東慶寺座禅会6



ノースウエスト・アース・フォーラムは解散したが、幹事の西沢氏の尽力で学習院大OBの桜友会メンバーを中心とする句会と座禅会は継続することになった。長野北校の残党も継続 して参加した。



元読売新聞社編集員で芭蕉本を書いている中名生(なかのみょう)正昭氏(東北大学法学部卒)の「芭蕉の謎と蕪村の不思議」と「奥の細道の謎を読む」という2冊の著書の紹介という小レクチャーを聞く幸運を得た。

「古今集」の序で紀貫之は柿本人麻呂と山部赤人を和歌の聖とたたえたが、俳諧の聖人としては松尾芭蕉と輿謝蕪村が挙げられる。

俳句とは俳諧連歌の発句のことである。俳諧とはユーモアのこと。連歌とは複数の人間が上の句と下の句を繋げて楽しむ遊びである。発句が俳句をいみするようになったのは明治期。

芭蕉は伊賀上野の生まれで、健脚で1日50kmを歩いていて、とても常人ではないから忍者ではなかったかとされる。しかし芭蕉は忍者ではなかった。「奥の細道」に同行した弟子 の曾良の「随行日記」を比較しながら読むと分かる。「奥の細道」の方が「随行日記」より省略が多いが、省略したのは例えば親不知を船で迂回したことは恥ず かしいの書きたくなかったからだとわかる。決して隠密などしたからではない。

ちなみに第一次大戦でドイツの歩兵は銃を担いでベルギーを通過して一日40km歩いてパリに向かった。私は坂東巡礼で一日20km歩いたら足が動かなくなった経験があるのでこれは大変なことだと思う。

蕪村は俳人であるまえにすぐれた画家であった。 蕪村の「十便十宜図」(じゅうべんじゅうぎず)や「夜色楼台雪萬家図」は是非みるようにと薦められる。



wiki

芭蕉と
蕪村の五句のうち初めての句と絶吟をあげる

芭蕉
春やこし年や行けん小晦日(こごつもり)   18歳
旅に病で夢は枯野をかけ廻る       絶吟

蕪村
尼寺や  十夜にとどくさねかずら     21歳
しら梅に明る夜ばかりとなりにけれ     絶吟

十夜とは十月に十日十夜の間、念仏の修行をすることによって極楽浄土に往生することを願う修行。

さねかずらは昔、つるから粘液をとって整髪料に使ったため。尼さんといえでも完全に髪を切っていたわけではなく短くしていただけだから整髪料は必要だった。

木下さんの講評をいただきながら句会を行った。24句あつまった。

1.  寒空に 妖しく揺らぐ カノープス
2.  よろよろと 歩く姿の 痛ましや 梅の古木に 我が身をぞ見る
3.  野ぶどうの 虹の宝石 寺に満つ
4.  安倍先生に おわびします GAC
5.  梅香る 春の時雨に 墓参り
6.  梅が香に 先哲の墓所 ひそやかに
7.  白梅や 鎌倉の寺の 無字の経
8.  咲きそめし 蝋梅の香に 小雪舞う
9.  瀧桜 三春の春に とどめさす
10.  裸木に 老いの身軽さ 重ねをり
11.  風ヒョウと 声かけてゆく 冬木立
12.  亡き人(とも)の 想いに還る 梅花(はな)の寺
13.  陽溜りの 猫動転の 屋根雪崩
14.  如月の 氷雨にうたれ 墓参り
15.  又一つ 雲を放つや 春の山
16.  完走を 孫に誓いて シューズ履く
17.  友逝きて 思いで遥か 朧月
18.  すいせんの きんの盃 香りたち
19.  春眠の 菩薩も覚めて 一句かな
20.  千の春風(かぜ)中東の空に 君ぞある
21.  かがり火に 浮かぶ幽玄 春の宵
22.  喜寿前に 千曲のもとに 辿りつく
23.  電線に 群れて身を寄す 寒雀
24.  カイロ発 ニュース伝えし 友が逝く

中名生正昭氏の

7. 白梅や 鎌倉の寺の 無字の経

には票が集まらなかったが、「無字の経」の解説が印象深かった。鎌倉五山はすべて臨済宗である。京都にも臨済宗の五山があるが鎌倉が先である。臨済宗には経がない。明治以降、般若心経を読むことにしたという歴史がある。無学の私としてはこれを「無学の」と読んで???

井上陽司和尚の指導で座禅20分

参加者
湘南桜友会:小菅、中名生、右川、井ヶ田、石島、杉浦
昭和寮会:大正末期まで近衛邸のあった地に、学習院に通う生徒の寄宿舎として宮内省が建設したもので昭和寮と呼ばれた。現在は「日立目白クラブ」となっている。:木下、高村、小島、浦田、西沢
(北):田中、 和田、西沢、加畑、青木

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February 18, 2015
Rev. March 2, 2015

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