急永山⇒京王永山8:41→(京王相模原線)→8:56調布9: 02→(京王線)→9:07柴崎のようにジグザグルートになる。

歩く会のルートは京王線柴崎駅スタート→甲州街道の野川に架かる馬橋→野川の北岸→旧京王線軌条跡(第7中に鉄橋跡)→飯田橋→大橋から祇園時通り→祇園 寺→逆川(さかさがわ)→中央自動車道高架下→深 大寺城址→水性植物園→深大寺→蕎麦屋「湧水」(042-498-1323)→武蔵境通りを横断して真っ直ぐ野川岸へ →野川左岸→水車経営農家→野川公園→二枚橋→武蔵野公園→ハケの道経由→武蔵小金井駅

総距離9.06kmkm、累積登り 114m、累積下り73mであった。

京王線柴崎駅スタートし、線路沿いの道を野川に向かって下る。甲州街道にでると見事な並木道。野川に架かる馬橋の手前で野川の北岸に入る。対岸の旧京王線 軌条跡(第7中に鉄橋跡)を見ながら大橋まで土手歩きをする。立派な桜並木が丁度新芽を出したところだ。

神代農場内の湧水を水源とするマセ口(ぐち)川を見落としてしまったので祇園寺通りで右折する。祇園寺は深大寺を建立した 満功(まんくう)上人が生家近くに父母の供養のために開創したといわれる由緒ある寺だ。柏野小で左折すると深大寺境内の湧 水を水源とする逆川(さかさがわ)の 暗渠の上にでた。この暗渠上を歩いてゆくと暗渠も終わり、U字型の開渠になるも、土手が無いので水辺を歩けない。平行する住宅地内の道を登ってゆくと中央 自動車道高架下のトンネルにはいる。トンネルをでると深 大寺城址と神代植物園がある。

深 大寺城址は上杉氏が北条氏に対抗するために築いた山城である。我々は深 大寺城址と神代植物園を通過して深大寺に向かおうとしたが、深 大寺城址と神代植物園はフェンスで囲われていて南側からは入ることができず、正門は北側にしかない。やむを得ず大回りして正門に向かうと月曜は定休日とあ る。どうもお役所の管理下にある施設は民業圧迫に配慮したのか施錠施設化している。投下資本が死んでいるため、利益を生まないし、公共のためもなっていな い。自己責任として開放すべきだ。月曜日に歩くことにしている 我々はいつも欲求不満になる。そういう社会を我々は望まない。補償行為として門前茶屋の矢田部茶屋で饅頭をやけ食い。



矢田部茶屋で饅頭をやけ食い

深大寺は満功上人が733年に開創したという関東では浅草の浅草寺に次ぐ古さを誇る寺である。現在の本堂は大正時代の再建という。その西側には大 師堂がある。幕末の火災で類焼したが1867年に、本堂をさしおいて先に復興された。私はこの大師堂のほうが古いし、護摩を焚くため、黒みがかって趣があ り、好きだ。本堂の脇に「なんじゃもんじゃの木」(ヒトツバタゴ)が満開だった。

伽藍の裏は国分寺崖線が続き、階段を登れば都立神代植物園がある。無論、ここも月曜日は休園だ。



大師堂


深大寺本堂

蕎麦屋「湧水」で昼食を予定していたが、メンバーの一人が若き頃、家族で立ち寄ったという蕎麦屋「大師茶屋」で粗挽き蕎麦を食す。さすが旨い。

後は武蔵境通りを横断して真っ直ぐ野川へ向かった。メンバーの一人の靴底がはがれ、応急処置をする。野川は南岸にサイクリングロードが用意されていたた め、水車経営農家に達するまで、こちら側を歩く。水車小屋で小休止。更に北上すると、洪水時の溢流式洪水調整池を見る。その向こうは調布飛行場だ。右手の 国分寺崖線の上は東京天文台があるはず。

そのまま北上すると左手に広大な野川公園が広がっている。野川公園はもとはそもそも戦前の軍用機メーカー、中島飛行機の研究・開発組織である三鷹研究所の あったところで、米軍接収後、国際基督教大学(ICU)に寄贈された。三鷹研究所の本館はそのまま現在のICUの本館となっている。この野川公園は同大学 のゴルフ場であったところだ。現在でもかなりの面積で芝生が広がっている。コースを隔てる樹木は樹齢100年にはなろうかという巨木である。でも中島飛行 機時代は樹齢30年であったはずである。この公園のベンチで小休止。



野川公園

東八道路を渡って、野川の北岸に移行。ここでクロウトラップを見る。天井中央凹部に開口部があり、そこからカラスが中に入れる。しかし天 井からは針金が多数ぶらさがっていて。カラスが天井の穴から外に出ようとすると、羽ばたいた翼がこの針金に引っかかるため脱出することが出来ない仕掛け。 捕獲されたカラスは殺処分にされる。とらわれた仲間を気づかう烏が大勢集まっている。彼らの仲間からこのようなトラップにだまされない新種の烏が進化する のかどうか?



野川

ここには自然観察園があるが、入口は施錠されていた。野川の河原に自噴している泉があった。4km西南西の東京競馬場の西となりにサントリーのビール工場があ る。ここでは武蔵野台地から自噴してくる泉より100m以上深い層に井戸を掘ってそこから組み上げた水をつかっているという。そのまま野川沿いに二枚橋ま で歩く。

武蔵野公園に沿って更に野川をさかのぼり、野川第2調整池に達する。ここで一段上のハケの道に平行移動する。「美術の森美術館」も月曜日休館であった。最 後に「ムジナ坂」を登って武蔵小金井に向かう。駅前のサイゼリアで喉を潤す。

参加予定者:小粥、和田、榎本、秦、安井、小出、青木 7名




野川フェーズ2(馬橋から多摩川との合流点まで)

5月28日、 京王線柴崎から田園都市線二子玉川駅まで9.2kmを歩いた。京王線柴崎駅に10:00に集合し、野川にかかる甲州街道の橋である馬橋まで歩き。ここから北側の土手を歩きはじめた。

コースは下図のようになる。



土手は遊歩道になっていて気分よく歩ける。この流域では野川は蛇行しながら東に流れている。水は透明。北側には国分寺崖線の緑が野川に平行して いる。中千川(暗渠)の合流点にある小公園 で小休止。ここから少し下ったところにある「きたみふれあい広場」の木陰で昼食にする。「きたみふれあい広場」は野川より階段を上ったところにある。垂直 の鋼鉄製の巨大な壁を観た印象は水道の貯 槽かなとも思ったが、公園内の地図を見て小田急電鉄喜多見検車区の上に蓋をして、その上に人工地盤を造成し、そこに樹木を植えたものと判明。世田谷区が整 備したようだ。昼食後使っていたストックを忘れて皆を待たせて戻った。人工地盤になっていない喜多見基地の建物の屋根には太陽電池を敷き詰めてある。FIT制度を積極的に利用している。

更に下ると次大夫堀(じだゆう)公園民家園があった。かつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷 (主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景 を再現されて入ると言うがパス。この公園の地形が蛇行しているところからみてかっての野川の流域だったところだろう。

更に下流にくだり東名高速に近づくと大袈裟な壁を作って巨大な土木機械が立ち並んでいるところに来る。地図にはなにも書いてない。GoogleMapのス トリートビューで調べると東京外郭環状道路本線トンネル工事(16km)とある。念願の東名と関越自動車道を結ぶ道だ。発注者は中日本高速道路。ここには東名とのジャンクションと巨大な東名 ジャンクション換気所が建設中らしい。シールド・トンネル工法につかっているとみられる巨大な仮設の換気ダクトが空を覆っている。計画図を見ると中千川(暗渠)の合流点付近から野川の北岸下をシールド・トンネル工法を採用して掘っていることになる。換気所の垂直シャフトや送風機の基礎部は完成している。

更に下ると千川の合流点にくる。千川は崖線で滝のようになって野川に注いている。ここにかかる橋は架け替え工事中であった。

やがて先に二子玉川の高層ビル群と玉川高島屋が見えてくる。土手もここで急に高くなり玉川の土手と同じ高さになる。ということは今後も野川流域は多摩川の逆流による洪水の恐れがあると言うことになる。

コヤマドライビングスクール二子玉川校脇の橋を渡って、本日の野川フェーズ2歩きは完了とする。ここで橋の上でビル群と野川を背景に記念撮影。



参加者:小粥、加畑、小出、田原、青木 5名



等々力渓谷


等々力渓谷は野川と多摩川の合流点より下流の武蔵野台地の湧水を集めた谷沢川(やざわがわ)掘削 したV字渓谷である。そのため平坦 な住宅地に囲まれた珍しい地形となっている。谷沢川の水源は世田谷区桜丘四丁目・五丁目付近の武蔵野台地上の湧水と桜丘三丁 目の旧品川用水の吐水跡とされる。ここから南下して上用賀地内の複数の湧水を合わせ、世田谷区中町を経由する。

2018/1/13 グリーンウッド氏は総合知学会出席のついでにと東横線自由が丘で東急大井町線に乗換え、等々力駅に向かった。東横線自由が丘駅は53年昔の1965年頃、 開通したば かりの田園都市線の青葉台駅から、渋谷経由で赤坂にあった会社まで通勤した時のルートだったことを思い出した。田園都市線が渋谷に直接に乗り入れる地下路 線は当時未完だったからだ。ということは当時、大井町線の等々力駅も通過していたわけだが、等々力渓谷なんて気も付いていなかったことになる。

渓谷への入り口は駅のすぐ近くにあった。急な階段を下れば別世界が展開する。川下に向かって散策し、環状8号線の橋下を通過した辺りから谷幅が広くなる。 その左手の斜面を登ると等々力不動があった。等々力不動は武蔵野台地上の南端の縁にあり、多摩川に向かって急傾斜で下っている。この渓谷が広く見えるとこ ろは武蔵野台地の南端であるためと分かる。



等々力渓谷

下流に行くと丸子川(まるこがわ)と立体交差している。丸子川は六郷用水の 下流部分が整備され、名称を変えて残っている川である。

等々力不動でとって返して、野毛大塚古墳に向かった。これは荏原台古墳群の一つだと言う。発掘調査済みで、きれいな円形 古墳に復元されていた。荏原台古墳群とは多摩川下流左岸の世田谷区野毛周辺から大田区田園調布に広がる古墳群で50基あまりの古墳からなるという。亀甲山古墳や等々力 不動の南東にある御嶽山古墳もその一つ。


野毛大塚古墳

この界隈にゴルフ場があった時は等々力ゴルフリンクス古墳と呼ばれた時期もあったらしい。往復2.6kmだった。

September 11, 2014

Rev. June 4, 2018


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