項羽と劉邦

最近の社会現象につき、グリーンウッド氏かっての職場仲間をメンバーとする非公開のラウンドテーブル21(一種の掲示板)に投稿した雑感と対話録新聞に報道されない裏話のつづきです。


項羽と劉邦

まえじまさん、

今夜のNHK TV番組「その時歴史が動いた」を見ましたか?項羽は西洋的な価値観と行動様式を持ち、劉邦はローマの帝政を開いたカエサルのように率直で寛容の心を持った人で、人望もあったが、目的のためには手段を選ばずというところもあり、融通無碍、無原則、猥雑で好色、信用の置けない人という感想をもちました。この人が直情で義の人、項羽を滅ぼして安定した400年の漢の時代を築いたわけで、漢字を輸入した日本はやはり彼の文化的遺伝子を受け継いでいるなという感を深くしました。信長や秀吉は項羽的ですが、家康は劉邦的ですね。市川先生の矛盾容認社会は劉邦の精神的子孫が作った社会といえるのかもしれません。先に紹介した陸軍がまとめた統帥綱領の高邁な品性、公明な資質、無限の包容力、卓越した見識、堅実な意志、非凡な洞察力などは劉邦や家康のバッドイメージを倫理でごまかすための仕掛けしかもしれませんね。

さて西洋と東洋の違いはどのように生じたのであるかという点に関し、東大名誉教授の肥前栄一氏の解説がおもしろかったです。かってウラジミール・イリイチ・レーニンはエルベ河の西側には市民革命と近代的土地制度を確立したイギリス・アメリカ・フランスを代表とするアメリカ型資本主義国諸国があり、東側にはプロイセン=ドイツ・ロシアを代表とする封建的伝統に制約されたプロシャ型資本主義国があると定義しました。日本は無論プロシャ型資本主義国に属するとされたわけで、これが私のいままでの理解でした。

しかしエルベ河を境とするこの分割の仕方は次第にすたれ、いまでは英国の人口学者ジョン・ヘイナルが1965年に発表した晩婚、低結婚率、結婚前の農業奉公人制度を特徴とする「ヨーロッパ的結婚パターン」で西と東を分割するいわゆるヘイナル線がより適切だろうということになっているようです。このヘイナル線は聖ぺテルブルクとトリエステを結ぶ線とほぼ一致します。この線の西側は封建的・資本主義ヨーロッパ、東側は前封建的・非ヨーロッパという認識だそうで、こうなると日本は封建的発展過程を経由しているのでヘイナル線の東側の国とは言えないのではないかとおもいます。西と東を定義するのはそう簡単ではないことになりますね。

グリーンウッド




Re:項羽と劉邦

グリーンウッドさん、

今週は TV番組「その時歴史が動いた」見損ないました。でも、項羽と劉邦の評価、分かります。その頃、理科大、成蹊大と中間試験をやり、その採点のため、自分の残り少ない人生の時間を費やしていました。理科大「化学工学」の場合、数値解を求めているので採点は比較的楽なのですが、成蹊大「応用数学」は式での回答を求めているので、色々なバリエ−ションの回答に結構手間取ります。例えばAt+Btも、Bt+Atも、(A+B)tも同じ意味ですよね。それに、双曲線関数(coshとかsinhを使う奴です)を、指数関数で表記する学生とか居たりして・・・・。
早く自分のHPのUpDateしたいです。

最近授業後、色々質問とか議論を吹きかけてくる学生が居て、それはそれで楽しいのですが、帰宅してみると自分はボロボロにくたびれています。質問や議論も成蹊大で化学工学だったり、理科大で応用数学だったり、その学校での僕の担当外の事だったりします。プロの先生方は何をしているのでしょうかね。

グリーンウッドさんから、ウォルフレンが「教育の重要性」を指摘してるヨ、と教わりましたが、今の日本の理工系大学は悲劇的です。僕は今1人ゲリラをしているような心境です。
これについては後刻ラウンドテーブルに報告しましょう。

まえじま

 

 

まえじまさん、

授業後、色々質問とか議論を吹きかけてくる学生が居るなんて、いい傾向ではないですか。ボロボロにたびれるのは判ります。本来教室は道場のようなもので教えるほうも教わるほうも真剣勝負する場になればしめたものですよね。高給取りのプロの先生は面白くないのでというか知的興味を掘り起こさないので、学生はまえじませんせいに絡んでくるのでしょうか?

グリーンウッド

 

 

Re:最近判明した明治政府による情報秘匿

グリーンウッドさん、パイントリーです、

「大昔わたしも若かった頃、司令官と参謀の役割の理想の形は司令官は泰然自若としていて参謀が知恵を絞って戦略を練り、司令官は「ヤレ」と言えばよいのだという話を パイントリーさんから聞き、なるほどと感心した覚えがあります。」に関し残念ながら、それ自体は覚えていませんが、「私が言いそうなこと」だと思います。それに類することを信じているからです。

確か、夏目漱石の「草枕」か「虞美人草」かだと思いますが、東大の金時計男とグーたら男が出てくるのですが、「いざという時」に金時計男は全く役に立たず、グーたら男が役に立つという話がありました。

また、モンゴメリ将軍が、人間には4通りのタイプがあるといい、

1.Clever(利巧)/Industrious(勤勉)
2.Clever/Lazy(怠惰)
3.Stupid(愚か)/Industrious
4.Stupid/Lazy

そして、彼は将校としては、Clever/Lazyの方が、Stupid/Industriousな男よりましだといった話があります。

(この辺り論理の飛躍がありますかね)

やはり、人の話をよく聞いた上で決断するというのがリーダたる資格だと思っています。
「作られた歴史」を信じるのは、もともとリーダの資格がないのだと思います。基本的には、勉強しないマスコミの存在を許すような社会を早く変えなければならないと思います。多分、「明治政府による情報秘匿」は明治維新以前からのカルチャーだったのでは?
グリーンウッドさんの期待した回答になっていますか?

パイントリー

 


      
Re:項羽と劉邦   

グリーンウッドさん、パイントリーです、

「西と東を定義するのはそう簡単ではないことになりますね。」に関し最近、次のような記事を見つけました。EC委員会経済構造開発局長などを歴任したフランスのミシェル・アルベールがいったそうです。

「株主が所有し、自由に処理する単なる商品が企業なのか(ネオアリメカ型資本主義)、それとも、株主の権力と経営者の権力とのバランスがとれ、その経営者を銀行と従業員が選考するという、複雑な共同体が企業なのだろうか(日本・ライン型資本主義)、どちらがよいのだろうか」

パイントリー

 



運命共同体またはムラ社会の意識

パイントリーさん、

夏目漱石の、”東大の金時計男”は項羽に、”グーたら男”に劉邦ににてますね。漱石は漢籍に強かったですからこの二人をモデルにして小説を書いたのではないでしょうか。

モンゴメリ将軍の4通りのタイプは昔パイントリーさんに聞いた覚えがありますが、詳細は忘れていたのでおもいださせてもらってありがとうございます。これいろいろ応用できそうですね。モンゴメリ将軍が将校(リーダー)としては、Clever/Lazyの方が、Stupid/Industriousな男よりましだというのはまったく同感です。劉邦はClever/Lazyのタイプですね。項羽とか日本の東大出のエリート官僚はClever(利巧)/Industrious(勤勉)のタイプでしょうか。

「人の話をよく聞いた上で決断するというのがリーダたる資格」はそのとおりですね。東郷元帥などはこれを実践したようです。でもその前に部下が本当のことを言ってくれるように仕向けないとだれもお追従だけいうようになりますのでハダカの王様になり、判断を間違いますよね。「逆命利君」をさせるのは君にその人徳があるからで、通常は諛(へつらい)を呼び、結果病むことになりますよね。身近に経験しましたので身につまされます。 人徳がなく「はだかの王様」になっている人は大勢見受けられます。

「作られた歴史を信じるのは、もともとリーダの資格がない」とのお言葉キツイですね。Stupid(愚か)/IndustriousかStupid/Lazyということですか。

「“明治政府による情報秘匿”は明治維新以前からのカルチャーだったのでは?」とのご指摘。多分そうなのでしょう。奉職した会社でも経験しましたが、技術改良の表彰するので各部長に推薦を出させると、技術改良をした中心人物以外にぞろぞろと間接的協力者の名前も20人くらい並べてきます。こんなリストおかしいではないかというと悲しそうな顔してなんとかこれで納めてくださいと懇願されます。最大の功労者もそのほうがよいと納得しているというのです。日露戦争でバカなことをした将校も貴族にしたいという明治政府のメンタリティーと同じですね。運命共同体またはムラ社会の意識があるため、こうしないと組織(社会)がもたないと思い込んでいるのでしょう。最大の功労者も目立って妬まれたくないという気持ち、すなわち自己規制ミームが発現しているわけです。そうして国の場合は正史の改ざんが行なわれるのでしょうね。競合する他の社会(国)がなければ全てめでたしめでたしですが、隣の社会(国)が真の発明者を誉めそやす社会(国)であれば、ムラ社会(国)は遅れをとるでしょう。西欧が技術発展で一歩先んじた理由ではないでしょうか。日本国家あるいは企業の表彰制度はその本来あるべき目的を達成することはないでしょうね。ゼロック社を駆逐したキャノンのレーザーコピー機の真の発明者が退職後、キャノンを訴えていますが、裁判の結果はどうなるのでしょうか。結果をみれば日本の将来が見えてくるでしょう。

「フランスのミシェル・アルベールが“株主が所有し、自由に処理する単なる商品が企業なのか(ネオアリメカ型資本主義)、それとも、株主の権力と経営者の権力とのバランスがとれ、その経営者を銀行と従業員が選考するという、複雑な共同体が企業なのだろうか(日本・ライン型資本主義)、どちらがよいのだろうか”」という問いにたいする私の考えは次ぎのようなものです。

たしかに「株主が所有し、自由に処理する単なる商品が企業」という米国的な資本主義はマハティールが批判したように行きすぎでしょう。そもそも企業を商品のように取り扱うような軽薄な株主は結局市場から消えてゆきました。株主として最も成功しているオマハの賢者ことウォーレン・バフェット氏はそのような軽率な行動をせず、生き残って米国でもっともリッチで尊敬される株主となってます。手持ちのフォーブス誌2003年10月6日号をみますと ゲーツ氏の46billion$に対し、36billion$で第二位の金持ちです。彼をほめる言葉としてこれもウォルフレンに教えてもらったアカウンタビィティー(負託に応えること)、とスチュワードシップ(執事能力)ということばが捧げられております。「経営者を銀行と従業員が選考する」ということはもし成功すればすばらしいですが、日本では実現不可能なような気がします。市民革命を経ているフランスなら成功するかもしれませんが、ムラ社会の住人たる従業員には正しい選択ができそうもありません。無記名投票でも無理でしょう。一国の政治家も正しい選択が出来ないのですから。そこで必要悪として経営者の権限と責任を明確にして一定期間彼の判断と運営にまかせ、成功したなら続投、失敗すれば首にするというシステムしかないとおもうのです。「頂上にいくと物事は非常に単純である。・・・第一の地位にある者に集中されるもろもろの忠誠はぼう大なものである。もし彼が躓いたら、支えられねばならない。もし間違いをしたら尻ぬぐいされねばならない。もし眠ったら、みだりに睡眠を妨げてはならない。もしかれがどうにもならない代物だったら、かれの首はまさかりで叩き落とされねばならない」とサー・ウィンストン・チャーチルが言っています。

これが出来るのは株主しかいないのではないでしょうか。我々の奉職した会社にガタが来た時、筆頭株主がのりこんで来て成功したモデルはやはり欧米型の株主主権を行使することでした。そして言いました。創業家にまかせておけばよいと思ったのだがと。むろん株主も銀行も次期経営候補者にかんする情報は持ってませんので従業員の評価をあらゆる手段を使って徹底的にヒアリングして決めたではありませんか。

グリーンウッド

 

 

なぜアングロサクソン型企業統治システムが生き延びたか

パイントリーさん、

ミシェル・アルベールが提唱するフランス・ドイツ型の「経営者を銀行と従業員が選考する」方式がムラ社会の住人たる日本の従業員には正しい選択ができないいうことを我々がこの10年間で経験したなまなましい実例で申し上げました。ダメ押しではありませんが、私が若い頃経験した中間管理職レベルでの実例をご紹介しましょう。職員組会の執行委員として経験した、個人的には恐ろしい経験でした。 パイントリーさんはそのころどこかの現場におられたのではないかとおもいますので当然ご存知ではないはずです。というか、執行委員長、部長、議事録作成者を除き知る人はいないのではないかとおもいます。その当時、会社側も創業経営者の下、労働組合を経営に取り込み良い提言をしてもらおうとしており、定期的に組合役員と協議しておりました。何か言えというので何を提言したかもう覚えていませんが、身近に経験したことをベースに提言をいたしました。今にして思えば全ての情報を知らないで提言したのでたいしたことは言っていないとおもいます。さて協議会が終わって数時間後、部長が真っ赤な顔をして私をよびつけ、「お前はなにを言ったのだ、おれがやめるかおまえがやめるか白黒つけようではないか」といわれました。会社の管理職に配布された協議会の議事録を読んだらとんでもないことが書いてあるというのです。こちらは議事録になにを書かれたか知りませんので執行委員長と会社の窓口に連絡しました。どうも議事録には部長はモンゴメリ将軍の定義のStupid/Industrious型の人間であると書かれていたようです。わたしにとって部長ははるか上の人で直接会うこともなく、その人の能力など知る由もないのです。知っているのは直属の上司の課長だけです。この直属の上司は東大卒のClever/Lazy(怠惰)タイプの方でいまでも私は大変尊敬しておりますが、私は課長のCleverさには感服しつつも、若かったですから課長の消極的な姿勢には不満をもってました。いまにして思えばこの人には先が見えていて、徒労に終わると見えたものには消極的態度をとったのです。自分が人生の後半でとったと同じ態度でした。議事録を書いた人は私のこうしたもやもやした発言(発言している私自身Stupid/Industriousだったと思ってますが)を簡単にまとめて設計部はStupid/Industriousな部長の犠牲になっているというような意味合いのことを書いたようです。あれはおれの意見だったのだよと議事録をまとめた人があとで告白しておりました。まあ人事部に体よく利用されたのでしょうね。議事録からその部分が削除されて一件落着したように見えました。しかし部長殿はその後しばらくして競争会社に転出されました。ご自身悟るところがあったのか、創業者社長がシテヤッタリと組合を利用して部長の首を切ったのか、そのいずれでもない理由かは私には全くわかりません。ただその後、仕事で創業者社長の直接の指導を受けるようになるのですが、今にして思えば、厳しい人と社内では恐れられていたのに、「なぜか私にはいつも気味悪い位やさしかったなあ」とおもいだします。もしかしたらひらの従業員が中間管理職を飛ばしたかもしれないのです。あまり愉快な経験ではありませんでした。というようなわけで私のようなバカがでてこないかぎり「日本では従業員の経営参加は幻だ」と思ってます。

さてムラ社会であろうが、市民革命を経た社会であろうが、企業であろうと、国家であろうと、組織で何事かを行なうとき、人々は協調しなければ事はなりません。前にもご紹介したようにゲーム理論の協調問題では人々の協調は、「人々がある事実を知る」だけでは、不十分であり、「”人々がその事実を知っている”ということを皆が知っている」状態をつくりださなければなりません。これだけIT技術が発達してeメールやこのラウンドテーブルがあっても人々がある事実を知るだけであり、「”人々がその事実を知っている”ということを皆が知っている」状態はつくりだせません。そのためにはRational Ritual、すなわち政治運動、労働運動では集会、デモなどが、会社では全社員を講堂に集めての集会などが有効となります。ムラ社会であろうが市民革命を経た社会であろうと差はありません。人種に関係なく、人々はアイコンタクト、ボディーランゲージも総動員して”人々がその事実を知っている”ということを皆が知っていることを確認しようとします。そして皆が他者も知っていると確信を得たときに協調は達成され、大きな力、即ち権力が発生するのです。労働組合が会社から最大限の譲歩を得るためにストライキの脅しが必要で、私は若い時、組合の幹部にされ、組合員をその気にさせるべく、職場を廻って集会を開き、扇動しました。こういうことはキライで苦手ですが、これしか方法はないのです。はじめは皆、そっぽを向いて、集会ではお互い相手をじろじろみているだけです、皆ストライキには消極的な顔をしています。しかし集会を重ねる毎に積極的になり、よしやろうという気運がみなぎってきます。この迫力を察知した会社側は譲歩します。組合を預かる役員をしては会社から最後の一滴を絞りだしたことだし、そろそろ矛をおさめる潮時だろうと徹夜で討議して決め、今度は組合員に水をかける役をしなければなりません。もう燃え上がってモットヤレ!という組合員から袋叩きにあうような思いでことを収拾するという経験もいたしました。マッチ・ポンプではないかとやじられました。その通りだとおもいながら罵声に耐えるのです。このようなことを何度もすると、先をよまれますので労働運動も下火になったのだろうとおもいます。現在の椿さんのところで活躍されているH君などアジテーターとしては激しすすぎて、組合員の心はつかめなかったと思います。かれも実践で人心の掌握法を学んで有能なセールスマンになったのではないでしょうか。このころでしょうか労働運動も終わりだと感じました。

前書きが長くなりましたが、言わんとすることは時の経営者は全社員を講堂に集めて集会して従業員を縛り、意見の合わない役員は切れますから、その影響下にある従業員は時の経営者の意向に反する新しい経営者を選ぶことなどほとんど不可能となります。特に日本のようなムラ社会では既得権たる権力の維持という真の目的を隠して、「生産性を高めるために」とかの隠れ蓑の下にこのような集会を頻繁に開催することができます。米国も、学んだ社員を協調させて高品質の商品の生産をさせるいわゆる小集団活動です。手法は同じでも隠れた目的があれば、四人組に似たようなグループがでてきて、若い連中を洗脳し、毛沢東時代の紅衛兵のようにな人間を続々と発生させることもできます。まともな社員は沈黙こそが生き延びるための知恵とさとり、新聞にも報道されない裏話にもふれました自己規制ミームのビークルになるわけです。というわけで、株主・銀行などが企業の最終的統治権を振るわざるを得ない事態が来るかもしれないということです。以上アングロサクソン型企業統治システムが忌み嫌われながら、必要悪として存在し続けるのではないかと思う所以です。ミシェル・アルベールはフランスの典型的なエリートですので、日本の東大出身のエリート官僚と同じくヤワな思想しかもてなかったのではないかと感じるものです。

上司の課長はよく「えらくなりたかったら俺の下にいてはダメだよ、早くでていって雄飛したほうがよい」とおしゃっていました。その通り設計部からプロジェクト遂行部隊に移り、大きく伸びた人は沢山おりますが、私は設計能力に自信があったし、好きで、これで社会に貢献できれば幸いと思っておりましたのでずっとこの課長の下におりました。設計者として最も幸福な時は設計課長となって25名位の部下を率先指導・指揮したときだと思います。GEの元会長、ジャック・ウェルチ氏の名言、「管理するな、リードせよ」を実践できた時代です。部長になれば間接指揮となり、ものごとは抽象的になり、つまらなくなります。歳をとれば、設計部門には邪魔になりますのでプロジェクトにでて大勢の人間を動かす役目を果たさなくてはなりません。その醍醐味もじっくりと味あわせてもらいました。しかし1,000人というオーダーの人間を動かすのは性に合わないというか、いつも自分の大切な時間とエネルギーを浪費しているように感じたものです。そういうわけで政治家や経営者の適性はないと自分では思うのですが、多分、会社業績への貢献という論功行賞の結果、経営者の末席に連なりました。末席というのはその立場に立てばすぐわかるのですが、まことに弱い立場です。そして時代が暗転して、コスト無視の受注競争に狂奔する紅衛兵時代を生き抜くため、大変苦しい思いをいたしました。 米本昌平氏が「独学の時代」で紹介しているL・ローウェンタール、N・グターマンの「扇動の技術」に書かれているような一種のマスヒステリーのなかで業界を被っていた支配的時代精神とでもいうべきものの流行に抗することの難しさを痛感いたしました。それもいまは懐かしい思い出となりました。「恩讐の彼方に」という菊地  寛の小説がありますが、かって感じた苦渋も今では色々勉強して冷静に分析できるようになりました。勉強に駆り立てる衝動はこの苦しみを理性的に分析して救いを得たいからでしょうか。ところで、紅衛兵は1966年に始まった文化大革命の申し子ですので、その存在は当時、日本には知られおりませんでした。協議会議事録事件は同時進行していたので、もし伝わっていれば、私は紅衛兵に見えたのかもしれないなともフト思います。紅衛兵ってStupid/Industriousじゃないですか。

グリーンウッド

November 8, 2003

Rev. October 30, 2007


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