ポジティブ・シンキング

快不快という基準で考えれば、我々がやりたいのは「快いこと」に決まっているような気がする。しかし、快いことも慣れれば飽きるし、自分にできる「ただ快いだけ」なことは限られている。自分にできる「快いこと」をひととおりやって飽きると、「快いこと」は無くなってしまう。だから、いつまでも快不快で考えていると、自分のやりたいことが判らなくなる。

飽きるというのは鈍感になることである。自分のやりたいことが判らないのは、鈍感になったということだ。鈍感だから、「やりたいことをやっているのに、自分でそのことに気付かない」ということもあり得る。やっているうちに敏感になれたら、「これがやりたいことだったのか」と気付くわけである。つまり、何かが自分のやりたいことかどうかは、やってみるまで判らないし、長く続けないと判らないかもしれない。やりたいことが判らない時は、とにかく何かをやりながら新たな感覚を開拓して敏感になるしかない。

とはいっても、自分にできることを「今までどおりに」やっていたのでは鈍感になる一方である。できることというのは、慣れて飽きるぐらいやったからできるのだ。新たな感覚を掴むには、慣れていないことをやった方がいいのである。慣れていないことをやるとうまくいかないが、うまくいかないからこそ新たな感覚が刺激される。新たな感覚を開拓して敏感になったら、自分のやりたいことが判るかもしれない。

やりたいことは「慣れてないからできないけど、できるようになりたいこと」である。慣れていないのだから、最初はうまくいかなくて不快である。不快なことをやりたくないとしたら、やりたいことは「やりたくないこと」でもある。我々の心の中には「やりたい」という気持ちと「やりたくない」という気持ちが同時に存在することもできるのだ。我々の心は、何かを「やりたいけど、やりたくない」などと訴えるので、ワケがわからない。でも、「やりたいけど、やりたくない」などとややこしいことをいうのは、すごく興味がある証拠だ。興味があるのは、やりたいからに決まっている。我々の心は矛盾しているものだから、「やりたくない」という気持ちだけを真に受けると、やりたいことは判らない。

「やりたいことが判らない」というのは「やりたいことができない」だけである。できないからうまくいかなくて、面倒だし不安だし、やりたくない。うまくいかなくて不快になるのは、目に見える結果を求めるからだ。うまくやろうとすると、新しい感覚は掴めない。やっている時に自分の感覚を掴むことに集中していれば、うまくいっているかどうかなんて気にならない。そして、自分の感覚が掴めたら、うまくできるようになる。

我々が何かをやりたいのは、新たな感覚や能力を開拓したいからである。自分にできないことがあるのに気付くと、それがやりたくなるのだ。でも、うまくいかないからやりたくない。自分にできないことを発見すると、「やりたいけど、やりたくない」という矛盾した気持ちが生まれて、心の中が混乱する。そして、できないことをやろうとすれば不快になるし、やらずにいるためには「やりたい」という気持ちを抑圧しなければならないから、何となく絶望的な気分になる。

我々に与えられた選択肢は「不快」か「抑圧」である。どちらでも好きな方を選ぶことができる。どっちがポジティブかといえば、やりたいことをやる「不快」の方だ。不快を何とかやり過ごして何かができるようになれば、もう「不快か抑圧か」という酷い選択をしなくてもすむ。やりたいという気持ちは既に満たされているし、うまくできなくて不快になることもない。やりたければやればいいし、やりたくなければやらなくてもいい。不快も抑圧も無いのだから、お気楽である。しかし、同じ状態が長く続くと、やっぱり飽きる。飽きたら、また自分にできないことを探す必要がある。「自分にできないことは何か」というのをポジティブに言い換えると「自分のやりたいことは何か」になる。