essays on music archives
過去の音楽雑記帳 1-10


コンサートを開くということ
26/12/00

短期集中連載 音楽の「相手」
1. 「理解される」音楽
11/11/01
2. 「感動させる」音楽
12/11/01
3. 作り手の領分
15/11/01
4. 音楽の「相手」
16/11/01
5. 説明される音楽
21/11/01

反=進歩史観?
28/12/00

「採用」主義とわたくし
03/02/01


22/05/01

ワルシャワの秋2001
08/10/01

 

コンサートを開くということ 26/12/00

この15日に、所属している「MINUS SIX」という作曲家グループの作品展演奏会を行いました。今まで2回行っており、2年半ぶりのコンサートになります。前の2回は横浜青葉台のフィリア・ホールというホールでやりましたが、今回はすみだトリフォニー小ホールに移りました。それと主な変化として、コンサートを統一するテーマを掲げ、メンバーのうち一人が幹事というかプロデュース役を受け持って全体を取り仕切る形になったことがあります。今回はぼくが引き受けて、演奏会のテーマを『音楽体験とフィード・バック』と銘打ちました。

これまでのコンサートでは運営に関しては代表の山口さんにほぼ全面的に任せきりになっていたので、まず仕事としてとても新鮮でした。さまざまな収穫があり、問題は色々残しながらも本当にやってよかったと思えるコンサートでした。と同時に、グループでコンサートを行うことに伴う困難も感じましたねぇ。。。

まず、ホールのこと。
以前使っていたフィリアホールも、非常にきれいで落ち着いた雰囲気の良いホールでした。ただ、やはり会場へのアクセスがちょっと弱いせいもあり、今回をもって都内に移ろうということでトリフォニーに来ました。

トリフォニーは素晴らしいホールでした。担当の方も微に入り細に入りこちらの注文に丁寧に応対してくれますし、音響や照明の舞台スタッフの方々も、プログラムごとの演出について、事務的でない積極的な態度で取り組んでくれました。我々側のスタッフとして、ステージマネジメントをお願いした境野顕さんも、「なかなかこんなホールはないですよ」と絶賛しておられました。結果として、プログラム間のつなぎなどの演出上の効果は、ちょっと特殊な注文をしていたにも関わらず、ほぼ完全に我々の意図したとおりのものが得られました。この場を借りて心からの感謝を。って、こんな場所で感謝してもしょうがないかな?

コンサートの内容についてはまた項を改めることとして、コンサートのハードウェアの部分についてもう少し。コンサートというものは、本当に多くの人の協力を持って出来上がるものだなぁとつくづく感じました。特に演奏者の方々には、コンサートの成否が大きく関わることもあって、演奏以外のファクターで煩わせることは極力避けたいと思うのですが、その点では今回のコンサートはちょっと及第点には至らなかったように思うのが残念です。

音楽に直接関係ないことかもしれませんが、今回ゲスト作曲家として参加をお願いした伊藤弘之さんにせよ、宣伝にご協力いただいたTEMPUS NOVUMの山本裕之さん、田中吉史さんといった方々にせよ、ぼくなど想像もつかぬほどお忙しいはずなのに、こちらのお願いに対して本当に迅速に応対して下さいました。結局プロの仕事というのはそういうことから始まるのだろうと思った次第です。それは延いては肝腎の作曲にも影響してくることでしょう。この諸先輩方を見習ってきちんと仕事のできる音楽家になりたいものだと思います。

書いていて気づいたけど、LDKの「その他のエッセイ」とここの区別って時としてすごく曖昧になるなぁ。まぁあまり截然と分かれることの方が考えてみれば不自然だし、よしとしちゃいます。読む方としてはもう少し整理して欲しいと思われるかもしれませんが、そこら辺はよろしくご了解のほどを。


反=進歩史観? 28/12/00

人と話して初めて自分の中ではっきりしてくることって、ありますよね。
今、音大の受験生を一人レッスンしているのですが、今日のレッスンで話がすごく広範囲にわたって、自分自身の音楽への態度を振り返るよい機会だったので、ちょっとそれを書き留めておこうと思います。

彼はぼくと同じで、一度大学を卒業したあと改めて音大を受験しようとしているのですが、音大に入ってから主に付き合うことになるであろう「現代音楽」に関しては、そう無抵抗に入り込めない、ちょっと戸惑いを感じざるを得ない、という状態だと見受けられます。そこもぼくと同じです(ちなみに合唱フリークであったということでも共通しています)。ぼくも音大に入った当初はいろいろ聴きかじり始めてはいましたが、何というか、どう理解すればよいものやら、と近づきあぐねていました。

なので、例えば彼が「今日においては調性を用いて作曲するという行為は無効なのか」という疑問を提出するときに感じているであろう無調の現代作品への齟齬感は、もともとぼくのものでもあり、非常によく解(った気になれ)るのです。しかし今日ぼくは、それへの答えを手探りしながら話していくうちに、以前の自分であったらこう答えたであろうという内容と少し違うことを話している自分に気づきました。

以前のぼくはほぼ全面的に、モダニスト的な進歩史観に疑問を抱いていました。コンセプチュアルな音楽家たちによって、一旦「何をやっても音楽になるんだ」と宣言されてしまった時点で、もう後は既成の語彙から取り出してくる組み合わせの問題になってしまって、「新しいもの」を追い求めるという姿勢自体がもう行き詰まっているのではないかと思ったのです。もちろんこれは議論を単純化しすぎた話ではありますが、大筋ではそんなところです。
一回そう考えた人のとる態度というのは、曲を書く時に過去のいずれかのスタイルを「採用」するという無節操な態度です。たとえ新しいことをやった気になっても、どうせ誰かの影が落ちているに違いない。であれば、むしろ意識的にその「誰かの影」とやらを見つめてやる方が自分の行為としては納得がいくのではないか。その時自分が採りたいスタイルが調性の音楽であったならそれもありだ。逆に誰かになりきったつもりで書いたところで、詰まるところ出てくるのは最後のところでは自分の音楽であるに相違ないではないか。と、大体そんな風に考えていました。いや今でも決してその考え方を根本的に否定しはしません。

でも今日のぼくは何か微妙に違うことを云っていた気がする。何が違うんだろう。またちょっと整理した後で改めて書きます。


「採用」主義とわたくし 03/02/01

前回は話が途中でちょんぎれてしまいました。どこでかというと、従来自分が考えていたのは書くこと即ちあるスタイルの「採用」だということだったのが、何だか最近少し違ってきているぞというところでした。

この考えに最初に齟齬を感じたのは、オーケストラ曲「『表現』から遠く離れて」をものした時でした。
これは確かにある既存のスタイルの「採用」という説明のできる曲だと思います。問題は、その「採用」に自分の内部で必然性があるかどうかということです。少なくとも書いている時は、自分の中にはあるつもりでした。書き終わって鳴ってみた時に、さぁどうだったでしょう。

勿論オケの各楽器の音量のバランスとか音色とか、全体の構成の音響的なプランとか、技術的な側面では色々と学ぶことも多く、ためになったので、それはいいのですが、「音楽」として自分に何か充実した新鮮な体験をもたらしてくれたかというと、少々心許ないと云わねばならないような気がしました。いや、そういう云い方をしてはいけないのかもしれないな。何だろう。とにかく、こういう音楽を書いてみました、確かにそういう音楽が鳴りました、以上。そこから先の話がない感じなんですよね。なくてもいいのかもしれないし、そういうことをやったらその結果はそれこそ必然的なのですが、それにしてもそういうことを自分は求めていたわけ? と自問したくなってしまうわけです。

「採用」主義というのは、色々なスタイルの遍歴の果てに、自分固有のスタイルに辿り着くのが目的であるべきはずなのです。そう一朝一夕に自分のスタイルなど得られるわけがないですから。「この曲を書くために自分は生まれてきたんだ」と云えるくらいの曲を作るのが作曲をやる上での一生の目標だろうと思いますが、それに近づいていっていない仕事というのは、いくら巧くできていても仕事として誠実ではないのではないかと、先述の曲を書いてから考えるようになりました。

「採用」自体がいい悪いという問題ではないと思います。そのスタイルが既存のものかどうかはそれほど問題ではなくて、要は自分の「本当にやりたいこと」であるかどうかが問題なんだろうと思います。割と当たり前の結論ですね。何も目新しくない。そこに辿り着くまでにだいぶ迂回したようにも思いますが、人生結果オーライなのでいいことにします。

それにしても今回ものすごく青臭い話になりました。スタイルの内容に言及していなくて少し議論が空虚かもしれません。今度はもう少し奥まで分け入った話をしましょう。


22/05/01

言葉って不思議なものだなぁと今日ふと思いました。
「ch」だの「ts」だの、または「o」だの「eh」だのといった、子音や母音、これらそれぞれには勿論何の意味もないのに、それらを或る組み合わせと或る順序で使うと、自分の伝えたい意味内容が相手に理解できる形になるんですから。言葉で苦労すると、言葉の有難みというか貴重さというか、そういうものの片鱗を実感する気がします。

それは云うなれば、極端に複雑に作られた鍵のようなものだと思います。
先が見通せないほど深い鍵穴があったとします。鍵の彫り方の可能性はそれこそ無限大に近いほどバラエティに富んでいることでしょう。その中から、適切な形に彫られている鍵を探り当てて、それをしかるべき時に鍵穴に入れて扉を開ける。思えば随分難しいことを、母語を操る人はいとも簡単にやっているんだよなぁなどと、アホみたいにしばし考えていました。今日は天気も良かったです。

そこからぼくの連想は音楽に向かいます。音楽もまた、鍵穴に差し込まれる、しかるべき鍵として在るだろうか、と。
多分20世紀の初頭くらいまでは、鍵穴は厳然と在ったと云えると思います。でもこの場合は鍵穴と表現すると語弊があるかもしれません。具体的にこういう鍵でなければいけないというのではなく、ある程度鍵の輪郭には許容範囲があって、ドアを巧く開けられる鍵と、何とか開けられる鍵と、開けられない鍵がある。そんなイメージが頭に浮かびます。この時巧く開けられるかどうかを決めるのは鍵穴であって、それを規範と呼ぶこともできるでしょう。

言葉の鍵穴も勿論そう呼べるでしょう。音素の組み合わせに意味が生じる、あるいは伝えたい意味内容が相手に理解されるというのは、デノテーションのレヴェルやコノテーションのレヴェルでの規範を満たしているということに他なりません。このパラレルゆえに、「音楽言語」という言葉も生まれうるわけなのでしょう。

言葉の規範も音楽の規範も、長い年月を経て多数の人々によって積み重ねられた結果生じたものです。ある時には急に違う方向にねじ曲げられることもあるし、ある時にはある方向にものすごい速さで進み始めたりもします。それは人の作るものだから、必然的に変化します。

音楽の規範は、今、在るのでしょうか。
この問は、ある人々の失笑を買うかもしれません。そう問うこと自体が無意味だと断ぜられて久しいではないか、と。
しかし、もし規範がもはや本当に無いのであれば、なぜ人は曲を作るのでしょう。扉がないのに作られる鍵というのは、何なのでしょう。

一方で、今も厳然と規範はある、とする考えもあるでしょう。しかし、それはもはやローカルなそれである他ないということを認めねば、この論者はただの近視眼者として無視されるべき運命にあります。

あとは、規範からの逸脱にこそ新しい規範を産み出す力があり、それこそが今音楽を作る意義だという云い方もあります。この「逸脱の力」は、果たして《メタ規範》たり得るでしょうか。そもそもバロックがすでにそうなのですよね。まだこの力に、《力》があるのでしょうか。

といったあたりで、いつもの袋小路に収まって、ぼくは部屋の前に帰り着き、ドアの鍵を開けたのでした。ちゃんちゃん。(オチをつけてどうする……)


ワルシャワの秋2001 08/10/01

9月は2つの音楽祭を聴きに行きました。何となく最近は開き直ってと云うか、こちらにいて出来る、最も手っ取り早くて益になる行動というのは、方々に出向いてよいコンサートをたくさん聴くことかなと考えるようになりまして。1つはアムステルダムで行われたガウデアムス音楽祭で、後半の3日間のコンサート5つを聴きました。もう1つは「ワルシャワの秋」音楽祭です。

正直に云いますと、最初は「あぁこの音楽祭よく名前は耳にしたけど、まだやってたんだ」という感じだったんです。まぁケルンでウツウツしてるくらいなら、いっちょ行ってみるか、みたいな。
そうしたら。なぁんだ、素晴らしい音楽祭じゃないですか。実は個人的にはガウデアムスよりも充実させてもらっちゃいました。もちろん自分の精神状態の影響も大きいでしょうけどね。

ここでぼくが今回聴いたのは、前半4日間のコンサートのうちの7つでした。一つ一つ紹介すると煩雑なことになるので、概略を話すことにします。
コンサートは基本的に国別に色分けされている感じで、ぼくが行ったコンサートを、主にフィーチャーされている国で分けると、ポーランドが4つ、それとドイツ、フランス、オランダが1つずつという感じです。

今日のポーランドの作曲界の印象は、一言で云えば折衷主義的な感じです。ペンデレツキや後期ルトスワフスキのような複雑なテクスチャはだいぶ影を潜めていて(会場では何度となくペンデレツキの姿を見かけましたが)、むしろ支配的なのは「転向」後のグレツキのスタイルです。人によってはもう完全にスクリアビンかシマノフスキの世界に先祖返りしてます。

聴くと、ベタでそれをやっているというよりも、戦略的にそのスタイルを確信犯で使っている感じがしたので、それ自体についてはぼくは特に批判する気にはなりません。
ただ、グレツキなりペルトなりがああせざるを得なくなった、彼らの内的な必然性を、その後のジェネレーションの人達も共有しているのかというと、あまりそうは思えませんでした。グレツキを聴いて「あぁなんだ、これでいいんじゃん」と思っちゃったんじゃないかと感じさせられるところが、ちょっとあるんです。
勿論そんなこと云ったら彼らは真っ向から否定すると思いますけど。でも作品にはそれが出てると思う。

他のコンサートで良かったのは、アンサンブル「クール・シルキュイ」の演奏した、ダルバヴィ、ミュライユ、ユレル等のフランスの作曲家を扱ったものと、旧王宮の広間で行われた、アンサンブル「ユナイテド・ベルリン」によるドイツの作曲家の作品のマティネでした。

「クール・シルキュイ」の演奏は7月に行ったグルノーブル近郊でのメシアン・フェスティヴァルで初めて聴きましたが、各奏者のキャラクターがとても明瞭に表に出ていながら、全体の中ではそれらが決して嫌みにならずに均整を保っている、素晴らしいアンサンブルでした。実は今回はるばるワルシャワまで足を運んだのは、一つには彼らがグリゼの「Vortex Temporum」を演奏することを知ったためでした。

グリゼのこの曲は、聴けば聴くほど何だか奇蹟のような作品に思えてきます。こちらにいるうちにぜひ楽譜を購入したいものです(…まさかレンタル譜じゃ、ないよね)。それと、ミュライユのフルートとピアノのデュオ曲「Le fou a pattes bleues」が音響、構成ともに印象に残りました。

もう1つのドイツの人達のコンサートでも、思いがけないボーナスがありました。
キーブルツ(一般にはこう書かれますがキューブルツの方が近いと思う。また、彼はドイツの人ではないみたいですが、まぁ広くドイツ語圏てことで…)の「Cells」という、サックスとアンサンブルのための作品を聴いたのですが、これに圧倒されてしまいました。無尽蔵と思えるほどに繰り出される楽想のアイディア、多彩なトーン、隙のない構成…ただ素晴らしかったです。こんなに感動したのは久しぶりでした。
実を云うと、クール・シルキュイ以外のコンサートは今回ほとんどチェックしていなかったので、これが聴けたのは本当に幸運でした。

帰る前の日、24日にはルトスワフスキ・コンペティションの本選演奏会がありました。先述したポスト・グレツキの予備軍という感じの作品が多くて、聴いているうちに口が自然にへの字になるのを止められませんでした。グランプリの選定に至っては、ぼく的に一番納得の行かなかった作品が選ばれる始末。何をかいわんや(自分のことは棚に上げまくり。こういうときのお約束ですね…)。
「ワルシャワの秋」に関してはそんなところです。今まで行った他の音楽祭についても、追って少しずつ触れていこうと思います。


短期集中連載 音楽の「相手」

1. 「理解される」音楽 11/11/01

こちらにやって来てから、何人かの方とのメールのやり取りの中で、ぼくの現代音楽に対するスタンスをはっきりさせる必要を感じさせられたことが何度かあります。延ばし延ばしにしていても答なんて出てこないし、書きながら答がひょっこり現れることもあるだろうと(これはサイトを立ち上げようとした時と事情は全く同じですが)、ちょっと散漫になるかもしれないことを承知で書き始めてみようと思います。

まず、目の前に転がっている状況はどのようなものかというと、そのまま聴いても一般の聴衆にはまずそう素直には理解できない現代音楽というのがとにかくあって、一部の人はそれに対し拒否反応を示し、他方ではそれが広くは受け容れられ得ないものであることを自明のこととして拒否反応自体を黙殺する、ペダンティックとも云える風土が存在する、といったところでしょうか。

ぼくはこのどちらにも知人がたくさんいます。そしてどちらの云い分にも、全く理がなくはないと思っちゃう方です。でも両者は決して相容れない。そしてぼくはその両者の間に横たわる溝を埋めたくなる。そうすると自ずと、ぼくの立場というのはこっちではこう云い、あっちではああ云うというような優柔不断なものになりがちになります。これはいけない。どこかではっきりさせないといけない。そう思うようになってくるわけです。たとえ親しい友人との間で意見の対立が生じようとも。

現代音楽を聴いていると、中にはほんとに二度と聴きたくなくなる曲も実際あります。しかし一方で、当然のことですが、奇蹟かと思うほど素晴らしい曲もままあるのです。だからぼくがその溝を埋めようとする時にとれる唯一の立場は、その素晴らしさを共有してくれる人を増やす努力をすることでしかありません。つまり、聴き手に対して創り手側に歩み寄ってもらおうとすることでしかなくて、その逆にはなり得ません。それはぼく自身が創り手であるからでもありますし、創り手に他人が干渉することは原理的に不可能でもあるからです。とは云っても、やはりある種の創り手はぼくから見ていかにも不健全に見えることもあるわけで、それに対して云えることもまたあると思います。

では何の話から始めましょうか。
まずは一番ありそうな指摘の雛型をこさえてみることにしましょうか。「現代音楽って、ただめちゃくちゃをやっているみたいで、何だかちっとも解らない。メロディもハーモニーもリズムも、まるでないように見える。それよりクラシックの方が解りやすいし、感動する」といったような。実のところ最近は、ここまで典型的な言葉にはお目にかかることは少なくなってきましたが、でもそれは云うのを憚る姿勢が流布してきたというだけのことで、心情的には依然としてこの主張は一般的なものだと思います。非難がなくなったと云うより、非難すらされなくなった、すなわち黙殺されるようになったとも云えるかもしれません。

ぼくはこれらの言葉からは断固として現代音楽を擁護したいです(別に自分が現代音楽を背負って立ってるつもりはありませんが)。とは云っても、大上段に構えた、「解っとらん奴は黙っとれ」的な姿勢にも嫌悪を感じます。そんな大層なことやってんのかよ、と。でも一遍にこの両方を相手にすることは不可能ですので、まずは前者の拒否派の方から考えようと思います。

現代音楽は解らない、という云い方に、ぼくは逆にこう問うことから始めたいと思います。「ではクラシックは「解る」のだろうか。音楽が「解る」とは一体どういうことだろうか」と。
モーツァルトやベートーヴェンだったら、人は「解」っているのでしょうか。「解る」という言葉を使う場合、問題となっている記号(この場合音楽作品)が包含している意味内容を、受け手と送り手が共有することを指すと思うのですが、音楽の場合、言語と同じような意味においての「意味内容」ってのはないんですよね。音楽は常に所記なき能記としてしか存在していません。あるメロディは、そう何でもいいです、例えばモーツァルトのト短調交響曲(K.550)冒頭のテーマが「悲しみ」だの「寂しさ」だのといった「意味」を持っているわけではないですよね。それは各自の聴く人が「感じる」ことです。モーツァルトが「悲しみ」だの「寂しさ」だのを「伝達」するためにこれを書いたのだと云ってしまうことには、深刻な語弊があります。

一方に「音楽言語」という言葉があります。これはいわゆる一般の言語が単語や文法や修辞法といったものを持つのと同じような意味で、音楽における和声だの旋律の作り方だの楽曲の構成法だのといったことを考えようとすることを意味します。と同時に、それを「言語」と呼ぶ以上、それが音楽をやる人間にとって一種の前提、共通認識となることをも意味します。例えばメロディの中に倚音があれば、それは演奏の際に解決音よりは表情を込められてしかるべき音となる、とか。

音楽に対して「解る」という言葉を使う場合、このレヴェルにおいてではないかと思います。ここでは感情とか感動とか感性とかといった問題は顧みられません。誤解を避けるために云い添えると、今「レヴェル」と云いましたが、どちらが上で下だとか、高級だとかそうでないとか、そういうことを云おうとしているのでは全くありません。ただ、そういう問題とは別の問題なのだというだけのことです。「レヴェル」でなく「様相」あるいは「モード」などと云っても構わないのですが、そんな物々しい言葉を持ち出す必要もないでしょう。

ではお前は音楽を語る時に感動を問題にする必要はないと思っているのか、という問がぼくに向けられるかもしれません。それに対しては、もちろんそんなことはないと、ぼくは答えます。ぼくだって人の子です。音楽を聴いて感動することだってあります。しかし、音楽を創る側と感動とか感情とかを結びつけて語ると、また面倒な問題が持ち上がることになります。これについては項を改めましょう。


2. 「感動させる」音楽 12/11/01

人が音楽を聴いて感動することは、一つの「事件」だとぼくは思っています。ここで謂う「事件」というのは必然性を欠いた出来事のことです。Aという人物がXという音楽作品を聴いて感動することには、何ら必然的な理由はないのだとぼくは考えているわけです。
これをもっと正確に云えば、この場合Aという人物自身にとっては必然的な理由があるのかもしれません。でもそれは他の人にそのまま通用する性質のものではないのです。あくまでそれは個人的な事情なのです。Aさんが感動したからといってBさんもXに感動しなければいけないいわれは、全くないわけです。たとえそれがAさんにとっては、人生を変えられてしまうほどの大きな衝撃であったとしても。

更に云えば、Aさんにとってすら、それが常に必然的であるとは云えません。もしAさんがその日の散歩で街路樹の木洩れ陽を見上げていなかったらその感動はなかったかもしれない。もしAさんがその曲を聴くときにコーヒーを飲んでいて、その茶碗の欠け具合が何か別のことを連想させたとしたらその感動はなかったかもしれない。多分「感動」という現象は、そのような些細な偶然性に支えられている側面が大きいだろうというのが、ぼくがそれを「事件」と呼ぶ理由です。

もちろんこれは演奏というファクターによっても大いに左右され得ます。演奏家Pによる演奏を聴いて感動した人が、同じ曲を演奏家Qによるそれで聴いても(いや、延いては同じ演奏家Pによる別の演奏で聴いてすら)何も感じられないということはいくらでもあることです。その場合この聴き手は曲というよりは演奏に感動しているのでしょうか? まぁその問に関しては、ここではあまり考えないことにしましょう。ぼくにとってはどちらでもいいです。

で、「事件」などという言葉を持ち出すと、何か劇的な体験のような印象がどうしても付き纏いますが、まぁこれにも色々あると思います。涙が滂沱と流れて止まらなくなってしまうような感動もあるでしょうし、とにかく「いいなぁ」とシミジミしてしまう、といった類の感動もまたあるでしょう。両者を区別した方がいいのかもしれませんが、今はちょっと一緒にしておきます。とにかくそれは大きく捉えれば音楽への、あるいは音楽を生み出す人物(作曲家ないし演奏家)への、共感とか賛意とかに近い感情であることでしょう。

でまぁとにかく、その感動という「事件」が音楽を聴く快楽の最も大きな部分を占めていることは想像に難くないわけです。いい音楽は魂を洗ってくれるのです。
ここで、音楽が「そのように」聴かれるようになったのはいつなんだろうと、ふとぼくは考えます。いつの時代でもそうであっただろうというのは、ぼくにとっては何となく嘘っぽく思われる仮説です。もちろんそれに対して反証もできませんけれど。ぼくは考古学的な知識をほとんど持っていませんから。これは直観に過ぎません。

いつからでも構いませんが、とにかくぼくが思うのは、「音楽が人を感動させる」というのはもちろん実在する現象ですが、それが普遍的な音楽のあり方ではないのではないかということです(書いていていかにも乱暴な議論だなぁと自分でも思います。例えば平安時代の貴族が琴の音に「あはれ」を感じるというのは、このあり方と同じなのか、違うとすればどう違うのか、またこの時代に我々のそれと対応するような「作品」という概念はあったのか(多分なかったでしょう)、なかったとすれば「あはれ」を催させるのは演奏ということになるのか。話は枝葉に向かおうとすれば際限なく広げられるのですが、敢えてここでは話を骨子に絞ります)。
そしてそれと同時に、普遍的に万人を感動させる音楽というのも、ないと思っています。そんなことは当たり前じゃないかと云われるかもしれませんが、ぼくはそう考えていない人の方が世の中には多いと思っているのです。例えばモーツァルトの音楽には感動するのが当たり前であって、感動することができないのはおかしいとか鑑賞眼が足りないとかという風に考えてしまう人は、決して少数ではないと思います。

何度も云うようですが、ぼくは上に挙げたような感動の無理強いは嫌いですが、感動してしまうことにイチャモンをつけようというのでは決してないのです。繰り返しますが、ぼく自身も音楽に感動する人間なのです。ただ、それが音楽の唯一の本性的なあり方なのではないであろうと云いたいのです。

何故そこにこだわるのか。それは、もし音楽の本性が人を感動させることにあるのであれば、即座に、人を感動させるかどうかが「善い音楽/悪い音楽」を分ける基準になって来かねないからです。そうであっても構わない音楽と、そうであっては困る音楽があるのではないか、とぼくは考えているのです。
ここでも確認しておきたいことがあります。ぼくは今2種類の音楽を区別しようとしましたが、これに優劣をつけることはぼくの本意ではありません。この前の項でも似たようなことを云いましたが、どちらが高級だとかいったような議論にはぼくはまるで興味がありません。ただ区別をしておきたいだけです。

では、「そうであっては困る音楽」においては、何が困るのでしょう。これについて少し詳しく考えてみたいと思います。


3. 作り手の領分 15/11/01

そもそもぼくは、人が音楽に感動するということは「事件」だと捉えているので、基本的に音楽を創る側が(作曲でも演奏でも)、聴き手の感動をコントロールすることはできないと思っています。どんな種類の音楽においても。「感動してくれたらいいな」と心密かに期待するのはともかく、「私はひとを感動させるために書く」と云い切ってしまうのは、ぼくには半ば神の立場に身を置こうとする行為に映り、云い方によっては不遜だと思うことさえあります。

でもそのことの是非はここでは敢えて問わぬことにします。聴き手を自分の力で感動させることが可能だと考えて、それを目的として音楽を作るのもよいでしょう。
しかしそれは、前項の終わりで触れた区別で云えば、あくまで前者の「そうであっても構わない音楽」ということになります。ぼくにとっては。

ここからはぼく個人についての話になります。
音楽を作る際に、「どう聴かれるか」を考慮すべきなのかどうか、という問題を長い間考えてきましたが、どうもうまい具合に考えがまとまりませんでした。時によっていろいろ揺れ動くのです。揺れ動くのはいいのですが、その都度自分の立つ視点を的確に掴まなければいけないなと思います。
例えば去年、ぼくの参加している作曲家グループ「−6」のグループ展プログラムに、ぼくは次のような内容の前口上を載せました。この時ぼくは、まさにこの問題に一つの回答を与えようと考えていたはずです。

「ほとんどすべての音楽は、聴かれることを前提に生み出される。それを聴くことがどのような体験になるかを発信する者が規定したり操作したりすることは、本質的に不可能である。であれば、発信者はそのことを関知する必要はないとも、さしあたっては云えるかもしれない。どう聴くかは聴く側の問題である。
しかし、やはり発信者は無人の洞穴に向かって話しているわけではないのだ。自分の生み出した音が誰かしらの衣服に、皮膚に、鼓膜に吸収されることを感じないわけにはいかないのだ。たとえ仮想的であるにせよ。(もっとも、それぞれの発信者が最も意識すべき聴き手は自分自身であろうけれども。)
とすれば、第三者の受容の様相を見届けようとする眼差しが生じることは決して避けるべきことではない。むしろ、その眼差しのまったき不在こそ、最も危険な足取りではないだろうか。自分の発語の谺に耳を傾けることがその後の発語を左右することがあっても、度を過ぎることがなければ、コミュニケーションの形態としては健全なものであると云っても許されるであろう。」(以下略)

ここでのぼくは先程の問に対して肯定しようとしています。どう聴かれるかを、作る側も考慮した方がいいのだ、と。それはこの時のグループ展のコンサート全体の構成が、メンバーを2人ずつの組に分けて、各組の中で「問」としての作品とそれに対する「答」の作品を提出する、という形を試みていて、その形態の意義をある意味で捏造する必要があったからなのですが(笑)、もちろんこれはそれまでのぼくが露ほども考えていなかったことではありませんでした。その時の意見としては割と正直なところだっただろうと思います。

しかしこれを書いてから、ぼくの中では引っ掛かかっていることがありました。実際にそうかな、本当に自分はそう思っているかな、ということが少し腑に落ちなかったのです。
この時のぼくは既に、「聴き手を感動させよう」という姿勢を作り手が採ることを退けようと意図していたと思います。作り手の発語が聴き手の反応に左右されるのは「健全」ではないと思っていたはずです。けれどもそれは即ち、いわゆる独りよがりと呼ばれる状態なのではないか、と当然すぐに思い至るわけで、そこでジレンマに陥って悩んでいたのだと思います。

今考えてみると、その時のぼくは「解る」ことと「感じる」ことをしっかり区別していなかったために、その種のジレンマに陥らねばならなかったのでしょう。
「感じる」ことに関しては、作り手は聴き手に対してまるで無力です。感動してもらいたければ聴き手に「事件」を起こしてもらうほかないのですから。尤も蓋然性の面からアプローチすることは可能でしょう。「こういう風に作れば人は感動するものだ」みたいな。この可能性に立脚すれば音楽はダイナミックなビジネスたり得るわけです。これはさっきの話だと「そうであって構わない音楽」についての話になっていきますので、さっきと同じく、今はこれについては一応措いておきます。
一方「解る」ことに関しては作り手は積極的に努力すべきだとぼくは思っています。「音楽言語」という考え方を採るのであれば、作られた作品が「意味」していることを伝えられなければ作る意義はありません。そのためには音楽そのものの中での「音楽言語」の構築(これは普通考えられるよりも広い意味で用いています。狭義の「構築」を意図的に排する作り方だって可能でしょうから)をしっかりやる必要があるでしょうし、場合によっては他の「言語」、つまり一般の意味での言語=言葉の助けを借りることにもなるでしょう。今日の音楽の状況において一つの「音楽言語」が音楽家達に遍く共有されているとは云い難いわけで(これはいつかここで話した「規範」の問題に繋がっていきます)、自分が何を前提にしているかを説明しないと作品の意図の伝達もしにくくなってきます。これにはまた後で改めて触れるかもしれません。

話を少し戻して、「感じる」ことと作り手との関係についてもう少し考えようと思います。前項での最後で提出した問に、まだぼくは答えていません。それはつまり、「人を感動させるかどうかが評価の基準になっては困る音楽というものがあるとして、それはなぜ困るのか」ということでした。次の項でこれについてのぼくの率直な意見を述べることにします。
なかなか話が進みませんね。別に勿体ぶってるつもりではないんですが…


4. 音楽の「相手」 16/11/01

ぼくはモーツァルトの伝記的な知識にはてんで詳しくないので、あまり詳しいことは書けませんが、彼のニ短調のピアノ協奏曲(K.466)が初演の際に聴衆の理解を得られなかったという話を聞いたことがあります。それは何となく解るような気がします。それまでの洗練された予定調和的な協奏曲に馴れ親しんでいた人たちにとって、あの曲は必要以上に劇的であるために、従来と同じように素直に受け容れることが出来なかったとしても無理はないように思われます。

ここでモーツァルトがやったことは、果たして彼にとって何を意味していたのでしょう。それはもうぼくにはまるで想像の埒外ですが、少なくとも彼は自分の新しいピアノ協奏曲がそのような反応を得るであろうということは(意識したかどうかはともかく)判っていただろうなと、何となく思います。別にそれはどちらでもいいですが。
問題は、「にも関わらず彼がそれを書いて発表した」という事実です。もし彼が、自分の天分は人に気に入られる音楽を書くことにあると考えていたなら、この曲は生まれなかったかもしれません。少なくとも、世には出なかったかもしれません。

人々が期待するような曲を書こうとすれば書ける人が、それと判っていてその期待に反する曲を止むに止まれず書いてしまうというような事態は、この頃に始まったのではないかと、漠然とぼくは考えています(と同時に、新しい作品が自分たちの気に入るようなものであるということを人々が期待するのもまた、この頃からなのではないかとぼくは睨んでいますが、それはまた別の問題となりそうなのでここで触れるのはやめておきましょう)。
これをよく流通している言葉で云い換えれば、「音楽が貴族の調度品や教会の礼拝の従属物であることをやめて、「芸術」となり始めたのだ」ということになるのでしょう。J.S.バッハの仕事はそれ以前の時代に属するものであるわけですが、これはその意味では逸脱と呼ぶに価するものでしょう。誰も当時それを「芸術」とは考えなかったでしょうから。

市民社会や資本主義の誕生と絡めて文化史のおさらいをすることにはぼくはあまり興味はありませんで、この中でひたすら気になるのは「止むに止まれず書く」という行為が始まったということです。「芸術」という言葉を使う条件はこれなのではないかとぼくは思うのです。誰か特定の相手に向けて書くのではなく、とにかく自分の感情なり思想なりの発露として書いてしまうこと。それが「芸術」としての音楽の特徴だろうと思うわけです。強いて云えばそれは自分に向けて書かれたものです。

で間髪を入れずにここで強調しておきたいのは、「だから芸術は素晴らしいのだ」とか「芸術は人間の精神の崇高な営為なのだ」みたいな話をぼくがしたいわけではないのだということです。そうでない音楽、他人の期待に向けて書かれる音楽を、いま便宜的に「娯楽」と名づけてもよいと思いますが、この二つに優劣をつけて「芸術」の方を礼賛するという構図はあまりに陳腐で、そういう選民意識めいたものに与する気にはとてもなれません。ぼくが云いたいのはそういうことではなく、ただ単に自分に向けて書くものを「芸術」と呼ぶことにしようとしているだけのことです。崇高だとか深遠だとか云い始めると、途端に話が胡散臭くなります。これは善いとか悪いとかいう話とは全く関係ないのです。

そういうものとしての「芸術」という意識が決定的に顕在化したのがシェーンベルクにおいてではないかと思います。彼は無調での作曲を開始した以後の創作について、「自分が好むか好まざるかに関わらず、私はこう書かねばならなかった」みたいなことさえ云っていますから。しかし作曲家の意識下においては、その種の倫理は多分既にベートーヴェンの頃から確実に存在していたでしょう。

その根底には恐らく、「今までの音楽の語彙では表せない何かが自分の中にある」という感覚があることでしょう。それこそベートーヴェンにあてはまる言葉です。ここには本当は「聴衆」はいないのだとぼくは思います。それまで「英雄」みたいな立体的な交響曲を書いた人は誰もいなかった。別に彼は人を驚かせようとか、すごいと思わせようとか考えたりはしなかったでしょう。感動させようとすら考えなかったはずです。人が彼の音楽を聴いて感動するかどうかは、あくまで多分ですが、多分彼にとってはどうでもよかっただろうと漠然と確信しています。根拠は別にありませんが、音楽自体がそう語っていると思います。彼の音楽には特定の「相手」はいません。それを審判できる人は、彼本人以外にはいなかったのです。

今日までに音楽がここまで変貌してきたのは、ひとえに作曲家たちによってこの倫理観が共有されてきたためではないでしょうか。ケージのようにこの倫理観自体を捉え返そうとする仕事をした人もいますが、それもこれまでこの倫理観が自明のように前提されていたゆえのことです。今日の音楽が聴衆の理解を超えてしまったと憂える姿勢は、「相手」のいる「娯楽」の音楽には妥当なものでしょうが、ある意味では既にベートーヴェンにおいて「聴衆」は超えられてしまっていたというのが今のぼくの考えです。
別にこれは直ちに「聴衆」に敵対することを意味しているわけではありません。シェーンベルクにしても、彼の生涯は結果的にまさに「聴衆」との格闘であったかのような印象を与えますが、彼にとってそれが目的であったわけではありません。それが目的化すると、逆にやはり先述した倫理観からは逸れてくるのです。
繰り返しになりますが、「芸術」としての音楽というものは、(「感じる」という側面において)「相手」がいないものだということに尽きます。ベートーヴェンが「芸術」であるのは「人間の精神の崇高な営為」としてあるからなのではなく、ただ単に、「自分に向けて」のみ書かれたものだからなのだとぼくは考えます。

いま、「感じる」という側面において、という留保をつけました。「解る」という側面に関してはもちろんそうは云えません。作品を作ることがただの独り言でなくなるのはこの場面においてでしょう。今度はそれについても考察することにしましょう。


5. 説明される音楽 21/11/01

現代音楽が敬遠される理由の一つに、作曲者の曲目「解説」があるようです。
一口に解説と云っても、曲が人によって様々であるように、その解説にしてもそれこそまちまちで、十把一絡げにはできません。言葉少なにその作品の作曲の動機を呟くもの、読み切るためには曲そのものを聴いているより長い時間を必要とするような物量で作曲観全体についてトウトウとまくし立てるもの、曲におよそ関係なさそうなシュールな言葉の羅列で読む者(聴く者)を煙に巻こうとするもの、印刷してある紙から苦悩がニオってきそうな真情の吐露、恐らく本人以外にはあまり解る人のいなさそうなレヴェルの細かい分析、あるいは全くの無言、等々…

ぼく自身はこれの中のどれに入るのかよく判りませんが、取りあえずどういう経緯でその曲を作ろうとしたかについてはある程度触れようと思う方です。別にそのやり方に執着はそれほどありませんが、文自体で人を惹きつける自信があんまりないもんだから、あまり「遊び」は入れられません。いろいろな人の「解説」を読むに、人によっては、曲には特に関係なさそうだけど、読み物としてあまりに面白いなぁと感心させられることも、あったような気がします。…う〜ん、でもやっぱり書く時には比較的饒舌になる方かもしれませんねぇ、ぼくは。喋るのがあんまり得意じゃないから。

ともあれ、ぼくが聴く立場になった時、つまり例えば全く知らない曲を初めて聴いたりする時に、作曲者あるいはある第三者による解説に対してどういう態度をとるかと云うと、いつもではないのですが、大体聴く前にざっとは目を通します。そうでなかった場合でも、聴いた後で全く読まないということは、まぁないと思います。曲に共感できてもできなくても、とにかく資料として。
ということは、やっぱりぼくは、「聴いた時に感じたことが全てだ」とは思ってないわけなのでしょうねぇ。そう思う人がいてはいけないなどとは云いませんが、ぼく自身はそうではない、と。

だって、ぶっちゃけた話、初めて出会った曲をたった一回聴いただけでは、正直な話ぼくには殆ど何も解らないからです(笑) てのは云い過ぎかな。いやそうでもないかな。(ちなみにここでの対象は現代曲ということにしておきます、一応。)
勿論聴いてる間中「?」マークが頭の中を飛び交っているだけというわけではなくて、一応考えて聴いています。わっ、今の響きすごく新鮮だな、どう書いてあるんだろ、とか、あぁうまい盛り上げ方だなぁ、とか、これはすごい細かく書き込んであるんだろうなぁ、とか、あるいは、えっここで最初に戻って来ちゃうわけ? とか、う〜んいつまでこれを続ける気なんだろう、ここまでやるのに必然性はあるのか? とか、そんなようなこと。
でもそう考えるのはぼくが勝手に一人で考えていることであって、作曲家にとってはまるで的外れなことだったりするかもしれない。ついそう思っちゃうので、やっぱり解説に目が行くことになるわけです。せめて楽譜を見ながら聴くのなら、まだ何を聴けばいいのかの見当はつくかもしれませんが。(ちなみにぼくは楽譜依存症のケがあって、クラシック系だったらどんな種類の曲でも一度は楽譜を見ながら聴きたいと思う方です。)

あくまでぼく個人の話ですが、こういう風に考えていることは、つまりはその曲で作者が「何をやりたかったのか」、その曲は「どういうものとして作られているのか」を知りたいと思うことなのです。そして例えば解説に触れることによって、その「目当て」みたいなものが判ったとすると、それで初めて「そういう」仕事としてうまく行っているかどうかが判断できるだろう、と考えているわけです。
そして更にぼくが自分に常に課していたいと思うことは、その「目当て」自体に対しては賛成も反対も保留しておくということです。もちろん好みの問題というのは自分にはどうしてもあるわけで、その作品の「目当て」が興味の持てないものだったりすることも往々にしてありはしますが、仕事の出来具合の判断には自分の好みは一応無関係だ、と。

それでぼく自身もある程度の手掛かりを聴き手に渡した方がいいなということで、何やら書くわけです。これはつまり「解る」ことに関してのケアです。「感じる」ことに関してはぼくは何も云いません。何度も云ったように「感じる」ことには作者は無力だからです。ぼくも何か曲を聴いて圧倒されてしまう時というのは、解説なんて全然無関係にただ圧倒されるだけです(それは「事件」です)。もちろんその後で何某かそれについて読みたくなる気持ちは強くなりますが。

従って、作る側が「私の音楽に関しては何も云うことはない。聴いて感じられたことが全てだ」と云って口を閉ざしてしまうことに対しては、ぼくはどうかなぁと疑問を感じてしまいます。前に書いた、「自分に対してのみ作る」ということと矛盾するようですが、これはやはり違う問題なのです。
説明なしで伝わるものであるとは、現代の音楽は残念ながら云えません(別に「現代の」などという留保は不要なものかもしれませんが)。自分が何に立脚して作ったのかを云わないと、聴く者がそれにアプローチしようと思った時に手だてがなくなってしまうので、ぼくが聴く立場だったとしたら、それは少し不満な感じがします。聴く者が「そんなもの不要だ」と思う人だったら、解説を読まなければいいわけなのですから。それに「事件」は必ず聴き手が「一人で」起こすものです。作る側が何かを云うか否かは、そもそも無関係なのです。
でもさすがにぼくも、作品の本体は「音」であって、言葉はあくまで付随物だと思っています。解説の言葉がいかに麗しいものであっても、曲そのものが大したことのないものだと思ったら、それはぼくにとってはそういうものです。これはもちろん自分の曲であっても同じことです(汗)

説明がなければ伝わらないようなものだったらやめてしまえ、という話もあるでしょうが、やはり結局のところぼくがやっているのはそういうものであって、なおかつぼくは今の時点ではやめてしまえとは思っていないわけで、やっぱり万人向けの仕事ではないんですかねぇ、これは。ぼく自身は、少なくとも「説明」は万人に向けてるつもりで、特に七面倒くさい話をしているつもりもないのですが。何でそんなに説明って嫌われるのかなぁ(笑)

今回の一連の話は、取りあえずこのくらいにしておこうと思います。別に結論らしい結論が出ているわけでもありませんが、今回これだけ書く気になったのは、今まで何人かの友人に音楽談義に付き合ってもらったためでもあります。ここで彼らにお礼を云わせていただきます。ありがとう。

 

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