『ブルームズデイ 100』をのぞいてきました

「ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました」の最後でご紹介した、『BLOOMSDAY 100 (ブルームズデイ(1904年6月16日)100周年)』のイベントをのぞいてみようと、2004年6月12日から2週間、アイルランドとイギリスを訪問してきました。20世紀最大の小説家の一人であるジェームズ・ジョイス(1882-1941)の代表作、『ユリシーズ』には、アイルランドの首都であるダブリン市内の1904年6月16日の出来事だけが描かれています。この小説の3人の主要登場人物のうちの一人であるレオポルド・ブルームにちなんで、「ブルームズデイ(Bloom's day、BLOOMSDAY)」と名付けられたこの日からちょうど100年目に当たるため、ダブリン市内ではいろいろなイベントが開催されました。これらイベントについては、ReJoyce Dublin 2004 Bloomsday百周年記念祭のオフィシャル・ウェブサイト(http://www.rejoycedublin2004.com/Japanese/default.asp)に詳しく紹介されています。このサイトによれば、104のイベントが開催されたようですが、私が訪問した二つのイベントと、この機会に訪問した『ユリシーズ』などのジョイスの作品で描かれた場所のことをご紹介します。

最初にお断りしておきますが、私は『ユリシーズ』はまだ読み終わっていません。30年以上前の学生時代に挑戦して、全18挿話のうち、15番目のキルケーのほとんどを読み終わったところで、先に進まなくなり、時間ができたら読もうと思っているうちに、30年以上経ってしまいました。ジョイスの作品で私が読んだのは、『ダブリンの市民』(Dubliners, 日本語と英語で)、『若い芸術家の肖像』(A Portrait of the Artist as a Young Man, 日本語のみ、昔私の読んだ翻訳書のタイトルは「若き日の芸術家の肖像」でした)、『ユリシーズ』(Ulysses, 英語でペンギン版の最初の150ページ、日本語では15挿話の途中までで、分量としては全体の4分の3位になります)だけです。今回の旅行の前に、『ユリシーズ』の読んでいない部分を読んでしまおうとしたのですが、時間がかかりすぎて読み終わりませんでした。そのため私の『ユリシーズ』についての知識は断片的で、全体像の把握にはほど遠い状態です。これからご紹介する情報の大半は最近読んだ『ユリシーズ』やジョイスについての本や資料からの引用となっています。

ある米国人の友人は、ユリシーズは非常に難解で、モンスター(化け物)だと言っていました。英語で読んでも難しいうえ、日本語で読む場合には、大量の注釈を読まなければ意味が通じない部分がかなりあるため、非常に時間がかかります。そんな事情のために、『ユリシーズ』は一生をかけて読めればいいという気になりました。私が昔読んだのは、河出書房新社から出版された丸谷才一氏などによる翻訳ですが、現在では、同じ翻訳者による翻訳に多数の解説や付録が追加された文庫版(4冊構成)が集英社から出ています。以下の引用は、特に断らない限り、この文庫版からとなっています。

ダブリン市内地図(赤字部分をクリックすると、関連記事または写真にジャンプします)


(集英社文庫ヘリテージシリーズ、『ユリシーズIV』の巻末の地図をコピーさせていただきました)

市内地図 郊外地図 計画表 最初に

(1) デニー・ブルームズデイ・100周年記念ブレックファスト(Denny Bloomsday Centenary Breakfast)

訪問できた二つのイベントのうちの一つは、6月13日(日)に開かれた、「デニー・ブルームズデイ・100周年ブレックファスト」です。デニー(Denny)というのは、アイルランドの大手食品メーカー、Kerry社のソーセージなどの肉製品のブランドです。Kerry社は、9時、10時、11時と3回に分けて、なんと1万人に朝食を無料でサービスすることにしたそうです。私もネットで申し込んだのですが、肝心の引換券の受取日がダブリン到着の前日だったため、この朝食にはありつけませんでした。そこで、ホテルで朝食を取ったあとで、会場をのぞいてみました。会場はオコンネル通りの中央郵便局前(上の地図の赤いマークの場所)でした。

左の写真は"The Irish Times"(6月14日付、http://www.ireland.com/ )に載っていたイベントの写真です。右の子供は、ブルームズデイ当時(Edwardian、エドワード7世風)の服装で参加した兄弟だそうです。

この記事によれば、朝食のメインは、ベーコン、ソーセージ、ハッシュ・ブラウン(小さく、さいの目切りにしてカリッと揚げたジャガイモ)をはさんだ、ロールパン。ソーセージとしては、white pudding (淡色のソーセージ;特に豚の脂身とオートミール,タマネギ,調味料などで作ったもの)とblack pudding(牛の血を固めて作ったソーセージ)の2種類が使われたそうです。

ソーセージにこだわったのは、ブルームが内臓料理が好物だったという設定になっているためのようです。ブルームが最初に登場する第4挿話の冒頭の部分をご紹介します。

『ミスター・レオポルド・ブルームは好んで獣や鳥の内臓を食べる。好物はこってりとしたもつのスープ、こくのある砂嚢(すなぶくろ)、詰めものをして焼いた心臓、パン粉をまぶしていためた薄切りの肝臓、生鱈子(なまたらこ)のソテー。なかでも大好物は羊の肝臓のグリルで、ほのかな尿の匂いが彼の味覚を微妙に刺激してくれる。』

上の写真の正面の建物が中央郵便局で、1916年には、イギリスの植民地支配に対抗して、自治を要求する人々が起こしたイースター蜂起という武力蜂起の拠点となりました。
朝食を受け取る人々の行列ですが、中にはやはり、当時の服装で参加した人もいました。
朝食にありつけた1万人に、私のような(あわよくばただめしにありつこうという下心を持った)見物人を加えると全部で5万人程度の市民や観光客がこのイベントに参加したと、主催者は発表しているそうです。日本人の方もけっこう見かけました。左の写真は、会場に現れたジェームズ・ジョイスのそっくりさんです。新聞によれば、この方は、Crumlinからいらした Dermot Lynskey さんだそうです。
食事だけでなく、いろいろなエンタテインメントが提供されていました。
何かのパフォーマンスで、一気飲みを求められた参加者。
なぜかゴリラ(の着ぐるみ)も登場しました。
これは会場近くに立っているDublin Spire(尖塔)を別の日に撮った写真です。尖塔が立っている場所には、かつて、英国のネルソン提督の銅像が上に乗った「ネルソン塔」(ロンドンのトラファルガー広場に現在もあるもののコピー、この写真の下8枚目の白黒写真に写っています)があり、ユリシーズにも、この塔の話が何度も出てきます。ただ、その銅像は1966年3月に爆破されました。犯人は捕まっていませんが、I.R.A.(アイルランド共和主義軍)の犯行といわれているそうです。2003年1月に立てられたこの尖塔は、ステンレス製で高さは120m、太さは地面に接する部分では3mですが、先細りになっていて、先端では15cmだそうです。内部は空洞ですが、入ることはできません。ダブリン中心街では、最も高い建造物です。詳しくは、architectural dublin をご覧ください。建設中の写真も載っています。

この塔のスマートなところは、近くからみると非常に印象的ですが、細いステンレス製のアンテナ状で、空の色にとけ込みやすいためか、遠くからみると見えなくなる点です。そのため、高い建物のない町全体の落ち着いた雰囲気に違和感なくとけ込んでいるようです。

左前方が中央郵便局で、右手はジェームズ・ジョイスの銅像です。
会場となった、オコンネル通りは南北500m位の通りで、南端はリフィー川にかかる、オコンネル橋となっていて、橋のすぐ北側にオコンネルの銅像(左の写真)が立っています。

オコンネル(Daniel O'Connell、1775-1847)は、カトリック教徒の解放と政治改革のために、支配者だったイギリスと戦った、民族主義者で政治的指導者です。『ジェイムズ・ジョイス事典』〔A.N.ファーグノリ、M.P.ギレスピー著、松柏社刊〕のオコンネルの項によれば、ジョイスは、オコンネルの遠い親戚に当たると言われていたため、オコンネルに特別の興味を持っていたようです。

オコンネルが1843年8月に、タラの丘で演説した際には、75万人もの聴衆が集まったことは、「風景写真アルバム」の「タラの丘とニューグレンジ」でも触れました。
オコンネル通りの北の端には、もう一人のアイルランド自治運動の指導者で、ジョイス(1882-1941)と同時代に生きていたパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-1891)の記念碑が立っています。

パーネルはアイルランド国民党党首として、イギリス議会内でアイルランド自治推進のために目覚ましい働きをしましたが、党員の妻との不倫スキャンダルで、国民の支持を失って失脚し、その後、その婦人と結婚したものの、結婚数カ月後の1891年10月6日にこの世を去ったそうです。

『ジェイムズ・ジョイス事典』(370ページ)によれば、『ジョイスの父親であるジョン・ジョイスは、パーネルの熱狂的な支持者であり、また、党を支援することで恩恵を受けていたので、パーネルやアイルランド国民の彼に対する裏切りに関する言及はジョイスの作品の随所にみることができる。ジョイスの処女作は、9歳の時に書いた「ヒーリー、おまえもか」であるが、彼はこの中でアイルランド自治派の支持者によるパーネルへの背信を糾弾している。ジョイスの父がこの詩を印刷させたと言われているが、現存はしていない』そうです。ヒーリーとは、かつてはパーネルを支持していたものの、スキャンダル後、批判勢力に加わったティモシー・マイケル・ヒーリー(Timothy M. Healy、1855-1931)のことだそうです。
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(2) ギネス・ブルームズデイ・ブレックファスト(Guinness Bloomsday Breakfast)

ギネス・ブルームズデイ・ブレックファストの方は、6月16日の8時30分から12時まで、やはりブルーム好みの朝食とギネス・ビールを12ユーロで提供するというものでした。ただし、こちらも事前の予約が必要でした。私は、このイベントのことは見逃していて、当日ジェームズ・ジョイスセンター(The James Joyce Centre, 35 North Great George's Street) 前でなにかやっているだろうと思って通りかかったため、野次馬に加わることができたというわけです。このイベントでは、ジェームズ・ジョイスセンター内で、ユリシーズが朗読され、センター前の特設スクリーンで、屋外の人も見られるようになっていました。ただし、センター内に入れたのは招待者だけだったようです。そのほか、センター前の路上で、歌、音楽、朗読などのパフォーマンスがあり、多数の報道陣が取材に来ていました。

イベントに集まった人々です。ジェームズ・ジョイスセンターは中央のバスのような車のすぐ右手の建物です。翌日のThe Irish Timesによれば、世界中から、1,800人くらいの人が集まったそうで、私同様、ユリシーズを読み終わっていないのに、参加した人もいたことが分かりました。
ジョイスに関係がある歌が歌われれていたようでした。
3人の主要登場人物のうちの一人である、ブルームの妻、モリー(Molly Bloom)をイメージさせる、ベッドの扮装をした女性。
本の扮装をした若い男性と、二人の俳優の方。右側の方は、「ジャック・ブレルについてのトークショーが開催されました」最後の写真にも写っていますが、かみさんが直接お聞きしたところ、ブルーム役ではなく、「市民」(恐らく、第12挿話に出てきて、民族主義的考えを持ち、ブルームを攻撃する「市民」という登場人物)の役を演じているとのことでした。

この通り(North Great George's Street)を取り囲む建物は、100年前の外観が保存されているようです。また、この通りの北側の突き当たりには、ジョイスが1893年から1898年まで(11歳から16歳まで)通っていたベルベディア・カレッジ(Belvedere College、写真中央の建物)があります。
このバスのような車は、昔ダブリン市内を走っていた路面電車を再現したもののようです。

『「ユリシーズ」の謎を歩く』(結城英雄著、集英社刊)によれば、1904年のダブリンの自動車の保有台数は58台だけで、交通は馬と電車が中心だったそうです(237ページ)。

「・・・同年度の辻馬車と二輪馬車はそれぞれ656台と1,030台で、年々減少はしているものの、それでも昔ながらの「馬の街」であったらしい。そのため馬糞が路上に散乱していたようだ。

一方、電車はダブリンがヨーロッパで唯一誇れるものであった。1872年に軌道の上を馬が引っ張る乗合馬車が登場し、その後1896年3月16日に二階建ての電車が導入され、1901年1月13日には完全に乗合馬車が二階建て(一部一階建て)の電車に切り替わっている」

電車と言えば、第11挿話(セイレン)の最後には、ブルームが電車の騒音にまぎれさせて、おならをするなどという有名な場面もあります。

これはオコンネル通りの北の端(現在、パーネル記念碑が建っている辺り)から、中央郵便局方向を撮った当時の写真です("Faithful Departed, The Dublin of James Joyce's Ulysses", The Lilliput Press からコピーさせていただきました)。

電車の行き先表示には、フェニックス・パーク(Poenix Park、リフィ川の北側で、上の地図には載っていませんが、この地図で示されている地域の左側に隣接しています)と書いてあります。中央の塔は、ネルソン塔で現在では、この場所にDublin Spireが立っています。画面右端の建物は、中央郵便局です。

電車とネルソン塔の間に見える、小さな小屋は、『御者溜まり(ぎょしゃだまり、cabman's shelter)』と呼ばれる、馬車の御者などが、簡単な食事を取ることができる喫茶店のような店で、当時は市内各所にあったようです。『ユリシーズ』でも、第16挿話の「エウマイオス」で、バット橋のたもとにあった御者溜まりが登場します。

上で触れた、North Great George's Street の突き当たりにある、ベルベディア・カレッジの正面にも、ジョイスの写真と花が飾ってありました。右側の写真の下には、ジョイスの経歴が書いてありましたので。下にコピーしました。

この写真を撮っていると、白バイに先導された、黒い乗用車がジェームズ・ジョイスセンターの方に曲がっていくのが、ガラスに反射して、ファインダー越しに見えました(左側に白バイが写っています)。近くのお巡りさんにお聞きすると、乗っていたのは、パーティーに参加するために到着した、メアリー・マッカリース(Mary Patricia McAleese)大統領(女性)だということが分かりました。どうも、これは国を挙げての行事だったようです。
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(3) 『ユリシーズ』の構造

ホメロスの作と言われる古代ギリシャの長編叙事詩『オデッセイア〔Odysseia、英語では、車の商標にもなっているオデッセイ(Odyssey)〕』の主人公の名前オデッセウスの英語読みが「ユリシーズ」です。紀元前1200年ごろ、ギリシャの連合軍がトロイア城を攻めて勝利したトロイア戦争から凱旋する途中の、オデッセウスの10年間にわたる冒険と、不在中、妃ペネロペイア(第18挿話)に求愛した男たちに対する報復の物語だそうです。オデッセウスは、ギリシャの西岸にあるイタケ(第17挿話)という小島の王で、ギリシャ諸王の中で、最も才知にすぐれ、かつ武技にも達した人物として、参謀長のような立場でこの戦争を勝利に導いたとされているそうです。ジョイスの『ユリシーズ』は、『オデッセイア』の一種のパロディーであり、オデッセウスがブルームに、妃ペネロペイアがブルームの妻モリー・ブルームに、息子のテレマコス(第1挿話)がスティーヴン・ディーダラスに対応します。

ジョイスは、「ユリシーズ」を創作するときには「計画表」というものを作ったそうです。現在入手可能な計画表には二つあり、そのうち「ゴーマン=ギルバート計画表」の方を、文庫版のIV、596-7ページからコピーさせていただきました。各挿話には、「オデッセイア」から借用した表題が付けられていて、さらにその表題に関係する、場所、器官、学芸、色彩、象徴などの特徴が定められています。文庫版では各挿話にこれらの表題が付けられていますが、原文は3部構成(1-3、4-15、16-18)で、挿話に表題は付いていません。

挿話 表題 場面 時刻 器官 学芸 色彩 象徴 技術 対応
1 テレマコス 午前8時 - 神学 白、黄金 相続人 語り(若者の) スティーヴン=テレマコス、ハムレット。バック・マリガン=アンティノオス。ミルク売りの女=メントル。
2 ネストル 学校 午前10時 - 歴史 褐色 教義問答(個人的) ディージー=ネストル。サヘジャント=ペイシストラトス。オシー婦人=ヘレン
3 プロテウス 海岸 午前11時 - 言語学 潮流 独白(男の) プロテウス=根源質料。ケヴィン・イーガン=メネラオス。ザル貝採り=メガペンテス。
4 カリュプソ 午前8時 腎臓 経済学 オレンジ ニンフ 語り(中年者の) カリュプソ=ニンフ。ドルゴッシュ=想起。シオン=イタケ。
5 食蓮人たち 浴場 午前10時 生殖器 植物学、化学 - 聖体 ナルシシズム 食蓮人たち=馬車馬、聖体拝領者、軍人、宦官、入浴する人、クリケットの観戦者。
6 ハデス 墓地 午前11時 心臓 宗教 白、黒 管理人 インキュビズム ドダー川、グランド運河、ロイヤル運河、リフィ川=冥界の四つの川。カニンガム=シシュポス。コフィ神父=ケルペロス。管理人=ハデス。ダニエル・オコンネル=ヘラクレス。ディグナム=エルペノル。パーネル=アガメムノン。メントル=アイアス。
7 アイオロス 新聞社 正午12時 肺臓 修辞学 編集長 省略三段論法 クローフォード=アイオロス。近親相姦=ジャーナリズム。浮き島=新聞界。
8 ライストリュゴネス族 昼食 午後1時 食道 建築 - 巡査たち 蠕動 アンティパテス=飢え。囮(おとり)=食物。ライストリュゴネス族=歯。
9 スキュレとカリュプディス 図書館 午後2時 文学 - ストラトフォード、ロンドン 弁証法 岩=アリストテレス、教養、ストラトフォード。渦=プラトン、神秘主義、ロンドン。ユリシーズ=ソクラテス、イエス、シェイクスピア。
10 さまよう岩々 市街 午後3時 血液 機械学 - 市民 迷路 ボスフォラス海峡=リフィ川。ヨーロッパ側の岩=総督。アジア側の岩=コンミー神父。シュンブレガデス=市民の集団。
11 セイレン 演奏室 午後4時 音楽 - バーの女給 カノン形式によるフーガ セイレン=女給。島=酒場。
12 キュクロプス 酒場 午後5時 筋肉 政治 - フィニア会 巨大化 誰でもない人=おれ。棍棒=葉巻。挑戦=神格化。
13 ナウシカア 岩場 午後8時 目、鼻 絵画 灰、青 処女 勃起、弛緩 パイアキア=海の星教会。ガーティ=ナウシカア。
14 太陽神の牛 病院 午後10時 子宮 医術 胎生的発展 病院=トリナクリア島。看護婦=ランペティエ、ファエトゥサ。ホーン=ヘリオス。牛=豊穣。罪=欺瞞。
15 キルケ 娼家 真夜中12時 運動器官 魔術 - 娼婦 幻覚 キルケ=ベラ。
16 エウマイオス 御者溜まり 午前1時 神経 航海術 - 船員 語り(老人の) 山羊皮=エウマイオス。船乗り=偽りのユリシーズ。コーリー=メランテウス。
17 イタケ 午前2時 骨格 科学 - 彗星 教義問答(非個人的) エウリュマコス=ボイラン。求婚者たち=ためらい。弓=理性。
18 ペネロペイア ベッド - - - 大地 独白(女の) ペネロペイア=大地。織物=運動。

ジョイスがこの小説を『オデッセイア』のパロディー仕立てにしたのには、(a)短編の寄せ集めにしないためと、(b)『オデッセイア』を高く評価していたためという二つの理由があったようです。

「ユリシーズ」では、第9挿話までは「初期の文体」と呼ばれていて、普通の小説に近い文体になっていますが、第10挿話よりあとの挿話では、「新しい文体」と呼ばれるさまざまな文体が採用されています。例えば上の表の「技術」という列に書かれているように、「迷路」(市内19カ所の市民の情景が脈絡もなく羅列されている、第10挿話)、「カノン形式によるフーガ」(バロック音楽の様式を取り入れて、同じまたは似た言葉の繰り返しが多用されているなど、第11挿話)、「教義問答」(カトリック教会が宗教的知識を若い信者に教え込むために利用したQ&A形式、第17挿話)、「独白(女の)」(句読点がない、第18挿話)など、挿話ごとにさまざまな文体が使われています。また、登場人物が非常に多いのも特徴的です。文庫版Iの「『ユリシーズ』人物案内」(655-683ページ)には、ブルームの蔵書のなかに選集がある哲学者のスピノザのような登場人物以外の人物の名前や、同一人物の別の呼び方も含まれていますが、全部で実に175人の登場人物が挙げられています。そのため、全体を結びつける枠組みのようなものがなければ、短編集のようなものになった恐れがあったのではないかと思います。

ジョイスはスイスでユリシーズを執筆しているときに、友人のバッジェンにつぎのようなことを、ユーモアを含めて、言ったそうです。

「ゲーテも、シェイクスピアも、ダンテも、バルザックも、ホメロスの描いたユリシーズのような多面的な性格の人間を描いたことはない。ユリシーズは、トロイア戦争が起こったとき、新家庭の妻と子を棄てて戦争に参加することを嫌い、狂人のふりをした。すなわち彼は平和主義者だった。しかし、にせ狂人であることを見破られて戦争に参加すると、彼は徹底した好戦主義者になり、戦況不利になった時も、全軍を激励して戦闘継続を主張し、巨大な木馬を作り、他の勇敢な兵を率いてその中にひそんでトロイア城内に入り込み、内側から火をかけてこの城を落とした。・・・彼はギリシャ全軍の第一人者として皆に認められた。・・・その上、・・・彼は恋愛の遍歴者でもあった。しかも彼はその間じゅう妻のペネロペイアと息子のテレマコスに再会することを念じていたゆえに、夫として父としての立場をも持っていた。・・・このような多面的な人間を描いたものは、ホメロス以後に一人も現れていない。」(20世紀英米文学案内 9、『ジョイス』、伊藤整編、研究社刊、94-95ページ、都合で一部訂正させていただきました)

この話からジョイスが『オデッセイア』を非常に高く評価していることが分かります。ジョイスは、オデッセウスの多面的な(All-round characterを持った)性格を、現代人であるブルームに持たせたかったようです。

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(4) 第11挿話「セイレン」での『オデッセイア』と「ユリシーズ」の対応

ただ、『オデッセイア』と「ユリシーズ」の対応はかなり手の込んだもので、教えてもらわれなければ分からない部分も多いようです。例えば、上でもご紹介した『「ユリシーズ」のなぞを歩く』(252-3ページ)によれば、第11挿話の「セイレン」に対応する、『オデッセイア』の部分では、美声で歌う魔女のいる島の近くを通るときに、美しい歌に魅せられた船乗りは難破して死ぬという話を別の魔女キルケ(第15挿話)から聞いたオデッセウスは、部下たちの耳には蜜蝋(みつろう:ミツバチの巣を加熱・圧搾して採取したろう)で栓をし、自分は帆柱に手足を縛りつけて動けないようにすれば、彼女たちの歌を楽しみ、かつ無事その場所を通り抜けることができるというキルケのアドバイスに従って、無事に難所を通過できました。

これに対して、ジョイスの『ユリシーズ』の第11挿話「セイレン」は、リフィー川に面したオーモンド・ホテルの酒場が舞台になっていて、音楽や音(上でも触れましたが、この挿話はブルームのおならの音で終わっています)に関わる記述が多数あるだけでなく、当時流行していたいろいろな歌曲の内容が、物語に盛り込まれています。

『「ユリシーズ」の謎を歩く』によれば、「ダブリンは音楽の街で、老若男女がオペラや演奏会のことを話題にし、各家庭にはトマス・ムーアの『アイルランド歌曲集』が常備されていた。家庭では演奏や歌に耳を傾け、ケーキやお茶を楽しんだことであろう。1901年の統計によると、ダブリンには実に402人(女性233人、男性169人)もの音楽教師がいて、個人的な音楽の手ほどきをしていた。・・・・18世紀には、ヘンデルの『メサイア』の初演(1742年)が行われたのをはじめ、外国の音楽家たちがダブリンで公演した・・・」。さらに、ジョイス自身も、1904年5月16日にアイルランドの伝統音楽を推進するコンクール「音楽祭」に歌手として参加して、銅メダルを獲得し、その縁で同年8月27日には有名な音楽家と競演して、エインシェント音楽堂で「クロッピー・ボーイ」という歌を歌ったそうです(261-2ページ)。

「クロッピー・ボーイ」という歌は、「丸刈り組み(クロッピー)」と呼ばれるカトリック教徒の農民の一団による、イギリス軍の圧政に対する、1798年の広範な蜂起の際に、この蜂起に参加する前に罪の懺悔(ざんげ:キリスト教で、罪悪を自覚し、これを司祭などに告白し、悔い改めること)をしようと教会を訪れた少年が、すでに教会を占拠して司祭になりすましていた義勇農騎兵隊の隊長その他のイギリス軍の兵士につかまり、処刑されるという話を歌ったものです。

第11挿話では、「クロッピー・ボーイ」は、事務弁護士でバス歌手でもあるベンジャミン・ドラード(愛称ベン)によって歌われます。その部分を文庫版の262-3ページとペンギン版(Penguin Modern Classics)から引用させていただきます。本文では、曲の内容の部分なのか、ブルームの黙想の部分なのかの判断が、読者にゆだねられているため、分かりにくい面がありますので、左側にその区別を示しました。カギ括弧内は、引用者追記です。

曲の内容  すべては逝った。すべては倒れた。〔イギリス軍の防衛拠点があった〕ロスの包囲で父親が、〔ロスの包囲戦で敗退した丸刈り組が次に結集した〕ゴリーの戦いで兄たちがみな倒れ。〔丸刈り組の本拠地である〕ウェックスフォードへ、おれたちゃウェックスフォードの若者だい、行かねばならぬ。名前を継ぐ一族最後の者。   All gone. All fallen. At the siege of Ross his father, at Gorey all his brothers fell. To Wexford, we are the boys of Wexford, he would. Last of his name and race.
ブルームの黙想  おれも、一族最後の者。〔ブルームとモリーの15歳の娘で、現在はアイルランド中部のマリンガーで写真屋の見習いをしていて、最近若い学生とつきあい始めたことが、今朝届いた手紙に書いてあった〕ミリーと若い学生。うん、たぶんおれが悪いんだろう。息子がない。〔ブルームとモリーの間に生まれたが11日間しか生きられなかった息子〕ルーディ。今ではもう遅すぎる。それとも、もし遅すぎないなら? ないなら? ないなら? 
 彼には憎しみの念はなかった。 
 憎しみ。愛。そんなものは名前にすぎないんだ、ルーディ。おれも、すぐに年をとるよ。
  I too, last my race. Milly young student. Well, my fault perhaps. No son. Rudy. Too late now. Oh if not? If not? If still?
  He bore no hate.
  Hate. Love. Those are names. Rudy. Soon I am old.

この最後の行の「苦痛に満ちた叫び」(ペンギン評伝双書『ジェイムズ・ジョイス』、エドナ・オブライエン著、井川ちとせ訳、岩波書店、128ページ、この部分だけは、この本の訳を採用させていただきました)は、はるか昔に途中まで読んだことがあるだけの読者からみると、『ユリシーズ』で唯一の劇的な場面ではないかという気がしました。

第11挿話と、『オデッセイア』のもう一つの対応は、ブルームが音楽を聴きながら、ゴムバンドをもてあそんでいる場面です。

(文庫版II、235ページ)「ブルームはゆっくりと彼の包みのゴムバンドをゆるめた。・・・・ブルームは四本のフォークの形をした指にゴムバンドをからませ、それを伸ばし、たるませ、そしてそれを彼の不安な指たちに、二重(ダブル)に四重に八重(オクターブ)に巻いてきつく責めつけた」

(同236ページ)「ブルームは環を作り、環をほどき、結び目を作り、結び目を解いた」

(同243ページ)「ブルームは彼の組み合わせている両手をといて、ゆるめた指で細い弦の紐を鳴らした。彼は引っ張りそして鳴らした。それはぶむぶむと鳴り、ぴんぴんと鳴った」

(同244ページ)「だがあまり幸福すぎるのもうんざり。彼はどんどん、どんどん引っ張った。あなたは家庭ではしあわせじゃないのかしら?びーん。それはぱちんと切れた。

(同245ページ)「---ええ、とミスタ・ブルームは巻きついた細い弦をいじりながら言った」

この部分について、"Introducing Joyce" by Davaid Norris and Carl Flint, Icon Books UK の133ページにはつぎのように書かれています。

「ブルームは、午後4時にオーモンド・ホテルで、〔スティーヴン・ディーダラスの父〕サイモン・ディーダラスがすばらしいテナーで歌う、オペラ『マルタ』の中のアリア『夢のように』を聞いている。〔妻であり、歌手でもある〕モリーの愛人のブレイゼズ・ボイラン〔広告業者兼興行師で、モリーの演奏会を企画し、その相談にかこつけて午後4時にブルーム家を訪問することになっていた〕が、不倫関係を結ぶことになるかもしれない、モリーとの午後のランデブーのために、オーモンド・ホテルを出ようとしていることをブルームは気が付いている。ブルームは、アリアを聴いている間に、二人のランデブーのじゃまをする最後のタイミングをのがしてしまう・・・指にゴム・バンドを巻いたり外したりしながら、ブルームは、叙事詩の中でオデッセウスがしたように、常識の現実(commonsense reality)に自らを縛り付けている。」

つまり、帆柱に自らを縛り付けたが、実際に美しい歌を聴くと、部下に綱を解いてくれと叫んだ、オデッセウスの葛藤を、指にゴムバンドを巻き付けたり、外したりするブルームの動作に表れたフラストレーション状態によってパロディー化したようです。

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(5)オーモンド・ホテル

第11挿話の舞台となっているオーモンド・ホテルは、驚くべきことに現在もオーモンド・キー・ホテル(The Ormond Quay Hotel, 7-11 Upper Ormond Quay, Dublin, +353-1-872-1811, e-mail:ormondqh@indigo.ie)として営業しています。ブルームズデイの4カ月前の2月に電話で問い合わせたところ、すでにブルームズデイ前後の週は満員ということでしたが、何度か電話すると、マネージャーのJane Kellyさんが、裏側で工事中のため見晴らしはよくありませんが、設備は立派な部屋を用意してくださったため、2泊することができました。

ライトアップされた右手の白い建物がホテルです。左手の丸い屋根が見える建物は、四法院(Four Courts、現在ではアイルランド最高法廷が入っていますが、1786年に設立されたときは、Exchequer=財務裁判所、Common Pleas=民事訴訟裁判所、King's Bench=王座裁判所、Chancery=大法官裁判所の四部門から構成されていた)で、アイルランド内戦(1922-23)の際には反政府軍が拠点としたそうです。日本の裁判所と違って、中に自由に入れるようでした。
Ormond Quay Hotelの入り口の隣には、第11挿話(セイレン)の舞台になったバーがあり、現在では、挿話の名前にちなんで、Sirens Barと呼ばれています。
このバーは、パブのような感じで、食事もできました。ホテルの方のお話では、昔はホテルのバーは、建物の東端寄りの現在とは違う場所にあったそうです。また、ユリシーズを読むと、音楽を演奏できるスペースがあり、2階まで、吹き抜けになっていて、2階にも席があるようですが、現在は1階部分しかありませんでした。
ホテルの外壁には、ユリシーズの舞台になったことを示す、プレートが掲げられていました。
ホテル前の歩道ですが、ちょうど欧州議会選挙運動中だったため、選挙ポスターが貼られていました。驚きだったのは、この候補者が所属している政党が、イギリスからはテロ組織と見なされている可能性のある、I.R.A.(アイルランド共和主義軍) と密接なつながりがあるとみられているシン・フェイン党であったことです。
これは、オーモンド・ホテルからリフィー川にかかるGrattan Bridgeを渡って、筋向かいにある、クラレンス・ホテル(Clarence Hotel)を裏側から撮ったものです。第11挿話で、ブルームが食事をする場所として思いついたホテルの一つとして言及されています(文庫版II、200ページ)。『地球の歩き方、アイルランド04-05'』(ダイヤモンド社刊)によれば、このホテルは現在では、アイルランドの世界的な人気ロック・グループ「U2」のボノとエッジが経営しているそうです。
これこまでが2005年2月27日に掲載した部分で、これ以下は2005年4月2日に追加したものです。

市内地図 郊外地図 計画表 最初に

(6)マーテロ塔(ジェームズ・ジョイス・タワー)

「ユリシーズ」の最初の挿話である、「テレマコス」の舞台は左の写真の「マーテロ塔」と呼ばれている砲台の屋上です。この小説の冒頭の部分を文庫版『ユリシーズ I 』(15ページ)から引用させていただきます。

 「重々しく、肉づきのいいバック・マリガンがシャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現れた。十字に重ねた鏡と剃刀(カミソリ)が上にのっかっている。はだけたままの黄色いガウンがおだやかな朝の風に乗って、ふわりと後ろへなびいた。彼はボウルを高くあげて唱えた。
───《ワレ神の祭壇ニ行カン》。
 彼は立ち止まり、暗い螺旋階段をのぞきこんで、荒っぽくわめき立てた。
───あがって来い、キンチ! あがって来いったら、このべらぼうなイエズス会士めが!
 彼はいかめしげに歩み出て円形の砲座に上がった。くるりと向き直り、三度、塔とまわりの土地と、目覚めかけた山々をおごそかに祝福した。それからスティーヴン・ディーダラスを目にして、彼のほうに身を乗り出し、喉をごろごろ鳴らし頭を振り、たてつづけに空に十字を切った。不機嫌そうで眠そうなスティーヴン・ディーダラスは階段の手すりに両腕をもたせて、祝福を与えてくれる首振りのごろごろ喉の馬づらや、白樫のような色の木目の通った、明るい剃髪(ていはつ)していない髪を冷たい目で見た。」

訳注によれば、この場面でバック・マリガンは、カトリックのミサ聖祭を茶化しているそうです。「泡立つボウル」はミサのときにワインを入れる銀の聖杯になぞらえられ、《ワレ神の祭壇ニ行カン》はミサ聖祭の初めに唱える祈りで、「明るい剃髪していない髪」という部分は、カトリックの聖職者は、昔は頭のてっぺんを剃る(剃髪する)ことになっていたにもかかわらず、バック・マリガンは剃髪していないことにわざわざ触れたようです。また、キンチはマリガンがスティーヴン・ディーダラスに付けたあだ名だそうです。イエズス会はカトリック教会の布教団体、日本では、上智大学などを運営しています。砲座というのは、大砲を水平方向に回転できるように、設置された円形のレールのことですが、実際現在でも、レールが残っていました。

第1挿話の表題となっている「テレマコス」、つまりオデッセウスの息子に対応するのが、「ユリシーズ」の主要な3人の登場人物のうちの1人である、スティーヴン・ディーダラスです。この名前は、ジョイスが文学の道を極めるためにパリに旅立つまでを描いた自伝的小説で、ジョイスの代表作の一つである、『若い芸術家の肖像』の主人公の名前でもあることもあって、若いころのジョイス自身がモデルになっていると考えられています。

バック・マリガンのモデルになっているのは、ジョイスの友人であった、ゴガティ(Oliver St. John Gogarty、1878-1957、後に外科医、詩人、劇作家、小説家、随筆家、上院議員となった)です。上の引用部分からだけでも、二人の間のぎくしゃくした関係を察することができますが、実際、二人の対立関係は、ジョイスが1941年に、一足先に亡くなるまで続いたようです。

『ジェイムス・ジョイス事典』(310ページ)によれば、この砲台は、1803年から1806年にかけてイギリス軍がアイルランド海岸の要所に作らせた74の砲台の一つで、マーテロ塔(Martello Tower)という名称は、1794年に最初にこの種の塔が建てられたコルシカ島のケープ・マーテロに由来するそうです。現在では、この建物は『ジェームズ・ジョイス・タワー』とも呼ばれ、内部にジョイスの手書き原稿などが展示された記念館となっていて、「ギネス・ブルームズデイ・ブレックファスト」が開催された「ジェームズ・ジョイス・センター」とともに、ジョイスファン必見の場所です。

「ユリシーズ」の挿話の中で、「テレマコス」はストーリーのかなりの部分が実話に基づいているという特徴があるようです。ゴガティは実際にマーテロ塔を借りて住んでいましたし、ジョイスも1904年8月に、ゴガティに招かれて、約1週間滞在しました。ところが、6日目に、同宿していたゴガティのイギリス人の友人、トレンチ(Samuel Chenevix Trench)が黒ヒョウの悪夢を見て、叫び声を上げたうえ、銃を取り出し、暖炉に向かって銃を発射したあとに、何事もなかったように眠りに落ちると、ゴガティは「あいつのことはおれにまかせておけ!」と叫びながら、ジョイスの枕越しの棚にあった料理鍋を銃で撃ち落とすという事件が起こりました。この事件のため、ジョイスは塔を出て、二度と戻ることはなかったそうです(ジェームズ・ジョイス・タワーの日本語パンフレットから引用させていただきました)。この実話は、この挿話(文庫版では18-19ページ)にかなり忠実に再現されています。

ダブリン郊外地図(枠で囲んだ部分のうち、ダブリン空港以外の部分をクリックすると、関連記事または写真にジャンプします)
マーテロ塔は、市の中心部にあるコノリー(Connolly)駅から、アイルランド国鉄(Irish Rail、またはアイルランド語で、Iarnród Éireann )のDART(Dublin Area Rapid Transit)というダブリン近郊を走ってい電車で30分ほどのところにあるサンディコーブ(Sandycove & Glasthule)駅で下車して徒歩15分ほどのところにあります。この鉄道路線は100年前にはすでに営業していたようで、「ユリシーズ」でも出てきます(左の地図は『「ユリシーズ」の謎を歩く』の18ページの地図に加筆してコピーさせていただきました)。

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マーテロ塔の下には海水浴のできる小さな入り江がありました。
マーテロ塔の屋上からの眺めです。遠くに島のように見えるのはホース岬です。足元に砲座が写っています。下の写真は塔の上から、海岸側を見たものです。上の写真の海水浴場も写っています。また、この地域はダブリン有数の高級住宅街のようです。
サンディコーブ駅を走るDARTです。

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(7)サンディマウント海岸
サンデイコーブに向かうDARTの路線の途中にあるサンデイマウントという駅の近くの「サンデイマウント海岸」です。中央右手の建物は、別のマーテロ塔です

「ユリシーズ」では、第3挿話「プロテウス」で午前10時40分ころから、スティーヴン・ディーダラスが歩きながら瞑想し、最も扇情的な挿話と言われている第13挿話「ナウシカア」では、午後8時ころに、中流下層の家庭の娘、ガーティ・マクダウエル(Gerty MacDowell)が花火を見上げるような姿勢で、下着をちらつかせているのを見ながらブルームが自慰をしたのがサンディマウント海岸ということになっています。

サンデイマウント海岸から北の方を写したのが下の写真です。右手に見える発電所の場所には、「ユリシーズ」の時代から発電所が建っていて、当時は「ピジョン・ハウス」と呼ばれていました。「ピジョン・ハウス」は、「ユリシーズ」にも何度も登場するだけでなく、『ダブリンの市民』の「出会い」という短編にも登場します。『ジェイムズ・ジョイス事典』(380ページ)によれば、ピジョン・ハウスという名前は、18世紀にこの場所に、ジョン・ピジョンという男が、ピジョン・インという宿屋を建てたことに由来しているそうです。
また、モリーのモデルとなった、妻のノラとジョイスが最初のデートをしたのが、サンディマウント海岸らしく、そのデートの日付1904年6月16日が、ブルームズデイとされたようです。ちなみに、二人が最初に出会ったのはその6日前の6月10日で、ダブリン市内のナッソー通りを歩いていたノラにジョイスが声をかけた(ナンパした)のがきっかけだったようです。ノラは当時、フィンズ・ホテル(Finn's Hotel)の部屋係のメイドとして働いてました。
(8)パディ・ディグナムの家
サンディマウント近くのニューブリッジ通り9番地には、ブルームの友人でブルームズデイの二日前の14日に亡くなったことになっているディグナム(Paddy Dignam)の家もあります。写真正面の家の右半分が、9番地です。『「ユリシーズ」の謎を歩く』によれば、ディグナムは6月11日の土曜日の夜、近くの「海の星教会」のコンロイ神父のもとに告解に行き、12日の日曜日に酒を飲んで倒れ、13日の月曜日には、死の床で「ママの言うことを聞けよ」(第10挿話)と息子に語ってなくなったことになっているようです。第6挿話「ハデス」では、ディグナムの家を出発した葬列が、市の中心街を通って、市の北部のプロスペクト墓地に向かう道中の出来事が描かれています。

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(9)ホース岬
ロンドンから飛行機でダブリンに向かうと、着陸する直前に左手に見える半島が市の北東にあるホース岬です(下の方が黒くなったのは、飛行機の窓ガラスのせいのようです)。市内からもDARTでやはり30分くらいで行くことができます(上のマーテロ塔の地図をご参照ください)。

ブルームがモリーと初めてキスしたのが、ホース岬のベン・オブ・ホウスという丘(Ben of Howth、高さ約170m、アイルランドで、Benは山という意味にもなるそうです)という設定になっています。このことは、第8挿話「ライストリュゴネス族」でブルームが、また、第18挿話「ペネロペイア」ではモリーがそれぞれ思い出したことになっています。

この写真は、上の写真に写っている桟橋から左側(東側)の海岸線を写したものです。この半島は、リゾートエリアとなっているようですが、ベン・オブ・ホウスの頂上には、古代の石塚があり、アイルランド神話では、ベン・オブ・ホウスはフェニアン伝説に登場する偉大な戦士フィン・マックールの頭とされているそうです。この伝説上の戦士は、ジョイスの代表作の一つ『フィネガンズ・ウエイク』の名前の由来ともなっているそうです。

(10)フリーマンズ・ジャーナル社
ブルームの職業は新聞社の広告取りで、1763年に創刊され、1924年まで続いていた実在の新聞社、「フリーマンズ・ジャーナル社」で働いていたことになっています。第7挿話「アイオロス」の舞台がこの新聞社となっています。さらにこの挿話は、新聞記事のように、63の段落に細かく区切られていて、それぞれに小見出しが付けられています。

この新聞社はその後、「アイリッシュ・デイリー・インディペンデント社」に吸収されました(その後、現在日刊紙としてはアイルランド最大の発行部数を誇る「アイリッシュ・インディペンデント社」に改称されたようです)。左の写真は、アイリッシュ・インディペンデント社の本社です。「『ユリシーズ』案内」(北村富治著、宝島社刊)によれば、「フリーマンズ・ジャーナル社」の社屋は、現在のアイリッシュ・インディペンデント社の社屋よりも、ややオコンネル通り寄り(左の写真では右側)にあったそうです(同書98ページ)。
新聞社前の通りは、アビー・ストリート(Abbey Street)と呼ばれ、2004年7月から「ルアス」という路面電車(アイルランド語でスピードという意味だそうです、詳しくは、http://www.luas.ie/ などをごらんください)の運行が開始されたようです。私が訪問した2004年6月にははまだ走っていませんでしたが、左の写真を見れば分かるように、線路と架線は完成していました。

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(11)バーニー・キアナンのパブ
第12挿話「キュクロプス」で、ブルームは、『ダブリンの市民』の「恩寵」という短編にも登場したマーティン・カニンガムとバーニー・キアナン(Barney Kiernan's)のパブで待ち合わせをします。しかし、ブルームは、競馬で大穴を当てたのに、パブの常連に一杯ずつおごることもしない、というでたらめな話が伝えられたこともあって、常連の一人である愛国主義者の「市民」とケンカになり、マーティン・カニンガムにやっとのことで助け出されることになります。

バーニー・キアナンのパブがあった場所が左の写真の中央の建物ですが、現在では怪しげなサロンが地下にある、ぼろぼろの建物になっていました。ちなみに、緑と黄色の看板には、"AS YOU LIKE IT(シェークスピアの喜劇「お気に召すまま」)/ Ladies Salon / UNISEX SALON / Downstairs"と書かれています。この建物の左隣の建物の1階がパブだったので、そこがバーニー・キアナンのパブかと思って入ったところ、ご主人が、隣であると教えてくれました。この角のパブは"Cláddagh Rìng"(クラダー・リング:ゴールウェイ近くのクラダーという古い村に、何世紀にもわたって伝わるアイルランド伝統の指輪。愛(ハート)と友情(2つの手)と忠誠(王冠)の象徴として知られ、古くから親から子へと愛情を込めて譲り渡すものとして、またカップルが婚約指輪として贈り合う等の習慣がある・・・アイルランド政府観光庁日本事務所のサイトによる)という名前でした。ただ、このパブの壁には、バーニー・キアナンのパブの写真が飾ってありました(次の写真、ただし、この写真の看板には、バーニーではなく、バーナード・キアナンBernard Kiernanと書いてあります。もともとバーニー(Barney)はBernard の別称だそうです)。
この挿話のテーマはアイルランドの民族主義のようですが、ジョイスがこのテーマを扱う場面の舞台として、このパブを選んだのは、(1)ジョイスは民族主義を、酒―酩酊(めいてい、酒酔い状態)―麻痺(まひ)と結びつけているらしい、(2)近くの裁判所で多くの民族主義者が裁かれ、パブ前の通りの名前も「リトル・ブリテン通り(Little Britain Street)」と民族主義と対立するイギリスによる支配をうかがわせるものとなっていることと関係があるようです。

『ダブリンの市民』の最初の短編である「姉妹」の冒頭の部分で、少年時代のジョイスとみられる主人公が意味がよく分からないのに三つの言葉が妙に気にかかっていたことが描かれています。その三つの言葉とは、①麻痺(paralysis)、②幾何学のノーモン(gnomon、平行四辺形の一角からその相似形を取り去った残りの部分)、③聖職売買(simony、金銭等によって教会の権力、地位、祝福、赦免〔罪を許すこと〕を売買する行為)です。ノーモンはともかく、残りの二つは、ジョイスが当時のダブリンの市民を描く際の、重要な視点になっているのではないかという気がしますので、この部分を高松雄一氏訳の集英社版から引用させていただきます(一部訂正しました、英語部分は、"The Essential James Joyce, with an Introduction and notes by Harry Levin", Jonathan Cape, Londonから引用させていただきました)。

 こんどはとても助かるまい。三度目の発作だもの。ぼくは、毎晩、家のそばを通って(休暇中だった)明かりのともっている四角い窓をながめた。毎晩同じように、むらのない薄い光が窓を照らしていた。あの人が死ねば暗いブラインドに蝋燭〔ろうそく〕の火影〔ほかげ、火のかげ〕が映るはずだ、とぼくは思った。死人の枕元に二本の蝋燭を立てるきまりを知っていたから。あの人はよく言ったものだ、《わたしももう長いことはないよ》と。ぼくは繰り言だと思っていた。今になれば、本当だったのがわかる。毎夜、ぼくは窓を見上げながら《麻痺》という言葉をそっとつぶやいた。いつもはこの言葉が妙によそよそしく響いたものだ。幾何学教科書の《ノーモン》とか、教義問答書の《聖職売買》とかいう言葉と同じように。しかし、いまは何か邪悪で罪深いものの名前に聞こえる。ぼくはぞっとしてふるえ上がったけれど、それでも、そばに行ってそいつの恐ろしい仕事ぶりを見たいと思った。

THERE was no hope for him this time: it was the third stroke. Night after night I had passed the house (it was vacation time) and studied the lighted square of window: and night after night I had found it lighted in the same way, faintly and evenly. If he was dead, I thought, I would see the reflection of candles on the darkened blind for I knew that two candles must be set at the head of a corpse. He had often said to me: ‘I am not long for this world,’ and I had thought his words idle. Now I knew they were true. Every night as I gazed up at the window I said softly to myself the word paralysis. It had always sounded strangely in my ears, like the word gnomon in the Euclid and the word simony in the Catechism. But now it sounded to me like the name of some maleficent and sinful being. It filled me with fear, and yet I longed to be nearer to it and to look upon its deadly work.

『「ユリシーズ」の謎を歩く』の280―281ページにバーニー・キアナンのパブが選ばれた理由について書かれていますのでご紹介します。

スティーヴンはアイルランドを「恐ろしい渇きの島」(第3挿話)と呼び、ブルームは「居酒屋の前を一度も通らないでダブリンを端から端まで歩けというのは相当な難題だろう」(第4挿話、文庫版 I、147ページ)と思う。ダブリンの酒場は酒類販売許可のある店八百余りとその他のもぐりの店を合わせると実に千軒以上あった。そうした中でバーニー・キアナン酒場は「きちんとした酒類販売許可店」としてリトル・ブリテン通り8―10番地という場所がらか、市場や四法院や総督府からのたくさんの客が立ち寄ったらしい。四法院とのしゃれで「アピール(控訴=魅力)裁判所」なとども言われていた。また近くのグリーン通り26番地の裁判所では、1798年蜂起のシアズ兄弟、1803年蜂起のロバート・エメット、1848年蜂起のW.W.オブライエンといった具合に、多くの民族主義者が裁かれており、そうした裁判の後、この酒場では本挿話のような議論が交わさたことであろう。この酒場には裁判にまつわる遺品も数多く展示されていたとも言われている。

この挿話では、ブルームがユダヤ人であることが話題となり、「市民」などの民族主義者が、弱者であるユダヤ人を排斥するような言動をするだけでなく、最後は退散するブルームにめがけてビスケットの缶を投げつけるという暴挙に出ます。イギリスに対しては、弱者であるアイルランドの独立を主張しながら、自国内ではユダヤ人を排斥するという二面性、つまり一種の思考の「麻痺」をジョイスはここで問題にしようとしたのではないかと思います。
左の写真は、パブ、Cláddagh Rìngの店内で、入り口の右の壁に上の写真がかかっているのも写っています。左端をビール瓶を持って歩いているのが、ご主人です。昼間から、ビールを飲んでいる人がいるのは、ユリシーズの時代と同じかもしれません。

アイルランドのパブを訪問して意外だったのは、どこも清潔感があるという点です。日本でアイリッシュ・パブと呼ばれている店に行くと、どこも薄暗くて、ほこりっぽく、たばこのけむりがただよう、古道具屋のような感じがするところが多いようですが、アイルランドのパブは、全面禁煙である(この件については「アイルランドの禁煙事情と当日券でセンターコートに入れた話」をご参照ください)こともあって、入った店はどこも、きれいなところばかりでした。
これは別のパブですが、お二人とも、皮ジャンパーをいすにかぶせて、その上に座られていたのが、面白かったので写真を撮りました。
(12)デイビイ・バーンのパブ
第8挿話「ライストリュゴネス族」でブルームが、昼食(ゴルゴンゾーラ・チーズ・サンドイッチとブルゴーニュ・ワイン)をとるパブ、デイビイ・バーン(Davy Byrne's Pub)は、店の外にもテーブルが出されていて、大にぎわいでした。ここでも、Guiness を飲んだのですが、ブルームと同じものを試せばよかったと後悔しています。

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(13)アミアンズ通り駅(現在のコノリー駅)
第15挿話「キルケ」でスティーヴンとブルームが電車から降りて、娼家に向かう、アミアンズ通り駅は、現在のコノリー(Connolly)駅で、内部は改装されたとはいえ、左の写真のように、当時の建物がそのまま残っています。この写真の右側の工事中の部分は上で触れた、路面電車の始発駅を建設している部分で、完成後の写真も上でご紹介したサイト(http://www.luas.ie/ )に載っています。
駅の向かい側には、第16挿話「エウマイオス」の冒頭部分で、ブルームが口笛を吹いて拾おうとした四輪馬車が止まっていた、ノーススター・ホテルが現在でも営業しています。現在では、Regency Hotel Group に所属しています。部屋代が高かったので泊まるつもりはなかったのですが、到着当日の夜は、問い合わせたほかのホテルがすべて満室だったため、ここにも泊まることになりました。写真でも分かるように、すぐ近くを電車が走ってますが、騒音が全く聞こえなかったのが不思議でした。
コノリー駅を早朝にのぞいてみると、徹夜組の若者がベンチで寝ていました。
コノリー駅からすぐ近くのリフィ河岸は、Custom House Quay (税関河岸、右手前方の丸い屋根の建物が税関です)と呼ばれる、公園になっていました。

左の写真は公園にあった大飢饉(ききん)の彫刻です。1845年から51年のじゃがいも不作による飢饉によって、100万人が餓死し、100万人がアメリカなどに移住したと言われています。大飢饉前のアイルランドの人口は約800万人でしたが、飢饉後には500万人になったそうです。その後100年間以上も高水準の移民の流出が続き、1960年代以降、そのペースは鈍化したとはいえ1980年代になっても10年間で20万人が移住したそうです。現在でもアイルランドの人口は540万人と、大飢饉前の水準をはるかに下回っていますが、最近では好景気のため、海外から戻ってくる人も増えてきていると、先日テレビのニュースが伝えていました。

この飢饉は、天災という面と、飢饉が起こっている間も、人口を養うだけの穀物が収穫されていたにもかかわらず、穀物や家畜が英国に輸出されていたことから人災という側面もあったようです。
(11)ブルームの家
第4挿話「カリュプソ」と第17挿話「イタケ」の舞台となるブルームの家は、エクルズ通り7番地ですが、その建物はすでに取り壊され、Mater Private Hospitalという病院が建っています。
ただ、病院の壁には、ジョイスのレリーフが掲げられ、第17挿話「イタケ」からの引用も載っていましたので、下にコピーさせていただきます。その下に、文庫版 IV、 135ページから翻訳も引用させていただきます。

At the housesteps of the 4th of the equidifferent uneven numbers, number 7 Eccles street, he inserted his hand mechanically into the back pocket of his trousers to obtain his latchkey.

エクルズ通り等差奇数7番地の四段目の入口石段で彼は機械的にズボンの尻ポケットに片手を突っ込みドアの鍵を出そうとした。
病院の向かい側には、7番地にあったのと同じ作りのアパートが、当時の外観のままで残されているようでした。こちらは、偶数番地になっているようでした。

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(12)「死者たち」の舞台となった家
リフィ川の上流のアッシャー・アイランド(Usher island、リフィ河岸なのに、どうして島というのかは分かりませんでした)には、『ダブリンの市民』の「死者たち」の舞台となった家が残されており、「Bloomsday 100」のイベントの一つとして、現代絵画の展覧会が開かれていました。

「死者たち」については、「風景写真アルバム」「ゴールウェィ港の白鳥」もご参照ください。

また、この作品は「ザ・デッド―ダブリン市民」というタイトルで1987年に映画化され、日本語字幕付きのDVDも発売されています。監督はジョン・ヒューストンでしたが、この作品は同氏の遺作となりました。

この家の3階から見たリフィ河岸です。
(13)ユニバーシティ・カレッジ
ジョイスが1898年から1902年まで学んだ、ユニバーシティ・カレッジです(この建物は現在では、Newman House と呼ばれているようです)。セント・スティーブンス・グリーンという公園の南側に位置しますが、公園内の南端に近い場所には、ジョイスの像も建っています。

現在では、国立ですが設立当初は、上智大学同様、イエズス会によって運営されていました。『ジェイムズ・ジョイス事典』によると、ここで受けた教育が、ジョイスにとって重要な意味を持っていたようですので、関連部分を同書から引用させていただきます。

カトリック教会全般と、特に個々のイエズス会士に対する複雑な感情にもかかわらず、ジョイスは、彼がイエズス会から受けた教育に対しては、繰り返し高い評価を表明していた。彼は、この大学から現代語の学位を与えられた最初の一人となったが、それは『ダブリンの市民』から『フィネガンズ・ウェイク』にいたる過程で、彼の著作における中心的位置を占めるようになる、言語の探求を準備するものとなった。またより俗な意味では、ジョイスが自らに課したアイルランドからの亡命生活の最初の15年間において、この学位は、語学教師として彼と彼の家族を養う術を彼に与えた。
(14)ユリシーズのプレート
オコンネル橋の南側の歩道上に、ユリシーズのプレートがありました。すり減って読みにくいので、下にコピーさせていただきます。

Mr Bloom smiled O rocks at two windows of the ballast office.

P. 126

C&C proudly sponsored by Cantrell & Cochrane (Dublin) Limited

これは、第8挿話「ライストリュゴネス族」からの引用です(文庫版 I、379ページ)。

ミスタ・ブルームは港湾管理局の二つの窓に向かって微笑した。ちんぷんかんぷん。

この部分は、O rocks!(ちんぷんかんぷん)とo'clock を掛けているらしいということと、直前に見た「時報玉」の時間がグリニッジ標準時であるのに対して、港湾管理局の時間がアイルランド時間で、25分の差があることが分かって、微笑したかも知れないということ以外はよくわかりません。

「『ユリシーズ』案内」によれば、このようなプレートは、ブルームが新聞社を出てから、図書館に行くまでのルート上に14枚あるそうですが(18ページ)、私が偶然見つけたのは1枚だけでした。

(2015年6月22日追記:『週刊文春』2015年6月25日号の表紙に左の写真に基づいたとみられるイラストが使われました。詳しくは、「『週刊文春』2015年6月25日号の表紙はこのホームページの写真をベースにしているようです」をご覧ください。

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(15) 夜のメタル橋(別名ハーフペニー橋)
第10挿話「さまよう岩々」(文庫版 II、138ページ)ブルームは、この橋の近くの古本屋で、モリーのために官能小説を探します。

 彼はもう一冊の題名を読んだ《罪の甘い歓び》。このほうが彼女向きだな。どれどれ。
彼は指を入れて開いたところを読んだ。

――《夫がくれるドル紙幣はすべて、あちこちの店で見事なガウンや最高級のフリルつき下着を買うのに使い果した。彼のために! ラウールのために!》
うん。これ。ここは。読んでみろ。・・・

最後に、書き残したことを3点ばかりご紹介します。

(16) なぜダブリンの1日を詳細に再現できたのか

『ユリシーズ』の最後の行は、"Trieste-Zurich-Paris, 1914-1921"という添え書きであることからも分かるように、この作品はすべて海外で書かれたものです(Trieste、トリエステはイタリアのスロベニア(旧ユーゴスラビア)国境近くに位置する町で、現在の人口は21万人です。ジョイスは1905年から1915年まで、ベルリッツなどの英語教師として、この町で暮らしました)。そのため、「たとえダブリンが消滅するようなことがあってもそれは『ユリシーズ』に含まれている証拠から容易に復元できる」といった趣旨のことをジョイスが友人のバッジェンに語ったとされているほど、ダブリンの町を詳細に再現できたのはなぜかという疑問が当然生じます。

この答えの一つが、『トム編ダブリン市住所人名録』であったようです。『「ユリシーズ」の謎を歩く』によれば、この人名録はダブリン市の家庭や事業所の住所録などとともに詳細な統計資料も含み、毎年刊行されていたそうです。同書によれば、ジョイスはこのほか、パンフレットなどをダブリンの家族や親戚から送ってもらって、参考にしたようです(同書36ページ)。

(17) 映画でみるジョイス

上で紹介した「ザ・デッド」以外に、ジョイス関係の映画は、2本あります(DVDが入手可能です)。残念ながら、両方日本語の字幕は付いていません。

"Nora" 2000年、キャスト:Ewan McGregor、Susan Lynch, Peter McDonald、監督 Pat Murphy ---かなりショッキングかつセクシャルな内容ですが、事実に近いようです。

"Ulysses" 1967年、キャスト:Milo O'Shea, Barbara Jefford, Maurice Roeves ---かなり忠実な再現のようですが、このDVDを最後まで、眠くならずに見続けられる方は、よほどの英語力をお持ちの方だと思います。

(18) Joyce Industry (ジョイス産業)

現在では、ユリシーズは世界中の大学で研究されており、ジョイスと彼の作品についての最近の著作の量は、過去1000年間に生きたどの作家よりも(ということは、シェークスピアよりも)多いと、David Blake-Knox氏が、Irish Independent紙の日曜版(Sunday Independent、2004年6月13日付)で指摘しています。

この記事によれば、ジョイスも、「ユリシーズの理想的読者は、この作品を一生をかけて研究する覚悟のある人である」とか「学者たちが、数百年熱心に研究するに足るなぞ(puzzles and enigmas) が含まれている」などと語ったそうです。ジョイスの作品は、100カ国語近い言語に訳されているそうです。

2004年のブルームズデイ前週の週末に開催された「国際ジェームズ・ジョイス・シンポジウム(International James Joyce Symposium)」という研究会も、今回で第19回目となり、参加者は40カ国から800人に達し、このうち430人が論文を提出するという盛況だったそうです(The Irish Times の2004年6月17日付の Ms. Eileen Battersbyによる記事に書いてありました)。

これほどの規模になったため、ジョイス研究者グループは、Joyce Industry (ジョイス産業) と呼ばれているようです。また、ダブリンから出ていた、ジョイスとは全く関係のないツアーの参加者の半分くらいが、ブルームズデイのためにダブリンを訪れていた人だったことを、「風景写真アルバム」「タラの丘とニューグレンジ」でご紹介しましたが、ダブリンの観光という面でも、ジョイスの貢献は大きいようです。

市内地図 郊外地図 計画表 最初に

(1)から(5)までは2005年2月27日に掲載しましたが、(6)以下の内容と、地図からのリンクは2005年4月2日に掲載しました。

(2011年1月20日追記)このページの写真2枚が、2010年12月4日発売の、DVDブック・朝日ビジュアルシリーズの月刊『世界の車窓から、No.35 イギリス③・アイルランド』(朝日新聞出版刊)に掲載されました。詳しくは、こちらのページをご覧ください。

(2017年4月28日追記)『週刊文春』2015年6月25日号の表紙はこのホームページの写真をベースにしているようです」という記事を2015年6月22日に「最近気付いたこと」に追加しました。

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