敦煌・西安・上海

1984年、上海で開催された国際低温学会に出席した。今、思えばこのころから上海の発展ははじまっていた。翌1985年に石油生産に関する技術交流会主 宰のため、4日間、北京に滞在したが、急遽バイオ関係の技術提携のため、米国に飛ぶよう命令され、万里の長城も見ることなく、北京を後にした。以後26年 間中国に渡ったことはなかった。 2011年6月になり、 ミセスグリーンウッドの友人から「夫の大学同期生が企画した敦煌・西安・上海観光7日の旅に参加しないか」と誘いがあった。ラストチャンスとこの話 にとびついた。西域と聞けば、昨年調べた ロブノール湖の近く まで行けることも魅力だった。

全泊 (6月19日)

成田07:00集合に間に合う公共交通機関はない。ホテル日航成田に前泊する。(Hotel serial No.498)

第一日 (6月20日)

成田8:55発の中国国際航空CA158便で上 海・浦東空港に飛ぶ。梅雨のため視界不良。

3時間強の乗り換え時間後、中国東方航空 MU2154便で西安に出発するまで上海 ・浦東空港国内ターミナルビルで通貨交換などして過ごす。このビルはケーブルの上に乗る平板屋根という奇抜であるが、合理的な設計であった。

浦東空港国内ターミナルビル

西安までは雲海の上を飛ぶ。梅雨のぶ厚い雲が上海から西安まで全てを覆い、雲に入るたびに乱気流で機体は揉みくちゃにされる。西安上空で高度を下げると西 安は予想に反して大きな町で高層アパート群が沢山林立し、青色のトタン屋根の工場群(マーケット群)が広大な面積を埋め尽くしている。 「中原に鹿を追う」ロマンチックな風景を期待していたし、確かに大地は黄土色ではあるが意外に低い山に取り囲まれているではないか。雨が少ない乾燥地帯だ というのに雨まで降っている。

17:20西安・咸陽(かんよう)空港着。空港は西安の北西約1時間のところにある。 空から黄土色に見えた大地はちょうど小麦を収穫したあとで、これから夏にかけてトウモロコシを育てるのだという。バスで南下中、自然通風式冷水塔をもつ大 きな火力発電所をみる。石炭火力のようだ。 帰ってグーグルで航空写真で確認すると石炭置き場があり、排煙脱硫装置も装備している。石炭は鉄道で搬入していることがわかる。渭(ウェイ)河を渡ると、30階建ての住居用高層ビルが沢山建築中である。道路の右手は沢山の工具ショップが立ち並んで 目下うなりを上げて発展途上という雰囲気。

バスはやがて西安の西壁に 沿って南下している。この城壁は明代のものだという。左折して門をくぐり 、城内に入る。市政府前でバス下車。日暮れた狭い路地を南に向かってしばらく歩く。ビルの谷間で千枚タコを揚げている。徳発長餃子店にて夕食。バスに戻 り、鐘楼のあるロータリーを 真っ直ぐに南下。南城門に向かうとき、右手に徳発長餃子店が見えた。

南の城門を出たところに当日の宿、巨大な西安君楽城堡ホテル(Hotel serial No.499)があった。吹き 抜けのロビーをもつ米国式のホテルである。テレビでは上海の近くが洪水であると報じていた。CNNもBBCも全て見れる。ここで2泊予定。

第二日 (6月21日)

西安ではめったにないことだそうだが、朝から雨である。

バスにて兵馬俑に向かう。ホテルから東進し、城壁の外側を東進し、兵馬俑専用の高 速道路にはいる。兵馬俑は無論、兵馬俑より1.5km西にある秦の始皇帝稜の付属物である。東に向かって流れる渭河とその南にある驪山に挟まれた平地に秦 の始皇帝稜はある。この始皇帝稜 はピラミッド型の土盛りである。しかし日本の天皇陵のように発掘しない方針で、立ち入り禁止であるという。とはいえ地中レーダー探査が行われており、水銀 の川や海が確認されている。

秦始皇帝が造営した咸陽宮(かん ようきゅう)は漢時代に完成した現在の西安城の北、渭河の北にあった。現在の西安城には信宮(極廟)があった。咸陽宮はペガスス座、渭河は天の川、渭河にかかる橋は閣道とよばれカシオペア座に相当。そして極廟は小熊座に相当。

偶然 、地元の農夫が井戸を掘っていて発見した兵馬俑だけが公開されている。今回はこの旅を企画したリーダーの親戚関係の縁で文物交流中心の副総経理がアレンジ して兵馬俑考古学研究所の所長に面会するという旅である。バスのまま、研究所正門に乗りつけ、研究所の所長応接室に入り込み、首脳会談をするような儀式 ばったセレモニーに参列することになった。

VIP待遇

このコネは強力で一般観光客が入れないところまで入って陶俑と記念撮影をすること を許されるという中国式の特別待遇であった。


陶俑の特別参観

とって返す途中で西安の東にある別の石炭火力発電所を見る。西安城壁の南で大雁塔(だい がんとう)をバスの車窓からみる。大雁塔はインドより持ち帰った経典を玄奘三蔵法師が漢訳したものを収蔵するために建設されたというもの。

大雁塔

故宮博物館についで中国第二の博物館である陜西(せんせい)歴史博物館参 観。周、秦、漢、唐の文物が展示されている。開館したばかりの唐代の陵墓の彩色壁画の実物の展示参観がメインであった。銀製の水入れ(国宝)などすばらし い。ここでも特別展示室に入って宝物を参観。

唐代舞踊のディナーショウを鑑賞しながら夕食。西安君楽城堡ホテル泊

第三日 (6月22日)

ようやく雨が上がった。この旅の参加者は2度目が多いので一般の観光スポットには立ち寄ってくれない。やむを得ず朝食前にホテルをでて南門(永寧門)まで 歩こうとするが信号がなくて渡れない。遠景で我慢。下の写真を見ていただきたい、人もバイクもタクシーも同時に隙間を縫ってクロスに横断している。自転車 専用レーンが整備されており、自転車に人が引っ掛けられる事故が一番多いという。

帰国後、NHKの西安特集を見たが、この城壁の上は歩ける。そして門は二重になっていて桝形になっている。日本の枡形も中国に雛形があるわけだ。

この城壁内に回族の居住区がある。顔は中国人だが、敬虔な回教徒で頭に白い帽子をかぶり中国式仏教寺院風モスクで毎日5回礼拝している。回族の起源は、対 外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した中国人 (主に漢族)にあると言われている。馬姓が多い。

永寧

敦煌に出発する前に2ヶ所立ち寄った。一つは阿部仲麻呂の碑がある興慶宮公園で、二つ目は空海が学んだ青龍寺だ。興慶宮公園は唐の玄宗皇帝と楊貴妃が住ん でいた興慶宮の跡地だ。 ホテルから東進しで城壁を外れたところにある。阿部仲麻呂は玄宗皇帝に謁見している。ここでは大勢の人が音楽にあわせて中国式エアロビックスをしていた。 空海が学んだ 青龍寺は四国の4県がかなり支援したという。四国八十八ヶ所札所のO番だと称している。 興慶宮公園から南下したところにある。

青龍寺

そこでO番札所の朱印を押した住職直筆の般若心 経を参拝記念に購入。日本の年号が書いてある。


清龍寺の朱印のある般若心経 

この寺にも円仁は来ている。西 安の南に円仁も登った大雁塔が見えたがそこに行く時間はなかった。

13:25西安・咸陽(かんよう)空港発。 途中は雲が多く、ほとんど下界はみえず。

15:45敦煌空港着、快晴、気温38oC。 数日前に大雨が降り、敦煌は洪水に見舞われた、綿の栽培に被害がでたという。ところどころ、まだ水溜りが見えた。じつは敦煌は南の祁蓮(チーリェン)山脈の雪解け水が谷間を通って 砂漠に流れでたところに出来たオアシスだ。時々洪水に見舞われるので低地から小高い土地に移転したのだという。

敦煌より500km東の内モンゴル自治区に11世紀に興り14世紀ころ滅びた西夏のカラホトという都市があった。これが滅びた原因は14世紀にの小氷期で 気温が下がり祁蓮山脈から流れ出る雪解け水が減少したためとされる。

敦煌市内の太陽大酒店(Hotel serial No.500)にチェックイン 後、バスで鳴砂山(めいさざん)と月牙泉(げつがせん)に向 かう。鳴砂山は敦煌の南側に東西40kmに渡って横たわる砂丘である。北風で砂が砂丘の南側に横たわる山に吹き寄せられてできたため、砂丘は移動しないと いう。

鳴砂山

電気自動車で月牙泉に向かう。月牙泉は砂の底に 溜まった三日月形の小さな池である。この水も涸れないという。

月牙泉

帰路は駱駝に乗って帰った。

駱駝に乗って 砂漠の左手遠方に莫高窟のある三危山が見える

第四日 (6月23日)

バスで莫高窟(ばっ こうくつ)にでかける。敦煌市街から東側にむか う。緑が消えると一面の砂礫が広がる平原にでる。これは砂漠とはよばず戈壁灘(ごびたん)と呼ばれるそう だ。モンゴルのゴビ砂漠も砂礫の平地という意味だそうだ。空港の手前で右折。南下して砂の鳴砂山と荒々しい岩山の三危山の間の谷に向かう。洪水が削った河 原が荒々しい。やがて谷が狭くなるところの崖に沢山の洞窟があった。一番大きい洞窟の外には化粧の木造寺院があり、中には粘土で練り上げた巨大な大仏が鎮 座している。


莫高窟

ほかにも大仏が1体と大きな涅槃増があった。その外は沢山の壁画や、万巻の書が見つかったという部屋も見て廻った。いずれも中央に釈迦を置き、左に若き阿 難(アーナンダ)、右に老齢で痩せた迦葉(かしょう)の配置 である。

手織りのシルク絨毯工場を見学敦煌 の市街地に戻り、市街地を横断して敦煌から南西70kmの所ににある「陽関」に向かう。途中広大な砂漠にメガソーラーを設置している。周辺は軍の駐屯地で もあるようだ。

メガソーラー

さらにゆくと雪を頂く5,564mの主峰を持つ祁蓮(きれん or チーリェン)山 脈から流れでる水をせき止めたダムが見える。この水は暗渠と開渠を経て敦煌に向かい、灌漑用水と飲料水に使われている。ダムも軍に守られている。

陽関(ヤンクワ ン)はシルクロードのルートの一つである「西域南路」の関所であり、また北の玉門関同様、重要な軍事拠点であった。現在は烽火台跡が残る。 烽火台跡下の南湖多というオアシスに陽関を復元した施設がある。ここで昔の通行手形である陽関都尉関牒を申請した。30元である。木簡形式で味わいがあ る。1901年スウェーデンのスウェン・ヘディンが楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見している。

陽関

陽関より西方、タクラマカン砂漠東端の楼蘭と幻 のロプノール湖方面を望む。海抜は1,400mで南に雪を頂く6000m級のアルチン(アルトゥン)山脈があるため、北に傾斜してい る。楼蘭と幻のロプノール湖は中国の原水爆実験場であった。念のため放射線検出器 を首にさげてきるがここでは砂においても警報音は発しない。

展望台で楼蘭と幻のロプノール湖方面を背にして 手にしているのは 関牒

この陽関については、唐代の詩人「王維(おうい)が詠んだ有名な詩がある。

 渭城の朝雨 軽塵を潤す
 客舎青青 柳色新たなり
 君に勧む更に尽くせ一杯の酒
 西の方陽関を出づれば故人無からん

この詩は、「安西都護府(あんせいとごふ)」へ帝の使者として旅立つ友人「元二(げんじ)」を「渭城(いじょう)」まで送っていき、いよいよ西域への 関所となる陽関へ向かう日の朝、別れの杯を交わしている情景が詠われたもの。護府とは、現在の新疆ウイグル自治区にあった町。渭城とは長安(現西安)の北 西、渭水を越えた北西にあった町である。

ダム近くで帰路、映画撮影隊に遭遇。 写真撮影のためバスから下車したとき路傍の小石を拾う。花崗岩のようだ。大陸の中心だから当然であろう。

映画撮影隊

敦煌市西南に隣接して中国石油の一大コミュニティーがある。住民は主婦と子供のみでだんなは遥か西域で油井の掘削や石油の生産に従事しているのだ。所得水 準がまるで違い、スーパーリッチの租界であるという。土産にガ イドより紅梅肉、干しナツメ、冬虫夏草ドリンクを購入。

太陽大酒店泊。寝る前にガラス板を張ったテーブルに置いた放射線警報機が突然鳴りだいたのでビックリ。2度程鳴るが、特 に砂など持ち込んでいないので不思議。

第五日 (6月24日)

午前中は敦煌夜光杯工場に立 ち寄り、夜光杯とやはり木簡に刻んだ孫子兵法 全巻を購入。今回最も高価な買い物となった。

夜光杯

木簡に刻んだ孫子兵法全巻

夜光杯は祁蓮(チーレン)山脈でとれる玉石から作られる玉杯である。鉄分 を含むため、磁石に感応する。王翰の涼州詞に

葡萄の美酒 夜光の杯
 飲まんと欲して琵琶馬上に催(うなが)
 酔うて沙場に臥すとも君笑うこと莫れ
 古来征戦 幾人か回(かえ)

旧制一校寮歌「あゝ玉杯に花うけて」の玉 杯はこのことか?それにしてもかってのエリートは腐敗したものよ。

10:15西安に向け飛び立つ。 帰途は雲がなく下界を見ることができた。西安までは始めは雪を頂く峰もあり、山間の谷を下って平野部に出る扇状地は氷の扇状地となっていた。次第に山は低 くなるが、蛇行してながれる川には次第にダムが増える。そして低い山の比較的平坦な台地の上は段々畑と小さな集落が延々と続くようになる。 西安を空からみつと沢山の高速道路が建設中である。

丘の上を埋めつくす段々畑

西安の海抜は400mであった。西安での上海へ の乗り継ぎは19:00のため 、一旦外に出てバスで漢陽陵に向かう。漢陽陵は空港の東で西安の北にある。漢陽陵の南には初めてみた石炭火力がある。

帝陵 芝の下は地下発掘場

陽陵は漢景帝と皇后の夫婦を合葬した陵墓で、帝陵は西、皇后陵は東にあり、その間隔は400m。陵墓は4角錐台形の「覆斗形」。4つの坑から陶俑300 体、木車と鉄器、農機具、貨幣が数百発掘されている。発掘現場は屋根がかけられ地下室のまま展示されている。陶俑の体形は細長くて、均整がとれており、形 や表情は一様でなく、年齢や性格の違いがはっきり現れており、写実的で優れた芸術品である。全て裸体で男、女、 宦官の区別がある。手は木製で衣類は実物だったため、なにも残っていない。

三代目漢景帝は文帝の子で母は竇皇后(いわゆる前漢の時代)。前157年、32歳のときに皇帝となった。16年間在位し、前141年に未央宮で亡くなると 陽陵に葬られた。文帝、景帝時代の約40年間は政治は安定し、社会も持続的に発展していた。景帝は在位中に「与民休息」政策を実行し、農業を奨励し、産業 を発展させた。「呉楚七国の乱」を平定すると中央集権体制を強化して政権を確固のものとした。

北京が洪水とかで到着が遅れ、上海 への便は2時間の遅れとなった。空港内のカフェで粘った。若い中国人はこの間、ThinkPadをテーブルに置き、熱心に仕事をしている。

上海浦東空港には23:00到着。19世紀後半から20世紀前半の租界時代に建てられたさまざまな様式の西洋建築が並ぶ 外難(ワイタン or バンド)のライトアップは消えていた。ザ・ペニンシュラ上海前でUターン、管状道路 経由で上海粤海酒店(Hotel serial No.501)に向かう。

第六日 (6月25日)

朝ゆっくりしてまず外難に向かう。小雨が降っている。外難の対岸は26年前にはただの農地だった。いまはこちらが中心。一番高くみえるのがテレビ塔、その 右手奥は森ビル。

外難の対岸

英国の旧税関は変わらぬ姿を見せている。租界では中国に徴税権はなく、英国が勝手に徴収していたのだ。税関ビル裏の高層 ビルはウェスティン・ホテルだ。26年前には無論無かった。

2011年の旧税関

26年前に反対側から撮影した写真と対比しよう。

shanghai.jpg (12650 バイト)

1984年の旧税関

伝統的な中国式の街、豫園にゆく。 入り口で板に叩きつけるとペシャンコになって、次第に球状に戻るプラスチック製のオモチャを孫に買う。しかしこれは喉に詰まらせると危険のため、も少し、 大きくなるまでお預けとする。

豫園の湖心亭

搭乗前検査でトランクに入れておいた冬虫夏草ドリンクがX線検査で見つかり、トランクを開けさせられたが、口シールがあることを確認してパス。17:05 発のフライトは台風のためかマシントラブルのためかキャンセルとなり、中国国際航空が用意したホリデイ・イン上海雲亭假日酒店(Hotel serial No.502)で 仮眠。隣の工場は24時間操業していて驚く。テレビのスイッチを入れると夜のゴールデンタイムというのにモノクロの抗日戦の映画である。これは共産党政権 の思想教育の一環なのだろう。

朝4:30に起床すると再び放射能検出警報器が作動する。汚染が取れて いなにのかとサブザックを空にして埃をシンクに流す。帰国後これはクーラーで冷やしてから暖かい気温下に戻すことによって、低いレベルのアラーム鳴る現象 と理解した。確認するために冷蔵庫で2分〜3分冷やしてから室温の環境に取り出すことにより、アラームが鳴るのを確認した。

第七日 (6月26日)

朝5:30起床で空港に向かったが、遅れに遅れで上海を出発できたのは正午近く。旅の間、生水はのまず、ビール、茶、湯冷ましであったが、やむを得ず最後 に残ったコインでペットボトルの水をのんだ。 これがいけなかった。帰国して下痢となった。旅の途中から激しい下痢に悩まされた人が居たが、帰ってから病院で検査したところ、金魚が感染する細菌が原因 だという。どんな時も生水は厳禁。特にペットボトルの水は危険は一杯。 大陸は島国にくらべて生物の多様性が広い。どんな曲者が居るか分かったものではない。アー!我々は東海の楽園で安逸をむさぼっているのか?

成田着

June 30, 2011

 Rev. October 7, 2020


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