星野立子 ほしの・たつこ(1903—1984)


 

本名=星野立子(ほしの・たつこ)
明治36年11月15日—昭和59年3月3日 
享年80歳(紫雲院玉藻妙立大姉)❖立子忌 
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17–7 寿福寺(臨済宗)



俳人。東京府生。東京女子大学高等学部卒。高浜虚子の次女。中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに四Tと称された。若年より虚子に師事。『ホトトギス』の代表的女流俳人。昭和5年女性を対象にした俳誌『玉藻』を創刊・主宰。句集に『立子句集』『鎌倉』『実生』『春雷』『笹目』などがある。






  

大仏の冬日は山に移りけり

昃れば春水の心あともどり

美しき緑走れり夏料理

下萌えぬ人間それに従ひぬ

朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ

しんしんと寒さがたのし歩みゆく

寒しとはこの世のことよ墓拝む

梅白くまことに白く新しく

この後は八手の花も愛で生きん

春寒し赤鉛筆は六角形



 

 高浜虚子の次女、虚子は立子の才能を高く評価していたようで、立子の手帳に「私はあなたの生涯を見ることが出来ないことを残念に思う」と書いている。女流俳人の中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とならんで四Tと称され、父虚子の提唱した花鳥諷詠、客観写生の句を基としながら、自然やなにげない日常の生活を女性らしい細やかな感性で発展させた。
 昭和45年、脳血栓で倒れて右半身不随になったが、言語障害に悩まされながらもなお、女流俳人の第一人者として歩み続けた。40代最後の年に詠んだ句に〈雛飾りつつふと命惜しきかな〉がある。華やぐ日にふと感じた不安、惑い、無常観などがそこはかと感じられる。昭和59年3月3日の雛祭の日に逝った立子の思いが髣髴とするようだ。



 

 鎌倉に来ると必ず目にし、耳にするのがとんび。ぴーひょろ、ぴーひょろと舞って、サクサクと土塊は沓形を刻んでいく。昨夜来の強風で落下したのだろうか、瑞々しい黄肌の柚が数個転がっている。
 北鎌倉・寿福寺、今日の朝陽は硬く鈍い。やぐらに座する虚子の墓と永遠の対話を楽しむかのように向き合っている「星野家之墓」は陽を背にして、くっきりとした光の稜線を映している。ゆったりと広がった碑面の暗がり、供え花が宙に浮き上がって一層鮮やかに見える。立子の誕生に際し「生レタ子ハ女ノ子。名ハ立子。親父ガ三十ニシテ而シテ立ツ子トイフ洒落也」と虚子は友人に書き送った。慈しみ、思慕した父娘は今、永遠の時を共有する。
 〈父が附けし わが名立子や月を仰ぐ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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