音楽雑記帳
過去の音楽雑記帳 1-10 語られる音楽 13/02/02 音楽と言葉はどうも元来仲が悪いもののようです。ここで云う言葉とは、歌詞として音楽に乗っかる言葉のことではなくて、音楽「について」語ろうとする言葉のことです。 音楽を聴いた後で、人はなかなか黙っていられないもののようです。何かこう、今聴いた音楽について、あるいは今音楽を聴いて感じたことについて、云い表したくなる。誰か他人に向かって実際に云うかどうかとは別に、自分の心の中でそれを表現したいというのも、根幹においては同じことでしょう。とにかく形に、「言葉」にしたい。 それ自体は当たり前というか、人間という「表現する動物」である以上、称揚されるべき心の動きで、当然問題となるのは、そこで何を云うか、なわけです。 云うまでもなく、ある音楽を聴いて、人が何を感じるか、あるいは何も感じないかは、自由です。以前ここで書いたことの繰り返しになりますが、ある人がある音楽を聴いて、自分と違うことを感じたからといって、その人を責めるいかなる正当な理由もありはしません。 そして一方、これも以前書いたことの繰り返しですが、その音楽をどう「理解」するかについては、ある程度は、妥当性を問うことができると思います。その作業はあいにく、生半可なことでは行かなくて、ある程度以上にいわゆる「音楽言語」に通じていることが必要となってくるだろうと思います。 「批評」と呼ばれる文章においては、やはりこの音楽への「理解」が問題とならざるを得ないわけで、そこでは更に「音楽言語」のレヴェルに留まらず、音楽内部の論理(これは別に音組織などの外面的なシステムのことではなく、音楽現象としての作品なり演奏なりの有機的な側面の孕んでいる文脈全体のことで、そこにも必然的な「論理」は、比喩的にでなく確固として存在しているはずです)にも精通していることが期待されてしかるべきだと、ぼくは思っています。 ぼくは普段「音楽批評」と呼ばれるものをあまり読む方ではないのですが、あまりに無関心なのもどんなものかと思われるので、ある有名出版社の現代音楽レヴュー誌が廃刊されて暫く経ってから、別の会社で新しく発足した雑誌の、かなり前のバックナンバーをつい最近読んでみました。折があったらこちらにいる間に目を通そうと、去年日本を出るときに携えてきたのでした。ぼくは本を読むのがどうも遅くて、つい熟読してしまうので、あるまとまった分量の本を開くのにはけっこう気合いが要ります。 正直なところを云うと、残念ながら落胆を禁じ得ない記事が多かったことを告白せねばなりません。落胆というのはだいぶ穏やかな云い方で、記事によっては読んでいてあまりのひどさに腹さえ立ってきたと云ってもいいくらいでした。「いま日本で音楽批評って云ったら、こういうもののことなんだ…」という感じで。 もちろんそう云いっ放しなのはアンフェアなんで、非常に面白い記事も中にはありました。でもそれは多くの場合、音楽家によって書かれた文章です。批評や論文プロパーとして書かれていて、読んだ甲斐があったと思わせてくれたものは、2つか3つといったところです。 最もぼくの驚愕を誘ったのは演奏会レヴューと銘打たれたコーナーで、なるほどそこに並んでいる文章は、表面的にはそう呼ばれる機能を担っていると云ってよい性質のものなのですが、その8割方は、ぼくの目には批評というよりも、子供じみた非難か無責任な放言(批判するにせよ持ち上げるにせよ)の連なりにしか見えませんでした。 もちろんそこで聴かれた音楽が評価に価するかどうかという問題はあるのですが、仮にそこで聴いた「その」人にとってその音楽が批判されるべき対象であった場合ですら、その批判においては当然「その」人の視点というフィルタの措定が必要なわけで、それがほとんど見受けられない、独善的な記述があまりに多いのです。あれじゃ、まるで2ちゃんねるです。いやマジで。 その演奏会に居合わせていない人間にとっては、そこに書かれている内容が情報の全てですから、それがあまりに直観的あるいは感情的であった場合、興醒めになるよりほかないです。つまり、そうなってくると批評云々という以前に、読み物として面白くないです、「少なくとも、ぼくにとっては」。だから読んでいると、「あなたがその作曲家を嫌いなのは十分解った。でもそれは私には関係ないことだ」とか云いたくなってくるんですね。あるいは、すごく悲しくなってきます。読まなきゃいいんですけど(笑) ぼくは漠然と、批評には、音楽に対して何か建設的な、益するところのあるものを期待しています。何がその人にとって面白かったか、あるいはあいにく期待に沿わなかったか、というのを冷徹に語った文章なら、ぼくはそこから音楽への視点を開かれることもあるだろうと思います。ひたすら好戦的な姿勢を偏執狂的に選ぶ書き方は、多分音楽に何も益しないどころか、読むこと自体でまず気が荒んでくるので、やめてもらいたいなぁと心から思います。その手の記述には、音楽への「愛」が(そして多くの場合、音楽への「知」も)決定的に欠けています。 ぼく自身の作品が彼らの俎上に乗ったことは、幸か不幸か(あまり不幸とは思いませんが)まだありませんで、もしそういう姿勢で責められたら動じないでいられますかねぇ。なるべく動じずにいたいですが(というか動じてはいけないと思いますが)、ちょっと自信ないかも… でも、建設的な批判であれば是非受けたいとは思いますね。印象による放言でなく、批判者としての責任を引き受けた発言であれば、ぼくは多分真摯に聞けるだろうと思います。 それにしても、まずはあの、山のような誤字をなくすことが急務かもしれません>件の雑誌 パリ-プレザンス2002 06/02/02 ラジオ・フランスがこの時期に現代音楽のコンサートを無料で(それも半月も)やるというので、4日間滞在して聴いてきました。日本では、千年待ってもそんなことやらないでしょうね。。。 ぼくにとって圧巻だったのはアンテルコンタンポランの日に聴いたミュライユの新作、19楽器のための「Le Lac(湖)」でした。じっくりと着実に立ち上がっていく導入部の時間の使い方も見事だし、まるで煌めく閃光のように美しく絡まりあう高音のパッセージにも圧倒されました。巨匠の技の名に価する作品だと思います。こういう曲に一つでも巡り会えれば遠路を旅する甲斐もあるというものです。 オープニングのコンサートでは、ちょっとしたハプニングがありました。 タン・ドゥンの1作目、オーケストラル・シアターは、観客の参加も動員した、けっこう実験的なものでした。開始前に彼が英語で説明したところによると、観客は始まって少し経ったところで「レ」の音をハミングして、なおかつ後半のクライマックス手前で彼の指示を受けたら、「Hong-mi-la-ga-yi-go」という呪文のようなもの(特に意味はないと彼は説明していました)を唱えないといけない。曲はひたすら「レ」の音に執着して構成されていて、祭儀的な雰囲気が醸し出される性質のものでした。これは割とウケが良かったと思います。ぼくはちょっと子供だまし的な印象を受けましたけど。 次の「虎と龍」は、チェロの他に、中国の竹製の笛とパーカッションのソロがいて、それに弦楽オケという編成でした。 そう思って聴いていたら、楽章が3つ終わったあたりで口笛のブーイングが入りました。……黙りません。指揮のタン・ドゥン、困ってます。気を取り直して次に進もうとすると、どこからか野次が入りました。 すると。彼は、客の方を、振り向きました。彼は、にこっと、笑いました。そして、云いました。 "Don't be too serious. It's music."野次は黙りました。そして、指揮者は次の楽章を始めました。 それでぼくは、彼がこの曲を「本気で」作ったのだということを理解しました。この種の曲はぼくはあまり好きではないかもしれないけど、少なくとも彼の人間の大きさには打たれました。これは無料のコンサートですし、そう、聴いている曲が嫌だったら、客は出ていったってよいのです。 それでも、後半で笛の奏者(Tang Jun-qiao)がステージの前に進み出て、メロディとかはそのままで、ピッツィカートやタングラム、歌い吹き、などの新奏法オンパレードのカデンツァをやりだすに至っては、段々いたたまれなくなってきましたが(笑) ヴィデオもすごく素朴な、中国風のBGVでした。。。 でもまぁ色々聴けて収穫は十分でした。コンサート以外では、パリでいつもお世話になる鈴木純明さんと、この数日間本当に色々なことについて話せたのが、とりわけ楽しかったです。感謝! WDR-今日の音楽「VIOLA」 25/01/02 日本に一度戻ってからは、あまりケルンで食指を動かされる催しがなかったので、しばらくコンサートに足を運ばなかったのですが、年が明けてからまたちょこちょこと聴いてます。 WDR(西ドイツ放送協会)が3ヶ月に一回(かな?)、「今日の音楽 Musik der Zeit」というコンサートシリーズの企画をやっています。この前の10月のはグリゼ特集で、3日間に4つのコンサートが催されました。 これらのコンサートはみんなそのまま収録してラジオで流すので、解説者が曲の前に必ず舞台でしばらく喋ります。最初に少し長めの話があり、悲しいかな何割も解りゃしないのですが、まぁこのシチュエーションで話されることはおよそ想像がつく。「ヴィオラは元来アンサンブルの中で内声を充填する役割を担わされ云々。しかし近年になってからはこの楽器の特性が、つまりヴァイオリンにはない音色の深さとチェロに勝る運動性が見直され云々」みたいな(笑) 最初のコンサートはフェルドマンの「The Viola in My Life」シリーズ全4曲。シリーズ全体の一挙上演は世界初だそうです。だから?って気もするけど(笑) 初めの2曲はアンサンブル・ルシェルシュの協演。緊張度のキープされた良い演奏でした。ソロ2人も秀逸。ちなみに Maurer はルシェルシュのメンバーです。フェルドマンの曲においては、「今鳴っているその音」を聴くことに否応なく耳が追い込まれていくのが醍醐味ですが、それを存分に味わわせてもらいました。Zimmermann の演奏も、身振りを極力抑えた、作品に忠実な美しい演奏だと思いました。 あとのコンサートは、ヴィオラのソロ・デュオ・トリオを集めたものと、オケとのもの、それとアンサンブルのもので、今回の企画のための新作も何曲か入っていました(随分贅沢な企画ですね… これで入場料は一番高いものでも10ユーロなんですよ。すごすぎる…)。ぼくが聴き逃したのはヴィオラ・ダモーレを取り上げたコンサートで、これは本当に残念でした… 聴けた中で出色の作品を挙げると、ジョージ・ベンジャミンのデュオ曲「Viola, Viola」、クルターグの弦楽トリオのための「Signs, Games and Messages」抜粋がすばらしかったです。ベンジャミンでは、たった2つのヴィオラでどうやってこんな重層的な響きを作り出せるんだろうと不思議になりました。目の前で実際に見てるのに、とても2人でやってると思えないんです。手品みたいだった(笑) クルターグは例によってミニアチュアの移り変わりにハッとさせられる瞬間がたくさんありました。どんな風にアンサンブルを扱っているのか、楽譜を見てみたいです。 とにかく、2日連続で、夜の11時半までコンサートが「破格で」聴けることだけでも幸せですよね… オーケストラのコンサートに行く 24/11/01 今日(23日)はケルン・フィルハーモニーホールに行って小澤の振るヴィーン・フィルでブラームスのピアノ協奏曲1番と交響曲2番を聴いてきました。最近とにかく聴きまくってますね。 「やっぱり本場の音を聴かないとね」とはよく云われますが、「これが本場の音かぁ!」ていう驚き方はあんまりしてないんです、これが。もしかして馬の耳の持ち主なのかな、私は。 日本にいる時は海外のA級オケにもあんまり興味なかったし。というのも、チケットはバカにしてるみたいに高いし、しかもどうせ初日売り切れだろうし(いわゆるゴールドチケットを取ることにもあまり興味のない人なんです)。でこれはぼく個人の偏見ですが、海外の演奏家って、日本は演奏自体に関する審美眼はとても甘くて、でもとにかくお金を沢山くれる国という認識をしてるような気がして(実際そうですけどね)、あんまりいい仕事に出会える環境ではないようにも思っちゃうんです。勿論聴かないより聴いた方が数倍マシってことはあるんですが。 でもまぁとにかく、こちらではかなり安い値段で聴けます。今日のヴィーン・フィルも一番高い席でも300マルク(約17,000円)を切ってます。これでもこちらで生活しているとベラボウな値段に見えますが。当日売り出しの立見券なんて35マルク(約2,000円)ですよ。ヴィーン・フィルが2千円(@@) しかも立見券の人も、開演間際まで空いてる席があったら、勝手に座っていいみたいだし。 で今日のぼくは立見券には間に合いませんでして、着いた時には当日分売り切れ。どうしよう。ダフ屋(とゆっても正規の値段よりなぜかだいぶ安く分けてくれる)もウロチョロしてるみたい。ちょっと冷やかしてみるかと1人のダフ屋の手元の券を見ると、うわ。前から4列目。カブリツキやんか。本来297マルクのところを、いくらで買ったかは秘密ですが(笑)、とにかくヴィーン・フィルのカブリツキを一度やってみましょうと買ってしまいました。 ピアノ協奏曲のソリストは予定ではP.ゼルキンだったのですが、なぜかシュテファン・ヴラダー Stefan Vladarって人に変わってました。それはまぁいいんですけど。こういう若手で打って出てる人が案外素晴らしいものを聴かせてくれることってあるでしょうし。 今日の話はそれくらいで、他には今までどんなオケに行ったかというのを少し。 こちらのオケでぼくが本物だと思うのは、音色というよりは、間合いですね。音色ももちろんすごいんでしょうけど、それ以上にぼくに訴えてくるのは、間合いの取り方のカッコよさです。あれだけはちょっとやそっとじゃ真似できないと思っちゃいます。 実演はCDより高いわけなんだけど、やっぱり替えがたいものがありますねぇ。引き続き日本に帰るまでに、なるだけ聴いておこうと思う次第です。 オペラに行く 23/11/01 今日ケルンに来て初めて、ケルンのオペラ劇場に行ってみました。演目はヘンデルの「セメレー」。この間ここでのプルミエがあったばかりのようです。 自分でも謎なんですが、オペラに対してとてもとても腰が重いんです、ぼくは。何ででしょうねぇ。作曲をやろうって人間がヴァーグナーに疎いなんて云ってられないってことは判ってるんですけど、だめなんですよ、なぜか。 何となく思うのは、ぼくはいらないところで妙に凝り性というか完璧主義なんです。例えば毎日読めるとは思えないから新聞の連載小説は読まないし、毎回見られるとも限らないから連続ドラマも見ない。マンガ雑誌も買わない。もし見るのなら後からビデオ借りるなり単行本を読むなりすればいい、と思っちゃう。実際単行本のマンガならかなり買うんです。 でもいつまでもこのままじゃ、いかにもまずいよなぁと思いながらここまで来てまして、この間ヴィーンでオペラを2作実際に観たのはとてもいいことだったなぁと思いました。 ヴィーンでの話をまずしましょうか。 フォルクスオーパーは本来オペレッタを演ることが多い劇場で、プッチーニみたいな演目ではやはりシュターツオーパーに行く前の段階の歌手の出る劇場ということになるようです。確かにそう云われて観ると、もちろん安心して観てられるんですが、手放しで唸らされる演奏とは云えなかったかなぁ。 その点シュターツはやっぱり流石でした。「安心して」なんてレヴェルじゃありません。いいもの聴かせていただきました、て感じ。声と、歌手の存在感が、もう圧倒的なんですよね。完成された伝統芸能というか。 で今日のケルンです。 ぼくは演奏家にも全く疎いので(いいんだろうか、いやよくない(笑))、どれくらい有名な人が出ているのか全然判りませんが、まぁかなり頑張ってる方だと思いました。 あんまりこういう時評みたいなのは好きじゃないんですけど、備忘録として後の自分のためにもちょっと書いておくことにしました。せっかく安いんだし(ちなみに今日は第3パーケット(平土間席の少し後ろ寄り)で60マルク、約3,500円でした)、これからオペラも観よっと。 |
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