ヨーロッパ滞在顛末 1


躊躇の人 28/04/01

ヨーロッパやアメリカで勉強すること。
音楽を勉強する者にとっては、不可欠とは云わぬまでも、いやそれどころか、もしできるのだったら絶対するべきことの一つなのだろう。ぼくも例に漏れず、そう思ってきた。ヨーロッパで勉強できたらいいなぁ、と。

思うのだったら、やればいい。語学学校に通って会話の勉強、向こうの学校の先生を紹介してもらってコンタクト、ビザ申請、住居の手続、奨学金を受けたければその申請……。実際そういう行動力を持った人は少なくない。みんな海外に行きたければやることだろう。

そういう風にやっていく、あるいは、やってきた人を、横目で見つつ、「すごいよなぁ」とぼくは畏縮していた。

ぼくにはその種の行動力が欠如していた、あるいは欠如していると思っていた。そういう人もまた、日本人の中においては少なくはないと思うのだが、自分は文句なくそっちの方だと思っていた。

卒業を間近に控えて、本当にこのまま向こうの空気を知らずに日本で活動していていいの? ただでさえ行動力のない人が、ないまま何となく日本で縮こまってやっていくしかなくなってもいいの? と自問したとき、自分はようやく、ノーと答えた。またこれだよ。事態がギリギリになってみないと判断できない。音楽にコンバートしようとした時とまるで一緒。判断した時にはもう遅かったりするのだ。

修士最後の1年を指導して下さった野平一郎先生に「君はいろんなことに躊躇している人だと思う」と云われたことがある。そのとき、何と核心を突いた発言だろうとびっくりしたのを今でも憶えている。それは作曲についての話だったかもしれないし、留学についてだったかもしれない。おそらく全部なのだ。初めてのオーケストラ曲で妙に作風をセーブしたのも、それ以降の室内楽で今ひとつやりたいことがやれていないように見えるのも、留学してみたいと思いながらぐずぐずしていることも、そして更に自分で勝手に敷衍すれば、音大に初めから来ずによそでブラブラしてから結局思い直して来るあたりもひっくるめて、全部。傍らで見ていると本当によく見えるんだろうなと思う。

相談を何度か持ちかけた末、ぼくは今年からもらえたかもしれない仕事を、一度待ってもらうことを頼んで、一年ドイツに住むことを決めた。すでに2000年ももうあと一月で終わろうとしていた。

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