私の旅 日本 舞鶴ほか

■ホームに戻る
■ボクの細道に戻る
■私の旅トップに戻る 
舞鶴市 

 松尾寺駅

舞鶴市は初めて訪れた。街に入ってすぐ松尾寺に向かって走った。松尾寺からの帰り道にJRの松尾寺駅がある。珍しく木造である。
昼食を待合室で食べた。松尾寺で仏の舞を見ていた人も同じようにパンの昼ご飯であった。
駅舎はのんびりとした佇まいであり、乗るお客さんものんびりしていた。
話に夢中になり列車がホームに入ってからあわてて階段をかけて乗った。
駅舎には主のような猫がゆったりのんびりしていた。
駅舎の横に赤錆途切れた線路があり車庫に続いている。
なかなかの風情で荒廃の美を感じた。こういう景色を見ていると鉄道の面白さを感じた。往時のさんざめきが甦る。
タクシーが止まっていたが、こんな小さな駅にタクシーがと思ってみていると、松尾寺に行く人が結構利用していた。
駅舎の隣には屋根付きの自転車小屋がある。設備は整っている。
一日だけ駐めてもすぐ撤去されるどこかの駅前とは大違いである。

最近あちこち行く中で、面白い列車があると撮ってしまう。
だんだん撮り鉄乗り鉄の鉄男くんになっている感じがする。
ローカル線は味がある。 花の咲く線路を走り抜けていく。
都会の線路では少ない光景。
廃屋となった整備工場。まだ線路が残っている。
駅舎の中にはきれいなテーブルがあり落ち着いて食事が出来た。改札窓口は現在使われていない感じだが、かわいいこけしが並びほのぼのとさせる。
駅には主のような猫がいて、ゆったりのんびりしていた。
乗客が来ても逃げもせず、私がカメラを向けると片目を開けてちらっと見て、また目をつむってしまった。

この駅の周辺の垂木は皆引っかかれて色が変わっていた。仕方ない。
ちょうど電車に乗る人がいたが、学者風の方で、ゆっくりと階段を登っていった。
小津安二郎の映画の1シーンのようであった。
   

 金剛院

駅を出て舞鶴市街に行く途中寺があり面白そうだったので立ち寄った。重要文化財も結構あるもので、三重の塔は素晴らしい。楓がたくさんあり秋には紅葉がいいだろう。

頂いたパンフレットには、

「当山は、平安時代初期の天長六年(八二九)人王第五十一代平城天皇の第三皇子、高丘親王によって創建されました。親王は第五十二代嵯峨天皇の皇太子でもありましたが、世の無情を感して他門に入り、法名を眞如と称し、弘法大師の十大弟子の一人として化法の興隆につくしましたが、更に法を求めて天竺に向かい、途中消息を絶ちました。ご本尊の波切不動明王は、第七十二代白河天皇のご病気平癒祈願の為、永保二年(一〇八二)若狭の国から勧請されたもので、帝のご病気はこの不動明王の力によって忽ち平癒しました。帝は大いに満悦し、当時荒廃していた当山を復興し、三層の塔を建立して眞如親王を追善供養し、勅願寺として「慈恩寺」の寺号を下賜されました。また、第七十四代鳥羽天皇の皇后美福門院も深く仏法に帰依し、平忠盛(清盛の父)を造営奉行に命じ、久安二年(一一四六)新たに阿軒陀堂を建立し堂塔を修復するなどして、当山は本坊の金剛院の外に十二坊舎、食堂、浴室なども整備され全盛期を迎えます。この様に当山は皇室の庇護も厚く、その後の戦国動乱や天災人災にも耐え今日に至っていますが、江戸時代には歴代の田辺城主も当山を外護し、三重塔から本堂に至る山腹の租は細川幽斎の植樹で、秋には全山紅葉に映え訪れる人が跡を絶ちません。また境内地南西の鶴亀の庭も幽斎作と伝えられています。 ご本尊の波切不動尊は、弘法大師人唐渡海時の故事に因み、海難除け、重病平癒、火難、水難等総ての災難を除く仏様として、広く人々に信仰されています。」

とある。
宝物には、鎌倉時代の仏師快慶作である深沙大将と執金剛神(重要文化財)が展示されている(要予約)。他に阿弥陀如来座像、金剛力士像、多聞天立像や増長天立像などの重要文化財がおさめられているとのことであるが、時間切れで見ることが出来なかった。 ここの榧の木は、舞鶴市指定文化財であり「京都の自然2000選」にも選ばれたという。
開祖眞如親王が植樹したとの伝説のある霊木で樹高23メートルもあり日本屈指の榧の木である。1000年経ったと言われると、十分納得する大きさである。

本堂は、一部檜皮葺で、屋根は瓦であった。ここがすこし残念だが、仕方ないだろう。しかし歴史を感じさせるのには十分である。よく見ると階段のあちこちに2mmくらいの穴がたくさん開いている。小さな蜂が出入りしていた。こんな穴が、寺社仏閣の劣化を早める昆虫のすみかとは知っていたが、蜂とは知らなかった。

一通り回り終わり、寺奥の公園で休憩したが、久しぶりにスケッチをした。西国33カ所巡りをするとき、いつも時間が少なく周辺の寺社をじっくり見る機会がないが、今回はゆっくり見ることが出来た。寺の奥には公園があり、そこからいい眺めの三重塔をスケッチする余裕も出来た。
これからは、こうした時間を作りながらの旅行が多くできたらいいと思いながら、鉛筆を走らせた。
萌葱のきれいな色に凛と立つ、室町時代の塔であるが、 まだまだそんな雰囲気は描けない。
本堂へは散策道路を歩いて行くが、なかなかいい道とほどよい距離でよかった。三重の塔から階段もある。

(千年榧の木)

(三重塔)
 

 赤れんが倉庫群

ホテルにチェックインしてから夜の街に出かけた。ここ舞鶴市はレンガの街ということだけみていた。パンフレットを見るとレンガづくりの倉庫群が街のあちこちにある。そしてライトアップされている写真が載っていた。これは行かなくてはなりません。ライトアップされた倉庫群は海岸の市役所近くにある。昔は弾薬庫だったというその建物はライトアッブされきれいであった。KLEを前に置いて写真を撮りたいと思った。

明治33年から大正10年頃までに建てられた多くの赤れんが倉庫群ということである。赤れんがロードと呼ばれ、時代を感じさせる美しい風景が広がっている。魚雷庫、倉庫など旧海軍関連の施設をはじめ トンネルや橋脚などのインフラまでが、ここ 舞鶴では近代化に進みにあわせてさまざまな赤れんがによる建造物がつくられたということである。

それから100年余り経つが、 舞鶴にはたくさん残っているのである。軍港でもあり、「ハイカラ」な感じがいい。

レンガは日が経つにつれ、同じ時期に建造されたものでも微妙に色合いが違ってき、独特の雰囲気を醸し出すところがいい。

ライトアップされるとなおさらムードがある。
海岸では軍港を引き継いで、グレイの自衛隊艦船がたくさん停泊していた。


 舞鶴引揚記念館

明くる朝はホテルで食事の後、舞鶴引揚記念館に行った。
収容所での生活や引き上げ時の過酷な生活がよく分かった。
それを見ながら自分がこの状況に置かれた時、生き延びるためどうするかを考えていた。
展示品のなかで著名人の引き上げ体験がかかれていたが、つらかったのは、赤塚不二夫さんのお母さんがやっと奈良の実家に引き上げてきたその日、自分の子供におっぱいをあげながら絶命したということもパネルにあった。

このときも国からは何の助けもなかったということで、やっぱりね、という気がした。
三波春夫さんや黒柳徹子さんの父親の黒柳守綱さんも抑留されていたのである。「岸壁の母」の舞台もここである。

シベリア抑留で、実に5万人以上がなくなっている。
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられ、数多くの抑留者の命が失われたのである。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であり、1993年に来日したロシアのエリツィン大統領は、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と謝意を表明したという。館内には、満蒙開拓団の写真、当時の書類・漫画武装解除と運命の日の記録。収容所の記録では、抑留中に使用した食器類・衣類の一部・抑留中の写真や収容所での貧困な生活模様、そしてそこで使った作業道具・防寒衣類の現物や写真があった。
ジオラマやタッチパネル式の説明があった。

この過酷な状況で、サバイバルし、無事日本に帰り着いた人々の条件は何だったろうかと、考えながら見た。運もあるだろうし、体力的な条件もある。最終的には、生き抜くんだという強い意志が必要なのだろう。

それと、楽天的な、今の状況をあるがまま受け止め、悲観的にならないということも大切なことではなかろうかと、収容所で様々な遊び道具を作ったり家具を作ったりしているのを見て、思った。

引き揚げ館の建物の屋根に大きなスズメバチの巣があった。蜂そのものは駆除しているようであったが、かなり立派な巣であった。

 レンガ倉庫群

引き揚げ記念館に入館するとレンガ記念館も入ることができるということで、昨夜見に行ったレンガ倉庫群に行った。
市役所横を抜け、港を見ながらレンガ館へ向かったが、思ったよりきれいな海であった。クラゲがポッカリユラユラしていた。
レンガ棟の中にあるレストランで昼食を食べた。結構人が来ていた。私は軍隊カレーを食べた。軍隊というから、パンチの効いた味なのだろうかと楽しみだったが、割と普通であった。
そのお店のマスターはハーレー乗りで、髪を後ろで束ねていた。カウンターの後ろにはハーレーのミニチュアがたくさん並んでいた。
レンガの建物のよさは、レンガの特性で同じに積んでも各々違った色に年を重ねそれが独特の風合いを醸し出していることである。
博物館の展示は、古代から現代までのレンガと、レンガの作り方がジオラマなどでわかりやすく表現されていた。ここは舞鶴のなかでも最古級の鉄骨れんが建造物で、明治36年に建設された魚雷庫を活用しているという。鉄骨レンガ造りの建物としてたいへん貴重なものであるということで、国の重要文化財に指定されている。レンガ棟は博物館近くでも何棟かあり、その一つで針金細工の展示会をしていた。
NPOの人たちが、地域活性化施策の一つとして、針金(番線)で思い思いのものを作るというものだが、動物のものが多かった。
ペットボトルで櫓を造るということで、1.5リットルのペットボトルをたくさん積み上げていた。受付にいた人に聞くと、

「デザインは簡単にできても針金を曲げるのが大変です。指がおかしくなります」

といっていた。なるほどかなり太い番線で、イメージ通りに曲げるのはきついと思われた。レンガ棟の前にハーレーが駐めてあり雰囲気にとけ込んでいた。我がKLE400もきっといいだろう。

舞鶴市内には、この辺以外にもトンネルがあったり様々なレンガ施設がある。特に旧の線路にある、レンガ作りのトンネルを見たかったが時間がなく、断念した。
レンガに堪能したので、次の目的地の成相寺に向けて車を走らせた。

宮津市 
 栗田駅

舞鶴から宮津までの道はそれほど混んではいなかった。途中国道ではなく旧市街へ入った。
最近各道路もバイパスが多くなりその街が見えなくなっている。海岸縁の旧道を行くと、思った通りに生活があった。
日本海側特有の家並みと松林がある。そして右手にはすぐ海岸がある。
そしてここでもいい感じの駅があった。栗田駅である。

これを単純に「くりた」と読んでいたが、「クンダ」らしい。日本語は難しい。前の湾が「栗田湾」で、そのを飛び交うカモメをイメージした駅舎デザインであるという。駅前で子供たちがキャッチボールをしていたが、野球クラブの連中らし、く投げ方やボールのスピードは「お主できるな」という感じであった。その子たちが皆、声をそろえて「こんにちわ」と言ってくれた。気持ちいいね。

電車は15分ほどできそうなので、休憩をかねて到着を待った。コウノトリをデザインにあしらったかわいいで列車が来た。なかなかのものである。駅舎の壁には、割引チケットのことや沿線のイベントなどを宣伝していた。
こうした鉄道は日常的に乗客を増やすため一生懸命取り組まないといけないのがよくわかる。駅舎は無人であるが、通勤などの人の乗降が多い時間帯は係の人がやってくるようである。いずれにしろこうした鉄道がいつまでも残っていてほしいと願う。とくに電線がないので、駅舎もレールも落ち着きがある。

この駅から天橋立はまもなくである。車を走らせながら感じたことだが、和歌山の道と広さも大して違わないのにスムーズな流れで走りやすい。なぜだろうと少し注目して走ると気がついた。信号が少ないのである。
和歌山では人も車も通っていないのに、信号待ちで止められる。これは改めてほしいところである。地元の要望で信号を増設するのかもしれないが、とにかく和歌山は信号が多い。などと思いながら、黒々とした松林が続く海岸を走った。
そして天橋立の根元を抜け、目的地の成相寺に着いた。少し雲行きが怪しかったのが、また晴れてきれいな空になった。

 

■ホームに戻る
■ボクの細道に戻る
■私の旅トップに戻る