伊豆

八丁池・発端丈山

2006年12月4ー5日、wakwak山歩会は伊豆の八丁池(1,170m)と発端丈山(ほったんじょうやま 406m)へのハイキングに出かけた。主目的は軽い散策の後、来年の登山計画立案と忘年会をしようというものである。

残念ながら来年の計画のタタキ台を作ったmaさんは風邪でダウン。残る3人で少なくとも来年の1月の計画を決めようと予 定通りでかけた。


第一日

本日の予定は天城峠からの八丁池往復である。総距離9.57km、累積登り688m、累積下り759m。

8:40三島駅集合。伊豆箱根電鉄駿豆本線で修善寺に向かう。ここで9:50発の東海バスに乗り天城峠で下車。しかし天 城峠から八丁池に向かう「上り御幸(ごぎょう)歩道」はがけ崩れのため閉鎖中と看板がある。 「上り御幸歩道」は1957年に学習院の同級生だった愛新覚羅慧生と大久保武道が百日紅(さるすべり)なる ヒメシャラの下で武道の父の軍用拳銃で心中したところだ。やむを得ず水生地下(すいせいちした 700m)までバス道を戻り「下り御幸歩道」経由で八丁池に向かう。登り始めは11:00頃だろうか。途中でがけ崩れをすぎたあたりで「上り御幸歩道」に 合流する道を見つけてそちらにはいる。登山地図には点線でしか書いてない道だ。後にワサビ畠にゆく道だと知る。13:15八丁池展望台(1,170m)に 到着。垂直移動速度は208m/hである。

周囲が八丁ある普通の池かと思っていたが、八丁池は噴火口だとわかる。遠くに万三郎岳が見える。池は氷がうっすら と張っていた。水深1.5mという。流れ出す川はない。池の水際にコンクリートの杭とコンクリート板で土止めしてあるのにはがっかりした。自然の水打ち際 を破壊して文明開花といきがる行政の偏向は困ったものだと残念に思う。

展望台からみた八丁池

昭和天皇が戦前の4年にこの池に御幸したときにこの護岸を作ったのだろうかと思って後で宿の主人に聞くと、あれは戦後、営林署が山小屋を経営するために護 岸して池を一部埋め立てたものだという。さすがまずいということに気が付き小屋は撤去したが埋め立てた護岸はそのままに放置したのだという。天城山は徳川 幕府の直轄領であったため、明治維新でここは国有林となった。それゆえ土砂崩れした「上り御幸(ごぎょう)歩 道」の修復すら営林署の許可がいることになっている。その許可を取るのに1年かかったそうである。この土砂崩れも戦後営林署の指導で天然の広葉樹を伐採し て杉を植林したために生じたらしい。自然保護という錦の御旗を持ってもったいぶっているにも関わらずよろいの下では自然を破壊して気もついていない風情で ある。まったく役に立たなくて害ばかりまきちらす役所の典型だろう。

営林署による自然破壊

13:45に八丁池を出発し、「下り御幸歩道」経由で水生地下に15:15着。下り垂直速度は313m/hであった。「下り御幸歩道」は杉林も少なく、ブ ナの巨木が残っていて気持ちがよかった。ヒメシャラの木も多い。昭和天皇が御幸したとき「私が来るといって、このように木を磨かなくてもよい」と言わしめ たという伝説が残っているくらいなまめかしい肌をしている。 雑草という名の草はないと言っていた昭和天皇が営林署が埋め立てた八丁池の護岸を見たならば「私がくるといって・・・」と言ったに違いないと思う。

バスで湯ヶ島温泉に移動し、民宿「しきや」に泊まる。(Hotel Serial No.378)バス停から渓谷沿 いの散策道、「湯道」を下ると、昨年、猫越岳(ねっこだけ)登 山の帰りに汗を流した源泉掛け流し[河鹿(かじか)の湯](Hot spring Serial No.221)のすぐ隣に あった。川端康成が「伊豆の踊り子」で舞台とした湯本館(Hotel Serial No.336)もすぐ側である。 この民宿の湯は豊富な掛け流しで気持ちよかった。来年のバイクツーリングの宿にしたら良いと気がついた。「湯道」は 湯ヶ島出身の井上靖が自宅から湯に入るために好んで歩いたためそう呼ばれるようになったと宿の主人はいう。


第二日

本日のコースは城山登山口からの発端丈山に登って相模湾側の三津浜中央に下るルートである。総距離5km、累積登り477m、累積下り519m。

宿の主人に城山(じょうやま)登山口まで車で送ってもらう。城山はロック クライミングのメッカともなっている大 岩壁がある。オーバーハングのある岩壁をみながら登るのだが、杉の植林地に竹が入り込み、雨で表土が流され、大きな岩がゴロゴロしていて林床は今にもがけ 崩れでもしそうな感じである。ここも戦後の 杉植林の後遺症を患っているようだ。

発端丈山展望台より駿河湾、淡島、元沼津御用邸と富士山を望む

ロープウェーのある葛城山(かつらぎさん)からの道を合流して杉林の暗い尾根筋を歩いてゆくと益山寺(えきざんじ)への分岐があるが立ち寄らず発端丈山に向かう。急坂のピークを一つ越せば山頂にたどり着く。発端丈山は杉 林もなく富士山が良く見えるが、尾根が邪魔して駿河湾は良く見えない。少し下ったところにある。コンクリート製の 展望台からは駿河湾 、淡島、元沼津御用邸と富士山がバランス 良くみえてまるで絵葉書のようだ。右手には沼津アルプスが見える。

発端丈山は内 浦湾に面しておりここの長浜漁港はヨットの係留場所を提供している。数百隻のヨットが並んで係留されているのが良く見えた。かってここに調査に来 たことがある。ステラポラリスが係留されていた入江もみえた。

内浦湾のマリーナ

発端丈山の名前の由来を調べてみた。南北朝時代の1361年鎌倉公方足利基氏と対立した関東執事畠山道誓はかって守護職を務めた伊豆国にて挙兵、基氏に反 旗を翻す。これを「畠山国清の乱」 という。国清は修善寺城を本城とし、三津城(発端丈山)=金山城(城山)を支城とした。しかし鎌倉公方・足利基氏の物量作戦に負けて、三津・金山城を捨て て修善寺城に立て籠もり、そしてここで降伏したという。この歴史から察するに三津城があった「じょうやま」に丈山という当て字が使われ、間違って「じょう ざん」とよばれるようになったのかもしれない。しかし発端のほうは分からない。

長浜に向かって下るとミカン畠にでる。真っ直ぐ下れば長浜だが、三津シーパラダイスから長岡行きバスに乗って下仁田町(合併して伊豆の国市)に向かうため に三津浜中央にむかう。ここでバスを拾い 伊豆の国市に向かう。市役所前で下車して湯屋光琳で汗を流し、生ビールで乾杯。(Hot spring Serial No.237)

酒をのみながらkuriさんが「日経に連載中の読売新聞の渡辺恒雄氏の”私の履歴書”で彼を見直した。また堺屋太一の”世界を創った男ジンギス・ハン”の 小説はすぐ組織論を持ち出してだれる」という。konは 「今NHKで放映中の司馬遼太郎の山内一豊と千代のTVドラマに言及し、彼の書くものは皆に称賛されているけれど、どうもしっくりこない。藤沢周平のほう が読んで心地よい 」という。これは司馬遼太郎がいつも社会の指導層にしか目がゆかないことと関係があるのだろう。堺屋太一もそのきらいがある。どうも若いとき大きな組織に 属した経験のある作家は自然と指導層の行動に敏感になるようだ。トインビーの「歴史の研究」も突き詰めれば指導層と被指導層との相克とし て歴史を見ているといえる。

レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「プレイバック」でフィリップ・マーロウが吐く有名なせりふ「タフじゃなくて は生きて行けない。やさしくなくては、生きている資格がない」の前半は司馬遼太郎が興味を持った分野で、後半は藤沢周平が描いた世界だろう。本サイトの読書録で藤沢周平物数編 について読書録を掲載したところ、かっての仕事仲間から 「許す気持ちになった」とのメールをもらったことが忘れられない。高校の同期のWなど、会社社長を経験したせいか引退した後も大学院に入って組織論で博士 号をとるのだと意気込んでいる。彼のご先祖が地頭だったという。これも一種のサガなのだろう。

セイコウの潜水腕時計のバッテリーの寿命がつきて時間の記録はない。バッテリーは5年もった。この機械は名機だ。30年間少しも狂わないし、バッテリーも 長持ちする。

December 14, 2006

Rev. November 23, 2017


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