問題80(経済学)の答え・・・(a. 1)回だけだったそうです。松原氏によれば「1997年以降、現実の経済成長率は1度を除き20人の予想の上限と下限に間に入ることすらなかった。まったくの的はずれだったのだ」そうです。

ちょっと信じ難い話なので日本経済新聞の復刻版で実際の上限・下限を、また、内閣府の資料に基づいて経済成長率(実質GDP、年度ベース1993年基準)の実績を調べてみました。その結果、下のグラフに示したように、松原氏のおっしゃる通り、エコノミストの予想は1年(1999年度)を除いて、「見事」に外れていました。

ただし、ここで比較したのは、2003年まで発表されていた、「1993年基準」のデータです。その後2004年12月に、内閣府は実質国民総支出系列(GDP統計)の計算方法を、従来の「固定基準年方式」から、ウエイトを毎年修正する「連鎖指数方式」に変更しました。そのため、比較した数値は現在内閣府経済社会総合研究所のホームページで発表されている数字とは異なりますが、新基準に基づく数字と比較しても、旧基準ではレンジ外だった2000年度の成長率がぎりぎりセーフで予想レンジに入る以外は、当たり外れに変化はなかったため、新基準でも7年のうち2年がレンジに入っただけでした。

これだけ、外れているのなら、普通の神経の持ち主なら、予想はできませんと言うか、「大体3%から-1%に収まるでしょう」と範囲を広げて、当たる確率を高めるべきなのでしょうが、これらエコノミストは、もっともらしい理由を付けて、2.8%などと小数点1けたまで示した予想を公表し続けているのですから、やっかいです。また、なぜその予測値になったかという理由付けも、ほとんどの場合、まともに検証されたものではなく、単なる思いこみ、または「ビジョン」である場合が多いようです。



この記事に紹介されていた、『エコノミストは信用できるか』(東谷暁〔ひがしたに さとし〕)著、文春新書、初版の発行は2003年11月)には、「ここ10年、正反対の説を唱えるに至った人〔つまり、エコノミスト〕はあまたあるが、多くは転向理由を説明していない」と書いてあるそうです。つまり、もっともらしい顔をして、でたらめを並べ立てて、間違ったら、断りもなしに平気で逆のことを言うこともいとわない連中のようです。中には、最初から正しいことを言う気のない人もいるようです。主張の一貫性がないと東谷氏に批判された、あるエコノミストは、東谷氏に「わたしに恨みでもあるのか」で始まり、次のようなことが書かれていた手紙を送ってきたそうです(同書25ページ)。

「エコノミストとして立つためには、状況を読んで方向を決めたら、声高に語気強く主張する、前に何を言ったかにかかわらず時によっては平気でうそを吐く精神力の強さも持ち合わせなければディベートに勝つことはできない

さらに、主張に一貫性のあることで知られるほかのエコノミストに、この話をしてみると、「手紙の主にかなり同情的であったのは、驚きであった」と東谷氏は書かれています。

この本には、主要エコノミストについての個人別のコメントと評価(点数とレーティング)が掲載されています。このうち、竹中氏と植草氏についてのコメントをご紹介します。

竹中平蔵氏・・・サプライ・サイド経済学〔引用者追記:不況の原因は、税制やインフレが資本や労働などの供給面を阻害していることにあるとして、減税(所得税や法人税の引き下げ)によって投資を刺激すべきだという主張〕を軸に論じ、金融緩和を激しく批判してきた竹中氏が、なぜ究極の〔引用者追記:インフレ期待を人為的に高めることによって実質金利の低下を目指す〕インフレ・ターゲット論を推進しようとするのか。ペイオフ解禁を延期したのは、いかなる意味でも許せないと批判した竹中氏自身が、さらに延期するのは矛盾ではなのか。日本の金融機関は「貸し過ぎ」だから「貸し渋り・貸し剥がし」は当然と論じていた竹中氏が、金融庁に「貸し渋り・貸し剥がしに遭ったら連絡せよ」というのはご都合主義ではないのか。あれほどIT革命を絶賛し、アメリカはバブルではないとあおったツケはどうするのか。このように、ちょっと考えてみただけでも、この人物の言論はそのとき次第で、何ら信頼を寄せるに値しない。あるのは市場供給力と市場需要力だけである(253―254ページ)。

植草一秀氏・・・財政出動を唱え続けて、一貫したエコノミストだといわれている。しかし、財政出動の中身は、必ずしも一定していない。97年には所得税と法人税の減税を主張していたが、98年6月には普通の減税では効果がないとして恒久減税を言い出し、同年9月には消費税減税に変わる。98年には公共投資も景気回復策だとしていたが、2000年5月には公共投資は成長の押し上げ要因にはならないと発言。ところが、同年10月になると公共事業についての正しい評価が必要だと論じている。財政出動の増額をすれば、株価が上がり、財政出動の規模を縮小すれば株価が下がるという「因果関係」については論じてきたが、財政出動がどのような経路で「呼び水」として働くのか、もう少し詰めた議論を提示しておかないと、95年や98年の財政出動と同じことになってしまうだろう(241―242ページ)。

ご両人についてのコメントを比較すると、植草氏の方がよほどまともな感じがします(ただし、植草氏に対する見方は「手鏡前」のものであるため、割り引いて考える必要があるかもしれません)。ご両人についてのお話はいちおうここまでにして、以下では、一般的なエコノミストについての、わたしの個人的な見方をご紹介します。

数字を扱っているのに数学に弱い

ご両人ほどのいい加減さではないものの、わたしのような理科系出身の人間からみれば、エコノミストという人種はどうも理解に苦しむ場合が多々ありますので、その例をご紹介しましょう。わたしが一番不思議に思うのは、数字を扱っているのに数学に弱いとしか考えられないケースがあることです。最初の例は、問題47(社会)答えの最後でご紹介した「誤植」の話です。『日本の経済格差、所得と資産から考える』(橘木(たちばなき)俊詔(としあき)著、岩波新書、5ページ)という本では、議論の要となっている、ジニ係数という値について、特別の欄を設けて説明されていますが、この本の中に載っている唯一の数式である、ジニ係数の定義式が間違っていて、その説明も、訳の分からないものでした。また、非常に複雑な統計的分析を売り物にしているあるエコノミストは、f(x), g(x) という二つの関数から作った、(f(x)/g(x))という関数をxで微分すると(f'(x)/g'(x))であるとレポートに書いていました(f'(x) は f(x)をxで微分した関数という意味です。高校の教育内容がわたしが高校生だった30年前と同じだとすれば、高校3年生以上の方ならどなたもご存じだと思いますが、正解は [(f'g-g'f)/g2]です)。ご両人はかなり以前に教育を受けられた方ですが、最近教育を受けられた方の場合には、もっとひどいことになっていて、問題45(教育)答えでご紹介したように、「トップレベルの大学の文系の学生10人のうち2人が小学校の分数計算ができない」そうですので、この程度は当たり前という気もしてきます。

経済学の論文は「経済学語」で書かれている

問題48(読書)答えでは、経済学の翻訳書には分かりづらい本が多いということをご紹介しましたが、経済学の論文は、普通の日本語ではない「経済学語」によって書かれているようです。日本語では名詞の単数と複数をはっきりと区別しないのですが、「経済学語」の文法では、ある単語が複数の場合には、単数形の前に「諸」を付けて、「諸価値」、「諸機関」などと表記することが多いようです。 問題48(読書)答えでもご紹介した『私の翻訳談義』(鈴木主税著、河出書房新社刊)に引用されていた、英文学者の冨山太佳夫(とみやま たかお)氏による「新グローバル英和辞典」についての『毎日新聞』(1994年9月14日付朝刊)書評の一部をご紹介させていただきます。

「valueという言葉のことを覚えているだろうか。きみたちがこの言葉の複数形を「諸価値」と訳すたびに、ぼくが、社会科学スルナと怒ったのを。名詞の複数形とみれば「諸」を付ける愚劣さ。それで英文を読んだと錯覚する鈍感さ。マルクス関係の本の翻訳に出てくる「諸価値」を「価値観」と、あるいは「価値体系」と訳してごらんよ。論旨がどんなに大きく変わり、筋が通ることか」

これは、翻訳書についての話ですが、翻訳書に限らず経済書は一般に、普通の日本語に比べて、「諸」の登場回数が非常に多いようです。

わざわざ分かりずらい言葉を使う

また、経済学書や経済関係のレポートには意図的に分かりづらく書かれているとしか考えられないような例があります。単なる思いこみ、「ビジョン」を提供するだけであるため、分かりやすく書くとぼろが出ると考えられているためなのかもしれません。最近ぶつかった例を一つご紹介しますと、日本では設備を使用し始めてからの期間のことを「設備のヴィンテージ」と言うようです。アメリカ人の日英翻訳者に、設備のヴィンテージってなんですかと聞かれましたが、海外ではこんな言い方はしないようです。ヴィンテージ(vintage)は、普通は年代物のワインに使われたブドウの収穫年、例えば「2003年物のボルドー」などと言うときの2003年のことを意味する英語です。語源はフランス語で「ブドウの収穫」を意味するヴァンダンジュ(vendange)だそうです(ランダムハウス英語辞典)。フランス語では、ワインのことをヴァン(vin)と言い、年のことは英語同様age(発音は「アージュ」となります)と書くため、この収穫年を(vinとageの間に、tが挿入されているとはいえ)vintageと言ってもおかしくない感じですが、vintageというフランス語はなく、ワインの収穫年のことは、フランス語ではミレズィメ(millésimé)と言うようです。そのため、vintageという単語は、「和製英語」ならぬ「英(米?)製仏語」のようです。「設備の年齢」と言えば済むところを、ワインの収穫年を意味する疑似フランス語をわざわざ持ち込む必要性はどこにあるのでしょうか。内容がないため、レトリック(表現法)でごますしかないのか、アルコール依存症で仕事中もワインのことが頭から離れないとしか考えられません。この言葉を使っているお役所もあるようですので、さらにあきれました。

表面をなぞるだけで満足している

一番ひっかかるのが、「実証的」という言葉です。明解国語辞典によれば、「確かな証拠に基づいて研究を進める様子」という意味ですが、私の個人的な印象では、経済学ほど「実証的」という言葉を頻繁に、しかも、もっぱら肯定的な意味で使う学問はないのではないかと思います。わたしが昔勉強した物理学では、この言葉はほとんど使わなかったと思います。おそらく、「実証的」以外の手法があり得ないという面が強いためだと思います。また、哲学の世界でも、19世紀後半には、「実証的」という言葉は、「事実として与えられている自然法則の確認で満足し、それの生成の神秘などは追い求めない態度、つまりは〔引用者追記:例えば、科学では物が存在することは証明できないにもかかわらず、そのことを前提としてるというような、否定的な意味での〕科学的態度を指すようになった」(『フランス哲学・思想事典』、弘文堂刊、237ページ)そうですが、その後、20世紀に入ると「現象学」に乗り越えられたと思っていました。ところが、経済学では21世紀に入ってもこの言葉は現役で活躍しているようです。経済学は、物理学に比較すると、確かな証拠に基づいたとは言えないような研究が多いため、「実証的」な研究は高く評価されているだけでなく、「実証的」とされる研究でさえ、哲学に比べれば、物事の表面だけをなぞること〔問題44(生き方)答えでご紹介したメルロ・ポンティが「上空飛行的思考」と名付けた段階〕で満足しているものが多いのが現実なのかもしれません。

このように上っ面だけをなぞるだけで満足する傾向があるとみられるのは、政治権力と結び付いて、一般庶民に、現政権の経済政策の正しさを信じ込ませ、安心して消費や投資をさせるという役割を経済学者が担っているからかも知れません。

2001年にパリを訪問したときに、空港から市内まで利用したタクシーの運転手はベトナム難民でした。当日はかなりの渋滞で、パリ環状通り(ペリフェリック)に入るまでに1時間くらいかかったと記憶しています。車中で運転手から聞いた話しの中で特に印象に残っているのは、中国の進出によって、世界中が不景気になっているという運転手の見方でした。なぜ、印象に残っているかと言えば、わたしも同じ考えだったためです。賃金が10分の1―30分の1の労働力が最新の工場で生産しているものを、どんどん輸出すると、その製品について、ほかの国に勝ち目はないと思うのは当然だと思います。

(余談ですが、その運転手はわたしとわたしの荷物を目的地で降ろして、代金を受け取ると、ルーフに付いているあんどん(表示灯)に緑色のビニールのケースをかぶせて、昼過ぎなのに、(渋滞のお陰で十分稼いだので)今日はもうおしまいですと、にこにこ顔で去っていきました。・・・うらやましい生活。)

こんな話をしたのは、日本のほとんどのエコノミストは、経済予想の際に、この点を避けて通っているとみられるからです。これほど明白な理由を避けて通るのは、この問題の解決は容易ではないためではないかと思います。難しい問題から、国民の目をそらさせ、それより、はるかに小さな住宅投資、設備投資、個人消費などの項目が増えた・減ったとGDP成長率の発表のたびに騒いでいるという印象を受けます。

オランダ人のジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、『日本の経済評論家や大学の経済学者は、ほとんど日経というアンプに接続されたスピーカーといえるだろう。彼らの大半の者はおそらくそれ以上のことは知らないと思う』と述べていることについては、問題38(政治)答えでご紹介しました。

「信頼をなくした経済学」

終わりに、問題文でご紹介した松原 隆一郎氏の新聞記事、「信頼をなくした経済学」の最後の3分の1程度を引用させていただきます。


経済学のこのような迷走を解説するのが、経済思想史の碩学(引用者追記:せきがく、大家) R. ハイルブローナだ。彼は、W. ミルバーグとの共著『現代経済学 ビジョンの危機』(岩波書店)で、経済学は論理と事実による「分析」だけを展開するように見えて実はそうではなく、分析以前の価値観すなわち「ビジョン」に大きく依存している、と喝破(引用者追記:かっぱ、明確に非難)する。とりわけ市場原理を重視する最近の経済学(新しい古典主義や新しいケインズ派)は個々人の合理性を論理の基礎にすえるものの、それは資本主義という社会の歴史性や現実を放棄するに等しく、それでいて政府の働きを嫌うというビジョンにだけは固執している。経済学が目指すべきは、ビジョンを否定して分析に専念することではなく、資本蓄積やグローバル化、金融フローの増大や政治権力の実態を正しく映し出すビジョンを掲げる方向なのだ。

まったくその通りだと思う。経済学は社会から遊離することで、世間を啓蒙しようとした。だがそのたくらみは裏目に出、現実には社会の信頼を失ったのだから。


以上が引用です。この本を読んでみましたが、(典型的「経済学語」で書かれていることもあって) しろうとが1度読んだだけで十分理解できる代物ではなく、経済学も結構奥が深いらしいということが最後になって分かりました。理解が深まって、新しいことがご報告できるようなことがあれば、またご紹介します(2006年11月26日)。

・問題集に戻る ・最初のページに戻る