内側の感覚が大切

我々の感覚には外向きの感覚と内向きの感覚がある。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感は身体の外にあるものに対する感覚だが、身体の内側を向いた感覚というのもあるのだ。頭やお腹やどこかの関節なんかが痛い時、我々は身体の中の何かを感じとっている。深呼吸すると身体の中で肺が膨らむ感じがわかるし、身体のどこかに力を入れれば筋肉が収縮する感覚も生じる。お腹が減った感じというのもある。そういう内側の感覚が五感と違うのは、対象が自分自身であるということだ。内側の感覚というのは自分の身体が対象なので、同じ対象を他人と共有することができない。だから、自分の内側の感じを表現しようとすると主観的になる。

我々の感覚は変化に対しては敏感だが、一定の状態が続くと慣れてしまって鈍感になる。だから、単調な生活を送っていると自分の内側の感じが掴めなくなるのだ。身体の状態が一定していることに慣れると、自分の身体の感じがよく分からなくなって、言葉や客観的的思考に偏りがちになる。ところが、身体の状態が変化するようなことがあると、言葉や客観的思考は役に立たない。身体の状態が変化して慣れない状態を経験すると、何となく変な感じになる。その変な感じを表現しようとすると「」というものが出てくるのである。

五感の対象は身体の外にあって他人と共有できるので、我々は五感で感じたことをその対象の性質として表現することになる。例えば、「空が青い」という表現は、空が「青」という性質を備えているかのような言い方だ。そういう客観的な表現は、空を見た時の感覚を共有している人の間で通じる。それに対して、「お腹が痛い」という表現は、お腹がどうしたという問題よりも「私が痛いと感じる」ということを表す。我々が内側の感覚を表現する時は、対象の性質ではなく自分の快不快について訴えるのである。その快不快を訴える主語が心である。

ところで、我々のやりたいことは快いことだろうか。やりたいことというのは、「やれたらきっと快いに違いないと思うのだが、今はまだできないこと」である。できないことをやろうとすると、慣れない感覚を経験する。慣れない感覚とは、それまで知らなかった新しい感覚である。我々が何かをやりたいのは、その新しい感覚を経験してみたいからだ。しかし、ちゃんとできるようになるまでは、身体が疲れたりプライドが傷ついたりして不快である。新しい感覚はその不快に紛れてしまってうまく掴めない。やりたいことは、最初は不快に思えてしまうのだ。

我々の心は今現在の快不快を訴えるが、それに従っていると、やりたいことができるようになる前の不快な段階を通り抜けられない。やりたいことが最初は不快に思えるのは、まだうまくできないからであって、やりたいことそのものが不快なのではない。不快に耐えて、やりたいことがうまくできるようになると、不快なことが減って新しい内側の感覚が掴めるようになる。我々は言葉で意識的にものを考えがちだが、我々の身体は言葉や意識で捉えきれないくらい複雑である。何かができるようになるのは、自分の身体の複雑なシステムを内側の感覚で掴めるようになることである。