秩父へのドライブ

2008年7月11日のキャノン電子株式会社秩父事業所見学会に参加した。品川駅に集合して国際モーターのバスで向かった。

花園インターから秩父に向かったのだが、東松山市通過の折、ウグイス譲が太田道灌と松山城に話をしてくれた。

「太田道灌は江戸城と松山城を作りました。道灌が越生(おごせ)で鷹狩りをしたとき、 にわか雨にあい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が『「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか』と声をかけると、でてきた少女が黙ってさし 出したのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は『花が欲しいのではない』と怒り、雨の中を帰りました。

その夜、道灌がこのことを部下に語ると『後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王の

七重八重  花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき

という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか』と言うではありませんか。

驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。町村合併で今の東松山市ができたとき、四国にも松山市があるので東をつけたということです」

坂東巡礼をしたとき、越生(おごせ)で一泊し、東松山市などを歩いた記憶がよぎる。だいたいこのあたりは頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の夫の領地、武蔵国比企郡だ。 鎌倉時代から、「比企城館跡群」の一つとして武州松山城があったわけで太田道灌は何代目かの城主にすぎない。戦国時代には小田原北条氏と上杉の攻防のフロントになったところだ。松山城跡はいまでも吉見百穴(ひゃくあな)に隣接して市野川を見下ろしている。

花園インターから秩父に向う道は1999年にバイク仲間と秩父市経由、雁坂トンネルを通過して甲州は石和(いさわ)温泉郷に抜けた道だ。しかし今回は長瀞は皆野寄居バイパストンネルでパスした。

ウグイス譲が日本最初の貨幣「和同開珎」のための銅の採掘跡が秩父にあったことを教えてくれる。また義経が越えたという伝説のある顔振峠についての説明がある。ここら辺は峰を渡るスカイラインが建設されていて山岳ドライブを楽しめるところと聞いている。秋か春がいいだろう。

秩父は2006の秩父巡礼の思い出の残る場所だ。 廃墟のようになっていた三菱マテリアルのセメント工場は解体作業が始まったようだ。キャノン電子株式会社は圓融寺から荒川に下る河岸段丘にあった。 武甲山が迫力をもってそびえている。

キャノン電子株式会社をお暇してから羊山に登り、横瀬町の山持ちの富田氏が個人的に収集した棟方志功を公開している「やまとーあーとみゅーじあむ」に立ち寄った。富田館長みずからの説明をうける。

帰路、九段会館から品川まで東京の目抜き通りをドライブしたが、景気がわるいといいながらビルが沢山たちならびかなり様変わりしていることに驚く。

品川解散後、ECOH会メンバーは駅前の「酒蔵 いの字」で一杯ひっかけて帰る。

July 14, 2008

Rev. February 19, 2009

 


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