才能は誰にでもある

電子書籍 「理想論」

村上龍がメ−ルマガジンで「才能とはやりたいことをやり続ける力のこと、誰にでも何かの才能はある、それを見つけるのは簡単じゃない」というようなことを言っていた。それを読んで、僕は村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる「ピンクの服を着た女の子」を思い出した。彼女は天才科学者のおじいさんに英才教育を受けていろいろな能力を身につけているのだが、主人公に向かって「人間は誰でも何かひとつくらいは一流になれる素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。」と言う。

才能とは何だろうか。それは本当に誰にでもあるのだろうか。映画「レインマン」で有名になったが、自閉症の人が記憶力などの特異な才能を持っていることがある(サヴァン症候群という)そうである。また、生まれつき目の見えない人は聴覚が優れているようだ。何かの能力が欠けている時に、別の能力が発達するというわけだ。才能というのは脳の情報処理能力が優れていることだろう。情報処理能力の合計は誰でも同じようなもので、脳の神経回路の配線の偏り方が人によって異なるのではないだろうか。配線がどこかに偏っていると、その部分の感覚が繊細になるだろう。つまり、人それぞれどこか一部の感覚が優れているということになる。

そういうわけで、才能というのは優れた感覚のことで、それは誰にでもあるのだと思う。ところが、その才能というヤツは、引き出すのが難しい。才能の根本が感覚だとすると、感覚そのものは目に見えないし他人と比べることもできないから、才能がどこにあるかよく判らないのだ。自分の感覚が優れていても劣っていても、自分にとっては「この感覚が当り前」としか思えないだろう。また、感覚が優れているとしたら、自分の行動に対する評価が厳しいので、自分にはその分野の能力が不足しているように思えるはずである。だから、自分の才能というのは判りにくい。

ある人が、他人から見れば歌がうまいのに、自分では「音程が微妙に不安定で、表現も単調だ」などと思っているとする。その人はそれだけ音感が繊細なのだが、本人は「自分は歌はうまくないが、絵はうまい」つもりだったりする。それは「耳がよくて、視覚的センスがない」というだけのことなのかもしれない。初めから「自分のやっていることは優れている」と思えるとしたら、感覚が甘いということだから、その分野の才能は無いわけだ。

本当に才能のある分野においては、自分に対していくらでも批判的になれるはずである。その批判に応えて、自分の感覚を満足させるように努力していくと、だんだんと能力が向上する。やりたいことをやるというのは、そういうことである。才能というのは感覚であって、表現能力は後から身に付けるものなのだ。だから、やりたいことをやり始める時には「ヘタだけど、やりたいからやる」という無邪気さが必要なのである。問題は上手いヘタではなく、自分の感覚を掴んでいるかどうかだ。といっても、そのためにどうすればいいのか分からないし、分かっていてもうまくいかない。結局、試行錯誤し続けるしかないのだろう。

 → 自己表現とは何か