空間論

空間というのは、「物が無い部分」のことである。物が無い部分に物以外の何があるのかというと、何も無い。我々は「この世界の中の、何も無い部分」を空間と呼んでいるわけである。ド−ナツの真ん中の「ド−ナツが無い部分」を「穴」と呼んで「ド−ナツには穴がある」というのと同じことだ。我々は無いものを「ある」と表現したりするのである。

空間というのは「何も無いこと」の別の言い方なのだから、空間を測ることはできない。「物の長さ」や「物と物の距離」を測ることはできるが、空間は物ではないので空間を測ることはできないのである。時間を測ることができないのと同じだ。時間も空間も我々が頭の中で作り上げた仮説みたいなものである。

しかし、時間や空間というものは、現実の世界の背景として存在しているように感じられる。それは、我々が頭の中で何かを思い浮かべる時には背景が必要だからだ。何も思い浮かべていない部分にも、我々の脳ミソというか神経回路が存在している。画用紙に絵を描く時に、何も描かれていない部分にも白地があるのと同じことである。

そういうわけで、我々は空間というものを感じ取ることができる。今、建物の中の部屋にいるとすると、その部屋の床と壁と天井で仕切られた空間が感じられる。壁や天井は部屋の外から来る光や音を遮っているし、我々の行動範囲も限定している。つまり、我々が今いる場所で感じ取っている空間は「我々が情報をやりとりしたり、動き回ったりすることのできる範囲」を表している。それは「世界の中で今の自分と関係の深い部分」でもある。我々の意識は「今いる空間の範囲」に広がっているのだともいえる。そして、自分がいる空間のことを「ここ」という。

自分がいる部屋に窓があって、外の景色を見ることができれば、我々の意識の範囲は部屋の外にまで広がる。その窓が少し開いていて、外の音が聞こえれば、さらに解放感が生まれる。見晴らしの良い海辺や高いところに行くと、意識がどこまでも広がっていくような気分になる。空間の解放度は我々の意識に大きな影響があるのだ。ただし、同じ空間でも、例えば窓に向かっているのと窓を背にしているのでは解放感は全く違う。景色や音に対する感覚の違いによっても空間の感じ方は異なるだろう。したがって、空間というのは人それぞれの主観によって測るしかないようなものなのだ。

 → 時間論