宗教性について

現代社会における宗教は、軽んじる人は形式的に儀式のみを行い、重んじる人は教義を絶対視するという両極端になっているのではないでしょうか。形式的な儀式とは、視覚的形式は保たれているが、我々の精神に与える本質的な効果は失われているような儀式のことです。そのような儀式には、我々は肉体的(他者から見れば視覚的)に参加するだけです。頭の中で別のことを考えていても参加したことになるわけです。

一方、教義を絶対視する場合、教義を形式的に守ることが重要であると考えるならば、精神をともなわずに形式的な儀式のみを行うことと似たり寄ったりであるとも言えます。また、その教義は文書として視覚化されているはずです。我々の社会が視覚を重視する文明社会であるために、宗教というものも形式としてとらえられがちなのだと考えられます。外部に視覚化されたものに価値を置くのが我々の文明社会の特徴なわけです。

しかし、宗教性の本質は明らかに精神的なものです。宗教が精神的な「何か」を視覚化して絶対視したり、目に見える形式だけを守ったりすれば、元の「何か」の精神的な機能は失われることになります。精神的な機能を固定的な構造としてとらえることはできないはずです。したがって、宗教というものの確固とした構造が成立する時には、逆にその機能は形骸化するのではないでしょうか。宗教の役割は精神的な救済だと思われますが、各人がそれぞれの事情において救済されるためには、宗教は臨機応変でなければならず、そこでは確固とした形式は機能の妨げになるでしょう。

ところで、宗教が表現しようとする「何か」とは何でしょうか。宗教はそれを「神」等の言葉で表します。それが「我々の意識以上の能力」「意識や言葉によってとらえきれない」「我々はその存在を直観的に感じる」というようなものだとすれば、小脳を始めとする我々の脳や身体の無意識的な機能のことだと考えればよいでしょう。小脳は無意識的能力の場であり、その本質が抑制的であるために直観的にしかとらえられないものだからです。

宗教性というものの一部は、汎用的で自律的なシミュレータである小脳の能力に関する知恵ではないかと思います。あまり意識的でない人や人間以外の動物は自分の能力に疑問を持たずに生きています。それが本能です。人間は大脳が発達したために意識を持ちますが、意識が外界と小脳の間に割り込んでいるために小脳の能力の発揮が妨げられます。また、意識は意識しているものごと以外の全てを無視するので、意識以外の能力を否定しがちです。人間が意識を持ったことの反作用として、意識以外の部分を認める傾向である宗教性というものが生じたと考えられます。