読書録

シリアル番号 1014

書名

塩の道

著者

宮本常一(つねいち)

出版社

講談社

ジャンル

歴史

発行日

1985/3/10第1刷
2009/4/15第49刷

購入日

2009/5/30

評価

講談社学術文庫

著者は代表的な民族学者の一人とか。その豊富なフィールドワークをベースとした考察は目からウロコという感じがある。

印象的なものに

@新潟県と山形県の境の新潟県側にある雷峠下の部落では塩を手にいれるために冬の間に山で木を切り、春に大川に流して河口で網で捕獲し、浜で塩を焼いて持って帰ったという。

A三陸海岸の野田村では3.5kmの砂浜があり、北上山中でとれた鉄を使った鉄釜を使い、直煮(じきに)製塩していた。この塩を北上山地の白樺とつつじの名所、平庭高原を通過して北上川流域に塩を運ぶのは牛(べこ)を使ったという。行商人は「野田べこ」と呼ばれた。塩の道は「野田塩べこの道」と呼ばれた。行商人一人6頭の牛(一端綱 ひとはづな)を引き、そして野宿したのだが、 二人組んで計12頭の牛を腹を内側に円陣に座らせ、円陣の中央で焚き火をして野獣を避けたという。行商人は牛の腹に身を寄せて寝たという。稗と塩を交換して帰った。

塩が入手しにくかった東北内陸部では塩不足の病があったというが、明治政府の専売制で塩は皆に行き渡ることになった。専売制で野田塩は第二次大戦直後の自給製塩時代に一時的に復活したが、専売制にもどって絶滅した。

B馬は立って寝るため馬屋が必要だが、牛は横になれるので野宿でもよい。

C日本では馬は乗るものではなく、手綱をとって歩くもの。鎌倉武士ですら家来が手綱を引いてあるいた。

D牛は道草を食べるので餌代が少なくて済む。

E馬による輸送は宿場毎に荷を積み替える継馬として使われた。しかし三河の足助(あすけ)、稲武(いなぶ)の山の上は平らで昔は牧場でそこでは馬が飼われた。明治期に山に火をつけて焼くことを禁じられてから杉山になり、一部はゴルフ場になっている。ここで育った馬は中馬(ちゅうま)といって塩を運ぶために通しで使われた。使用後は馬も売ってしまうこともあった。

中馬とは宿場毎に設けられた問屋を経ずに荷主との直接契約で荷物を運ぶ制度。語源は、手馬、通馬、自分馬など、諸説あるが、一般には、農民が作間稼ぎのた めに牛馬を4頭ほど連れて荷物を運び、遠方へ商売に出掛けるものを言った。通常の街道では、人馬の継ぎ立てなど、交通の事務を行う宿場問屋に手数料を払う ことになっているが、中馬は、付け通しのため運賃が安く、しかも早く着いた。

江戸時代、足助宿から出る荷物には口銭(通行税)が徴収されたが、それを徴収したのが、荷の口会所で、足助川と巴川の合流し、街道と交わるこのあたりに あった。徴収する口銭は、馬一駄につき12文、荷一荷につき6文、筏一筏につき36文であり、この徴収を巡って、会所側の問屋と支払い側の馬方の間で、天 保時代に争いが起きている。 

中馬街道は3通りあり、一番北が名古屋を発する官道である中山道である。

これに平行して中山道の南東側を通過するのが岡崎を発し、矢作川経由川船で足助まで運ぶか陸路→追分→(足助街道)→足助→(飯田街道)→明川→伊勢神峠 →武節→根羽→赤坂峠→平谷→冶部坂峠→浪合→(三州街道)→寒原峠→大野→小野川→駒場→前原→山本→飯田→伊那→塩尻→松本のライン。(この本には触れられていないが、糸魚川沿いにも塩の道があり、日本海から松本へ塩を運んだ。塩尻という地名は太平洋と日本海からの両方の塩の道の尻にあるという意味という)

そして最後は更に南東の豊橋の吉田を発し、中央構造線にそって→新城(しんしろ)→古戦場の長篠と別所街道をすすみ、長篠から分岐 して伊那街道を北上し、遠州街道にはいって飯田に向かうルート。このルートは信州街道が通じている中央構造線の一つ北西側の谷筋を通っている。

いずれも地形上の制約にしたがい中央構造線に平行に走っている。

Rev. April 29, 2016


トップ ページヘ