BRAZIL       〜聴くようになった理由〜


 現在、私が普段聴いているポップ・ミュージックは、アメリカ合衆国、イギリスのロック、ソウルで、時代は60〜80年代のものが殆ど。あと国内のアーティストを加えれば9割以上の占有率になってしまいます。

 そんな私ですが5年位前、アメリカ合衆国の南(こう書くだけでアメリカ合衆国は北米ということに気付く)、中南米の音楽を聴いてみたいと突如、思うようになり(この頃聴き始めていたミーターズ、アラン・トゥーサンなどのニュー・オーリンズ・サウンドに興味を持ち、更にその南の音楽を聴きたくなったのがその理由の一つ)、その一つにブラジル音楽がありました。ただ、それまでのブラジル音楽の知識と言えば、テレビで見るリオのカーニバルでのサンバや、友人から聴かされた小野リサのアルバムくらいで、名前だけでも知っているブラジル人のアーティストはセルジオ・メンデス、あとチック・コリアの『リターン・トゥー・フォーエヴァー』の中でヴォーカルものの曲を歌っていたフローラ・プリムぐらい、というのが現実でした。ついでに言えばボサ・ノヴァがいつ頃生まれたのか、ということも知らず、アンテナなどのヨーロッパでのボサ・ノヴァっぽい音楽を聴いても本物かどうか分かりませんでした。

 そのような時、ミュージック・マガジン93年9月号がボサ・ノヴァを特集してくれました。ボサ・ノヴァが生まれたのは50年代後半(57年)のリオ・デ・ジャネイロで、生み出した人物は、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ロベルト・メネスカルなどを中心とした比較的富俗な家庭に育った若い白人ということが分かりました。独自のヴィオロン(アコギ)奏法と抑制の効いた唱法を編み出し、その発表の場を探していたジルベルト、自分達の音楽を模索していたメネスカルとその富俗な友人達、そして音楽業界で何とか食っていこうと新しい音楽を探していたジョビン、それぞれの思惑が一致して、「ボサ・ノヴァ」が誕生したと。
 このように書くと何か非常に打算的な事から生まれたような印象を持たれるかもしれません。しかし、この辺のエピソードを読んでも妥協とか、駆け引きとか、そんな私のような一般民が常に突き付けられる言葉とは無縁のようでした。その辺りは、一般的にはジルベルトとジョビンが最大の生みの親とされていますが、ジルベルトをジョビンに紹介したメネスカル一派の役割というのがミソでこの金持ちの子女達がジルベルトの音楽を支持したことで、ギスギスしたところのない、貧乏臭く無いエヴァー・グリーンな音楽が生まれたんじゃないかと。だから今、私が聴いても新鮮に響くんじゃないかと。そんなことを感じます。ただ、仲間内だけでなく世に出す時の(レコード化する時の)ジョビンの苦労は相当なもんだった事は『ボサ・ノヴァ物語』(後述)にも詳しく載っています。

 このような人々の後押しも受けてデビューしたジョアン・ジルベルトのファースト、セカンド、サード・アルバムをカップリングした『ジョアン・ジルベルトの伝説』をまず最初に聴いてみました。そのサウンドを最初に聴いた印象は録音の良さからかもしれませんが、約40年前の音楽とは思えない、洒落たサウンドで一聴して気に入ってしまいました。音楽的には非常に高度なわざを駆使しているのかも知れませんが、素人の私にはそんなことを気にさせることも無く、聴き易さにも好感がもてました。この頃のアメリカといえば、ロックン&ロール全盛時代と思いますが、ロックン&ロールが若者の感情をストレートに音にぶつけているのに比べて、ブラジルの若者が作り上げたボサ・ノヴァは非常にさめた感じがしますが、そのサウンドの裏に彼等の情熱が青白い焔の様にひっそりと燃えている様な、そんな印象を受けます。

 また、ボサ・ノヴァ誕生の経緯を見ていると、比較的富俗な層の人達が関わっていたせいか、お金の匂いがしない、ある意味自由な空気を感じ取ることもできます。それでいながら、音楽的にはそれまでの既成のものに捕われず、自分達のサウンドをつくり出していったという、そんなところが、ネオ・アコ関連を通過して来た私のような世代にも共感を持つことができる理由じゃないかと思います。カウンター・カルチャーという点では同時代のアメリカのロックン&ロールより、その度合いは強いんじゃないかと思ったりもして。

 と、言う訳で私にとってのブラジル音楽というのは殆どボサ・ノヴァということになるのですが、ここ5年間で好きになった音楽の一つであります(99/8/18)


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