本名=三浦智壽子(みうら・ちずこ)
昭和6年9月17日—令和7年2月28日
没年93歳(マリア・エリザベト)
神奈川県横須賀市長沢1丁目54-1 聖徳久里浜霊園タテノ地区A2
小説家。東京府生。聖心女子大学卒。三浦朱門の妻。17歳でカトリック受洗。「ラマンチャ」、第15次「新思潮」に参加。昭和29年『遠来の客たち』で注目され、以後宗教、戦争、社会問題などをテーマに幅広い作家活動を展開する。著書に『無名碑』『神の汚れた手』『老いの才覚』などがある。

これでよかったのだ。竜起は深く自然にしっかりと目を閉じた。答えがですぎてはいけない。報いられなくてもいいのだ。生涯は曖昧であるべきだ。賢こすぎる人には別としても、凡庸な人生は、わかり過ぎてはいけないのだ。わかり過ぎるということは、何よりふくよかでないし、美しくもない。竜起は目の中に小さな梨花が、とびはねるさまを見た。あれは、玲瓏と晴れた雪の田子倉だった。まだ梨花も容子も健康だったのだ。梨花は、赤いコール天のズボンをはいていた。そして人の丈よりも高い雪の壁の中で、光は上下左右どこからも親子三人の上にまろやかに降り注いでいた。
梨花か。あの精巧にできた生きもの! 人間は時々、予期できぬ輝かしい運命を与えられたり、取り上げられたりする。その中で梨花は傑作だった。
竜起はもう一度、深いひきつるような欠伸をした。アントン ブローマン。彼は何と言ったか。「それでも道はできる」と言った。あれは名言だ。誰がいなくても道はできたのだ。たまたま、或る男が、そこに居合せただけなのだ。竜起もいた。あちこちにいた。道の上にいた。道にはいつくばった。それで、いつの間にか道はできていた。
(無名碑)
幼稚園から大学まで一貫したカトリック教育を受け、17歳で受洗した曽野綾子、人生はその誕生の日からモータル(死ぬ運命)にあることを子供の時から教えられ、毎日死ぬ日のために祈っていたという。〈死ぬ運命を見極めると、逆にしたいことがはっきり見える、自分の人生の日々をどう使うか、死を覚悟してこそ自由になれる〉とカトリックの信仰に基づく人間観で、社会の様々な問題を深く洞察した作品を数多く残したが、文壇を代表する「オシドリ夫婦」として知られた夫三浦朱門が亡くなった8年後の令和7年2月28日午後2時59分、老衰のため東京都内の病院で死去した。とっくの昔にシンガポールで買って置いた、自分が死んだときに着せてもらう衣類一式は希望通り着せてもらうことが出来たのだろうか。
昭和58年、綾子の母が亡くなったのを機につくったこの墓に朱門の母、朱門の父、朱門の姉の夫、朱門の姉(分骨)、そして朱門が入った。皆九十歳前後まで長生きの家系なのだろうか綾子が〈縁あってこの世で一家を形成して生きてきたので、死後もしばらくの間はいっしょにいよう〉と考えた「理想的」という墓の墓誌には洗礼名と本名の「三浦智壽子」の文字が加えられている。山腹に拓かれた霊園の墓所、ラテン語で「神に感謝いたします」「私たちの罪をお許しください」という意味の言葉が刻された墓碑の後方に、東京湾を挟んで薄ぼんやりと房総半島が見えている。霊園からも近い三浦半島の最南端、周囲はすべて畑地で海を見下ろす丘の上の三浦家の別荘に今、人影はありやなしや。
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