多様な価値観が好運を生む

好運とは「ものごとが思ったよりうまくいくきっかけを得ること」である。ものごとが思ったよりうまくいくのは何か予想外のことがあるからだ。予想通りのことしか起きなくて「思ったより」うまくいくはずはない。予想外のことは偶然によって起きるが、偶然には「予想の範囲内の偶然」というのもある。偶然でも予想の範囲内であれば「思ったより」うまくいくことにはならないから、好運ではない。予想の範囲内の偶然は必然の一種である。

好運に必要なのは予想外の偶然だ。予想外の偶然があってそれが良い結果につながったら、その偶然は好運である。全く同じことが起きても、良い結果に結び付かなければ好運とは言えないし、悪い結果につながったら不運である。予想外の偶然というのが好運かどうかは結果を見ないと判らないのである。

「予想外の偶然」と「その結果」という時間的に離れたできごとを結びつけるのが「運」という概念だ。運とは偶然の価値を結果で判断する考え方である。何か良い結果があった場合に、そこから過去にさかのぼって何か予想外の偶然にたどり着いたら、それが好運だったということになる。何か予想外の偶然があった時点では好運とも不運とも言えないのだ。それを自分の力で良い結果につなげれば好運だったことにもできる。「運も実力のうち」とはそういう意味なのだろう。

ところで、予想外のことには「自分の外側からくるもの」と「自分の内側からくるもの」の2種類がある。道を歩いていてお金を拾うのは外からくる予想外で、「思いつきで料理を作ったらおいしかった」という場合の「思いつき」が自分の内側からくる予想外である。思いつきが良い結果にむすびついたら、その思いつきは外からやってきた好運と同じようなものなわけである。外からやってくる予想外は自分ではどうしようもないが、思いつきなら何とかなりそうな気もする。思いつきは自家製の偶然で、それが良い結果を生んだら自家製の好運だということになる。

思いつきの反対は「予定通り」である。考えたとおりにやろうとすると予定を立ててその通りにやることになる。そうすると予想外のことは予定を妨げる「不運」にしか見えない。だから予想外のことはなるべく避けようとしてしまう。予定通りじゃない「思いつき」なんかも実行しないようにしてしまう。予定通りを目指す場合は、偶然を避けようとするのだから好運が入り込む余地はない。

偶然が生じた時点では、それが好運なのか不運なのかはまだ確定してないのだ。それが良い結果に結びついたら好運だったことになり、悪い結果に結びついたら不運だったことになる。結果を客観的に評価すれば、好運と不運は五分五分になるはずだ。そして客観的な評価は他人から見た評価だから自分では変えることができない。では、主観的に評価したらどうだろう? 主観というのは自分で自由に変えることができる。つまり、何があっても「これは自分にとって好運だったのだ」と考えることもできるのだから、全ての偶然を好運にしてしまうことも可能だ。

でも、客観的に見て不運なことを自分にとっては好運だったのだと考えるのは自虐的で無理がある。不運なものは不運なのだ。そこで、「これは確かに不運だが、自分にとってはある意味で好運だった」と考えて、その「意味」を探すということになる。「ある意味で」は「別の価値観においては」ということである。多様な価値観を持っているほどその意味は見つかり易い。つまり、多様な価値観を持っているほど、偶然が好運である確率が高くなる。また、不運に見舞われた時には、今までとは違う価値観を身に付ければ災いが転じて福になるわけだ。

好運と不運の割合が五分五分だとしたら、偶然というのはあってもなくてもいいようなものだが、多様な価値観を身に付けることによって偶然が好運である確率は高くなる。偶然が好運である確率が高くなれば、偶然は多いほど良い。外からやって来る偶然は自分ではどうしようもないので、偶然を増やすには自家製の偶然である「思いつき」に頼るしかない。思いつきというのは、無関係だと思っていた事柄どうしが自分の中で結びつくことである。多様な価値観を持っているほど無関係な事柄を結びつけやすいので、いろんなことを思いつくはずだ。つまり、多様な価値観は偶然を生み、その偶然を好運に変える率が高いので、不運なこともあるだろうが全体としてはハッピーなはずだと言える。