ハードボイルドな世界

自分が考えたり感じたりしていることを他人に伝えるのはすごく難しい。他人が考えたり感じたりしていることを理解するのも難しい。我々が考えたり感じたりしていることはひとりひとり違うのだから、自分の考えを誰かに伝えるにはそれを表現しなくてはならない。表現というのは行動の一種である。行動というのは自分からも他人からも見えるので、他人と共有することができる。共有できないのはその行動についての解釈である。例えば「自分では相手のためにやったつもりなのに、相手はそう思わなかった」とか「ただ失敗しただけなのに、他人はわざとだと思った」というように、同じ行動に対しての自分と他人の解釈が違うことは多い。そういうわけで、何かを表現したとしても、その元になる考えはなかなか伝わらないのだ。

考えていることを他人と共有できないのは寂しいけどしょうがない。無理に同じ考えを共有しようとすると、自分の頭で自由にものを考えることができなくなってしまう。まわりの人と違うことを考えるのがちょっとシュールでお気楽なんだから、考えることが違っても別にいいのだ。

考えを共有するのは難しいが、解釈なしで行動を見れば大体同じように見えるはずだ。つまり、解釈なしにものを見ることができれば、見たものは他人とを共有することができるのである。解釈なしで行動を見るというのは「心理描写をせずに行動だけを記述していく」というハードボイルド小説の視点である。そこでは「自分はどういう人間か」ということを決めるのは「考え」ではなく「行動」である。「そういうつもりじゃなかった」とか「わざとだろう」という解釈をやめると、結果としての行動だけが残る。結果としての行動は他人と共有できるのだ。

ハードボイルドの主人公は解釈なしの視点を持っている。つまり、クールである。クールでありながら他人の解釈も無視できないので話がややこしくなる。クールな視点と他人の解釈の板挟みで悪戦苦闘するのがヒーローの宿命である。一方、悪役の中にもクールなヤツがいて主人公との間にある種の共感が生じたりもするが、悪役の方はただクールなだけで他人の解釈は無視している。解釈なしに自他の行動を見ることができるのは、自分を肯定している人間である。ハードボイルドの世界では自分を肯定して他人も肯定しているのがヒーローで、自分を肯定して他人は肯定しないのが悪役なのである。

自分を肯定することができればお気楽だが、我々凡人にはそれがなかなか難しい。自分だけを肯定する悪役にもなれないし、まして自分も他人も肯定するヒーローにはほど遠く、自分も他人も中途半端にしか肯定できないのだ。自分で自分を肯定できないのは結構つらいことである。それで、「自分は正しい」と思い込もうとしても、自分に対する説得力がなくて困る。我々の行動は考えたとおりにはいかないので、自分の行動というのは頭で考えると常に不完全だから「自分は正しい」とは思えないのだ。

じゃあ、正しい行動をするにはどうすればいいのだろうか...と頭で考えれば考えるほど、余計に自分の行動の不完全さがはっきりする。しょうがないので無理に肯定しようとすると、「頭で考えたことが正しければ行動はどうでもいいんだ」ってなことになってしまう。ところが「行動はどうでもいい」ということにすると、何をやってもうまくいかないのだ。何もうまくいかなければやっぱりつらい。

自分を肯定するには考えと行動を一致させなければならない。それで、「考えに基づいて行動する」のがうまくいかないとしたら、「行動に基づいて考える」ようにすればいいはずだ。行動に基づいて考えるとは、自分の行動の結果をクールに観察して何かのパターンを発見することである。それが身体で考えるということである。そのときにアタマがやるべきことは「考える」ではなく「探す」である。つまり解釈なしでものを見るハードボイルドな探偵である。スペンサーもよく言うように、自分が何を探しているのかは見つけるまで判らないのだ。

参考文献:
ロバート・B・パーカー:「スペンサー」シリーズ
村上春樹:「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」