テヘラン、バクー、アシカバード

テヘラン

1998年、シャーがイランから追放になってから初めてテヘランを訪問した。(Hotel Serial No.116)イ ラン石油省と外務省共催のカスピ海沿岸石油・ガス資源の輸送問題の国際会議出席のためである。以前にこの国を訪問してから20数年経ったであろうか。英国 航空のタラップを降りた直後からVIP扱いであったためもあり、テヘランの印象はシャー時代より向上した。かってのパーレビ通り(VALI-YE-ASR Ave.)も並木がいっそう大きくなった。並木の根元に水が流れているのも昔のとおりであった。大きな違いは高速道路が市を取り巻き、北の山に向かって都 市が伸び、高層アパート郡が林立していることである。交通道徳は悠然と高速道路を徒歩で横断する人が依然いるが、かなり良くなっている。車も旧式ながら国 産化がすすみ小奇麗である。

初日は主催者の案内でカーペット美術館を訪問した。我々が知っている唐草模様以外にも人物画や戦史物が結構あることは発 見であった。7センチにノットが120の縦6メートル、幅3メートルの絨毯は2人が7年かかるそうである。絨毯の価値は人件費で決まるのでノット数できま る。主催者の案内でパーレビ通りの下の方にある Kord Kazemi という店で純粋イラン料理をご馳走になった。

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Kord Kazemi

会議は地下に作られた国際会議場でおこなわれた。アジア大陸内部に閉じ込められている石油・天然ガス(Yamalガス田が世界最大)世界市場に出す ためには数カ国に渡るパイプラインが必要となるが、コストと政治的利害関係の整理がむずかしい。イラン経由の有利さを喧伝する会議ではあったが、会として は110名の関係諸国の参加を得て成功であったと思う。

イランの会議は無事終わり、次ぎの世銀のコンサルタントとしての訪問の目的地、アシカバードに1998年11月10日に移動し、20日まで10日間滞在した。(Hotel Serial No.117 & 118) テヘランの北にある3,000メートル級の山を越せばよいわけであるが、直行便がないため、インスタンブール経由もあるが、近いバクー経由で入った。

テヘラン空港で美人の女性に声をかけられて非常におどろいた。話を聞くと彼女はわが社のテヘラン事務所に勤務していて、私がアシカバードに飛ぶことを知っ ていたらしい。バクーまでご一緒しましょうと、隣の席を予約した。彼女とは色々なことを話したが、いまでも忘れられないのは、イラン人 がアラブ人にもつ優越感である。コーランはアラビア語で書かれているため、イラン人でもアラビア語は読めるが、日常使うペルシャ語は全く別ものである。そ して歴史的にペルシャの文明度はアラブより高い。このようなわけで彼女のアラブ人の蔑視観はかなりのものであった。彼女はペルシャの優越性の実例をいくつ か数え上げたが、代数学(アルジェブラ)の生みの親のハリズミー、イスラムの大詩人のウマル・ハイヤーム、ハーフィーズ、サアディーは皆ペルシャ人であると。

 

バクー

バクーから雰囲気はがらりと変わる。旧ソ連の影響が濃厚に残っているためである。言葉はトルコ系の現地語が公式言語であるが、ビジネスではロシア語 が一般的。英語を使える人は極端に少ない。中央アジア諸国の国名の語尾にスタンが付くがこれは・・・の土地という意味だそうである。いずれもトルコ語圏で 旧ソ連がローマの分割統治方式(英国ではdivide and rule、)を採用したため、人工的に分かれてしまったものである。

 

アシカバード

アシカバードに入ると裕福なせいか、空港も町も整備されている。1948年の地震で町が完全に倒壊したことが、町をロシア式に完全に変えた出来事で あったとのこと。アシカバードはカラクム砂漠のはずれにある緑したたる町である。毎年3万5,000本から4万本の木が植えられている。電力ケーブルが埋 葬されているため、電話線とトロリー架線以外電柱がなく、街路樹が作るゴチック様の緑のトンネルは見事である。この緑は全て植林と灌漑システムによって出 来た人工的なものである。トルクメニスタン東部のタジキスタン、アフガニスタンから流れ下るOxus河(現在はAmu-Darya河)河の水を取ってし まっているので北のウズベキスタンとカザフスタンにまたがるアラル海は干上がってしまっているのは有名である。人口は54万人。町の歴史は1881年にア シカバード村に要塞が置かれたことに始まる。

アシカバートの北側の平地には空港があり、その北の砂漠の中には1,000キロ引いてきた灌漑用水用の運河がある。日曜日になると用水の北にあるラ クダが草を食べている砂漠のなかでTolkuchka bazarという青空市が開かれている。売っている人は殆ど遊牧民に見える。アシカバード市内の人は外国人といっても良いくらいの違いがある。場外の砂漠 は馬ならぬ自家用車、バス、サイドカー、砂塵などでごった返している。会場内では立錐の余地もない人ごみの中でカーペットから、帽子などあらゆる遊牧民の 生活物資が売られている。ビールは1ドルで2本買える。食事もとれる。場外の道端では砂塵のなかで屠殺したばかりの牛の頭蓋骨を取って脳を露出させた頭部 や足、運河で獲れたらしい淡水魚、玉ねぎ、カボチャ、生きた羊などが売られている。

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トルクチャカ・バザールで

アシカバートの南にテヘランで北に見えた山脈が連なっている。この山脈に向けて陸地は次第に傾斜を急にしてせりあがっているが、この南側の高地に豪 勢な新築の国立博物館があり、その前にはCIS首脳会議のために1992頃急遽建設したホテル群が一列に並んでいる。この新興地帯と官庁群のある都心を結 ぶ道路際には噴水群が列をなし、金色のモスク様の大統領官邸、建設中の国会議事堂、記念塔など金に糸目を付けない、威信発揚の場となっている。また大統領 の持病の心臓病を専門とする病院も近くにある。

宮殿前で

町にはカジノが沢山あり、通貨の交換も自由である。一見繁栄しているように見えるが、ロシア経由のガス輸出が料金不払いで止めているため、外貨準備 は底をつき、国家財政は危機的状況になる。また天候不順で綿花や穀物の作柄も良くないようである。地方は外の世界と関係ない独自の共同体を作っているが、 都市住民の食料不足と石油・ガス産業の外貨不足による補給困難などの事態が予想される。現政権はソ連から学んだ統治方式しか知らず、西洋型に移行するには 次世代を待たなければならないような気配である。たとえば未だに統制経済、バーター取引、価格統制、補助金などで経済がゆがめられている。潤滑油一つ購入 するにも、一仕事である。国内の移動にも道路の要所、要所に設けられたポストで外国人はパスポート、国民ですら身分証明書の提示を求められる。

トルクメニスタン東部のガス田視察の折り、近隣の村を訪れ、お茶と夕食をご馳走になった。家は日干しレンガ製で漆喰が塗られ小奇麗である。庭にまわ ると土壁の部分もあり、わらが土壁に塗り込められているのは日本の土壁と同じ。かすかに家畜の匂いがただよい、ロバが放し飼いで、鶏のいる砂漠のなかの村 である。雨が少ないため、料理は庭庭でする。ガスが無料のため、常時手製のトーチでガスがたかれ、料理する時、伝統の土のかまどにこのトーチかまどに突っ 込む。暖房はこれも壁を貫通している鉄のパイプのなかにくだんのトーチをいれるだけである。家の中は土間と一段高くなっている絨毯で完全に覆われている居 間で2分されている。貧しいので、毛布が絨毯のかわりに敷かれている。中央にカラーテレビがあり、ロシアのクイズ番組が見られる。テレビの両側には表面を アラベスク模様で飾った、長持ちが置いてある。食事はこの絨毯の上に座布団をくるま座に敷き、中央にビニールシートを敷き、その上で食器で供される。箸、 ナイフ、フォークなどはなく、素手で食べられるようなものであった。お茶は中国茶である。料理の味付けは日本人には口にあい美味い。女性は色物のスカーフ をしている。子供は大勢いる。子供はどこでも同じ。

ガスプラント

砂漠の中を一直線に伸びる道路は舗装されているが、中央の白線も、ガードレールも、照明もない。夜は100キロで走行していても対向車のヘッドライ トが見えてからすれ違うまでかなり時間がたつ。停車して空を見れば満天の星である。銀河がひときわ明るく見える。夜、平行する未舗装の道路を走行するト ラックがあげる砂塵の中に突っ込めば、霧に入ったと同じく全く見えない。夕刻、砂漠のくぼみに霧が発生したのかと目をこらせば、その中に羊の大群がいる。 土煙だったのだ。明け方は蜃気楼が砂漠を湖と化す。砂漠に1歩足を踏み入れれば、そこにある植物はほとんど、トゲがあって採取もできない。トカゲを見かけ ただけで動物の影は見えないが、そこここにテニスボール大の穴があり、小動物が生息していることをうかがわせる。

ビジネスにかんしては「回顧録 第21章 1998年:世銀のコンサルタントとして 」を参照願います。

今回の旅で日本と文化・習慣が異なるため、戸惑ったり、困惑したことを参考のため、添付する。

1998年11月5-9日

Rev. March 21, 2010


1998年のこのイランの国際会議に出席したときはこの世界最大のガス田 開発をどうすれば実現できるかなとという討論会をやっていた。そのときははるか先の夢物語をおもったものだが、ロシアからバルチック海経由ドイツへのパイ プランはすでに2本が実現。砕氷タンカーによるLNG輸出の夢は20年で実現した。

千代田化工がシェル社のサハリンのLNG建設をしたことから、このヤマル・LNGプロジェクトの基本計画の仕事をTotal経由で受注したとは聞いていた が、公表ビデオを見るとオーストラリアのダーウィンLNGと同じモジュール工法を採用しているようだ。モジュールの製造は、釜山のサムスン重工のようだ。 コンバインドサイクル・ガスタービン圧縮機はGE、液化器はその外形からAPCI製と見える。今後もモジュール製造はサムスン重工か中国のどこかというこ とになるだろう。砕氷機能をもったLNGタンカーはまだ日本の造船で三井造船製。

ロシアは日本にLNGを売りたかったのだが、中国しか見つからなかった。2017/12/8に第1船が出港とか。ホルムズ海峡が不安定だから、これは日本 にとっても原発稼働無しに電力確保ができるという意味を持つのでは。いずれにせよパナマ運河経由の米国LNGとの競争には勝つだろう。

技術的にはヤマルからモンゴル経由で中国までのパイプライン輸送も可能。ただツンドラ地帯横断のためにはガスは圧縮後零下に冷却しないとパイプラインは氷 の海に沈み千切れてしまう。シェル社の意見では一旦海に出口を持ては自由があって、あらゆる事態に対処できると考えるようだ。ここにも地政学の理論が 作用している。

Rev. January 4, 2018



その後

ロシアのパイプラインでヨーロッパに直結したプロジェクトや米国のLNG化は進んでいるが、トルクメニスタンのガスはいまで手がついていない。

May 5, 2022



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