北条民雄 ほうじょう・たみお(1914—1937)


 

本名=七條晃司(しちじょう・こうじ)
大正3年9月22日—昭和12年12月5日 
享年23歳 
東京都東村山市青葉町4丁目1–1 全生園内全生者之墓 



小説家。朝鮮京城(ソウル)生。高等小学校卒。小学校卒業後上京、職を転々としていたが、昭和8年ハンセン病発病。9年東村山の癩療養所全生病院に入院、創作を始めた。『間木老人』で川端康成に認められ、『いのちの初夜』で文学界賞を受賞した。ほかに『癩院受胎』『癩家族』『望郷歌』などがある。






  

 「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言ふこと、解つてくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡ぴてしまつたんです。ただ、生命だけが、びくびくと生きてゐるのです。なんといふ根強さでせう。誰でも癩になつた刹那に、その人の人間は亡ぴるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、さう復活です。ぴくぴくと生きてゐる生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでゐるのです。死んでゐますとも、あなたは人間ぢやあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考へて見て下さい。一たぴ死んだ過去の人間を捜し求めてゐるからではないでせうか。」 
                             
(いのちの初夜)  



 

 昭和8年、18歳でハンセン病を発病、翌年東京・東村山の全生園に収容された。当時、ハンセン病は不治の病、遺伝的伝染病として偏見差別の対象だった。家族にも及ぶ差別を恐れて生地も本名も伏せた北条民雄。
 川端康成の推薦で発表した『いのちの初夜』で注目されたのだが、昭和12年12月5日午前5時35分、定かには明けやらぬ寒い朝に腸結核で死んだ。皮肉なことであるが、「ハンセン病」は彼に苦悩と絶望をもって文学的才能を昇華させたが、死因としては廻り込んでいったのだった。その死は夭折そのものであったが、23年の人生の僅か数年に費やしたエネルギーは死後、数万倍にもなって我々の胸に突進してくる。



 

 数十棟の病舎が建ち並び、柊垣で囲まれたこの集落を、ゆっくりと歩んでいく。迷い込んだ小径のあたりに、小さな宗教施設が固まって在り、真言宗、真宗、日蓮宗、新旧の基督教会が、それぞれ向き合って建っていた。神父に尋ねた納骨堂は、園内欅並木の大通りをつきぬけ、彼岸花の小株を傍らに、「全生者之墓」と刻まれた石柱の先にひっそりとしてあった。遺骨は父が持ち帰り徳島の郷家の墓域に埋葬されたというが、死後も故郷に骨を埋めることの出来なかった数千名の諸霊とともに、その病によって実家も本名も墓所のありかも不明とされた民雄の霊も鎮まって在るのだろうか。
 〈平成26年、親族への偏見差別を怖れ、死後80年近く伏せられてきた本名と生地・徳島県阿南市下大野町が生誕百年を機に公表された〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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