第24章 1998年:

世銀のコンサルタントとして

ロシア崩壊後のトルクメニスタンの困窮

1991年のソ連崩壊後トルクメニスタンは独立したが、主たる国家収入であった天然ガスがソ連の需要激減のため国家財政は困窮を極めていた。

1998年に 世銀がトルクメニスタン支援のため対策を答申させるためコンサルタントを派遣した。この費用は日本が担当したため日本のコンサルティング会社に業務委託された。

アフガニスタンの北西の国境はトルクメニスタンである。ソ連の共産政権が崩壊したのち、ソ連はアフガニスタンから撤退した、米国の支援をうけたタリバーンがアフガン全土を掌握した1998年に、世銀はコンサルタント派遣を決めたことになる。

 

トルクメニスタン現地調査

世銀のコンサルタントのメンバーは英国人が中心でノルウェー人の電力担当1名、日本人は私とファイナンス担当の銀行員1名の2名だけであった。アシカバードに1998年11月10日に入り、20日まで10日間 調査のために滞在し、役所を廻って情報収集した。

トルクメニスタンの人口は459万人。77%はトルクメン人であるが、6-7%のロシア人を含む多民族国家である。公用語はトルクメン語であるが、ロシア語はまだ主用言語である。しかしロシア語のTV放送の時間は短 い。主用5部族が持つ部族の絨毯の模様が国旗に採用されている。大統領を含む主用官庁の高級職は主用部族によって占められているが、専門職はロシア系が多い。

ニヤゾフ大統領は第二次大戦で父を1948年の震災で残りの家族を全て失った。レニングラードで電気工学を学び、トルクメニスタンを構成する5大部族のうちの最大の部族の出身であることもあり、ソ連時代にトルクメニスタン共産党の書記長まで登りつめた。

独立後は党名を民主党に変えて大統領となり、2年で強固な体制を確立した。町の公的機関の建物の入り口には全て大統領の 大きな肖像画がかけられている。中東諸国で国営企業の管理職の個室の壁に元首の写真がかかっているのは見なれた風景であるが、屋外のいたるところにある大 型肖像画は異様に見える。国営テレビではトルクメンバシ(トルクメンの父)というフレーズが連呼される歌が放映されている。ただ同じ国営テレビが米国映画 をそのまま放映している。トルコ大統領が国賓として訪問していたが、両大統領がそれぞれ自国語で話しても通訳なして通じるようである。

宮殿前で

 

悪路を押してのガス田視察

首都アシカバードの東方300km地点にマリという都市がある。丁度ヒンズークシ山脈の北斜面をながれ下った川が砂漠に流れ出て扇状地となり、オアシスとなっているところだ。この町の南の郊外にガス処理の巨大工場がある。巨大な火力発電所も隣にある。

ガスプラント内ボイラースタック

アフガニスタン国境から200kmの地点だ。全ての川はアラルとカスピ海に向かっているが、砂漠地帯のため川は途中で消えている。ソ連がアラル海への川の水をかなりトルクメニスタン側に引いて綿花の栽培をしたため、アラル海は小さくなってしまったと聞いた。

リーダーに頼まれて国境近くの巨大ガス田の調査に単身ポンコツ・ベンツで未舗装の道路を8時間かけてでかけた。

200km先がアフガンとの国境であるがトルクメニスタン側は平穏で不思議な感じであった。砂漠に集落がボツボツあり、ガス井のクリスマスツリーが分散 し、中心に巨大なガス処理プラントがある。周辺は平穏であった。人が立って歩ける鋼管3本でロシアにガスを送っていたのだ。設備はグリール脱水装置と 送出圧縮機群、ガス計量計、ボイラー式自家発電装置が中心だがコンデンセートの蒸留塔もあった。計器はロシア製の空気式である。メンテナンスは最低限して していなく、見かけはスクラップ寸前という感じで、いまも同じのようである。


大きな地図で見る

ポンコツ・ベンツが動かなくなり、修理する間、地元の家でご馳走になるなど貴重な経験をした。米軍などこのようなところに来ても、情報も取れないだろうと 思う。どの家もニワトリと犬を飼っていて、アジアとヨーロッパの中間的文化という感じであった。ニヤゾフ大統領が倒れそうになりながらも強権政治で支配し ていたから無事帰れたが、今考えるとかなりヤバイことをしたなと思う。隣の アフガニスタンをみれば独裁政権であれなんであれ、治安が乱れてしまっては人々は苦しむことになると痛感する。

なぜ米国が9/11を口実にアフガニスタンに侵攻したかと考えてみると、このトルクメニスタンのガスをインド洋に出す回廊がほしかったのだと私はにらんでいる。

ブッシュを煽動して介入させたのがハリバートンの社長だったチェイニーである。私のいた会社の株も三菱の斡旋でチェイニーが持っていた。デイヴィッド・ストローンの「地球最後のオイルショック」によればチェイニーはピークオイルを恐れていた。生産が頭打ちになると価格暴騰が発生するためで ある。それが2008年に発生したことだが金融恐慌でいま下火になっています。景気がよくなれば再発するはず 。ブレアがブッシュの誘いに乗ったのもピークオイルを恐れていたためという。日本の小泉首相にはこんな認識はなかったとおもう。

報告書作成

報告書は帰ってからまとめた。私の担当はカスピ海沿岸でガスベースのペトケミコンプレックスの評価であった。しかし全てのガスを使えるものでもない。メイ ンはロシア経由のヨーロッパへのパイプライン輸送としたが世銀のイギリス人担当者が気に入らず書き直しをさせられたという。

その後

引退後、同じコンサルティング会社から世銀関連の業務への誘いがあったが、困難な業務を思い、参加はお断りしている。

2004年ころからヨーロッパのガス需要が増え、我々の予想通りになった。ロシア経由のガス輸出が増加し、トルクメニスタンは救われた。 更に既存ルートの増強をするという。この国を20年間君臨してきたニヤゾフ大統領は2006年12月21日、急性心不全で死に、後継者はその路線を踏襲しているという。

南ヨーロッパに向かう新たなルートとして黒海横断のサウス・ストリーム計画(2015運転開始、年間630億m3、海底900km、陸上2,000km、1兆510億円)、トルコ経由のナブッコ計画(年間310億m3、3,300km、9,650億円)

見聞録

テヘラン、バクー、アシカバード参照

December 20, 2004

Rev. March 24, 2010


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