なりたいものとやりたいこと

何かになりたいのは、「それになりさえすれば、やりたいことが自由にできる環境を手に入れることができるだろう」と思うからである。なりたいものになって自由な環境さえ手に入れば何でもできるという考え方だ。そうだとすると、「なりたいものになって自由な環境を手に入れるまでは大したことはできない」ということになる。大したことはできない人が、なりたいものになれたらやりたいことが自由にできるのだろうか。

やりたいことが自由にできるのは自由にものを考えられるからである。頭の中が自由であれば、環境なんか関係ないのだ。やりたいことができないのを環境のせいにしていると、いつまでたっても頭の中が自由にならない。大したことができないのなら、少しでもマシなことができるようになるための努力をするしかないのである。「どうやったら自由な環境が手に入るだろう」と考えるのは、地道な努力をしたくないからだ。

小説家とかミュージシャンとか社長とか、なりたいものがあってそれになるために努力を続けていると、必ず停滞や挫折という段階がやってくるだろう。そういう時はすごくシンドくて絶望的な気分になったりする。なりたいものを考えて「それになるための」努力をしていると、停滞したり挫折したりしたらどうしていいか判らなくなってしまう。それは、「なりたいもの」が先にあって「やりたいこと」を追求せずにいるからだ。

僕は「やりたいことをやるしかない」と言ってるのだが、それは「なりたいものになる」というのとは違う。なりたいものになれるかどうかは次第だが、やりたいことをやるのは自由である。別にプロでなくても小説を書きたければ書けばいいし、音楽をやりたければやればいいし、マネジメントをやりたければ自分の生活をマネジすればいいのだ。プロにならないとデカイことはできないという場合、プロになれたとしてもそのデカイことは自分じゃなくて元々そこにあったシステムがやるだけである。

何かになるというのは他人に認めてもらうことで、やりたいことをやるというのは自分を認めることである。何かになるのは既存のシステムに組み込まれることだから、なりたいものになろうとすると自由が減ってやりたいことができなかったりもする。やりたいことをやるのは頭の中を自由にすることだから、何かになろうとするのとは反対方向の努力がいるのである。

やりたいことをやるのは、どちらかというと、何にもなろうとしないようなことでもある。なりたいものになるのが自由な環境を得ることだとすれば、やりたいことをやるのは「今の環境でできることは何か」を考えることである。今の環境で何もできないとしたら、頭の中が自由でないのだから、いくら環境が整ったとしてもやっぱり何もできないだろう。

 → やりたいこととは何か