エラくないのだ

我々が何かについて考えているとき、考えている物事は頭の中にある。いろんな物事について頭で考えるのがうまくなると、頭の中に世界ができあがる。しかし、頭の中の世界は現実の世界ではない。頭の中の世界は自分なりに考えてわかったつもりの物事でできているが、現実の世界にはよくわからないことがたくさんある。よくわからない現実の世界より自分の頭の中の世界の方が自分に都合よくできているので、我々は頭でものを考えがちである。だが、頭でものを考えれば考えるほど、我々は現実の世界から遠ざかり、現実の世界はよくわからないものになる。

頭の中でものを考える時、我々の視点は自分が考えている世界の外にある。世界の外から世界を眺めるのは神サマの視点である。だから、頭でものを考えていると、自分が偉くなったような錯覚に陥りやすい。偉くなったつもりにならなかったとしても、頭の中で考えたことをそのまま表現すると、神サマの視点でものを言っていることになるから、どうしてもエラそうになる。

頭で考えていると、偉くなったつもりになったりエラそうになったりするのだが、我々は現実には偉くない。そのギャップを埋める方法は、「自分は偉くないんだ」と我に返って地味な生活をするか、実際に偉くなるかである。人間には未来の可能性というものもあるので、普通は多かれ少なかれ「偉くなってやる」という方向にいく。では、偉いというのはどういうことだろうか。

偉い人は自分の意見が通るので、いろんな意味で「自分がやってもらいたいこと」を他人にやらせることができる。偉い人の意見が通るのは、他人に認められているからである。他人に認められるためには「他人がやってもらいたがっていること」をやらなくてはならない。要するに、偉くなるためにも、偉くなってからも「自分のやりたいことを自分でやる」ということをやるわけにはいかないのである。

そういうわけなので、自分は偉いのだという錯覚と現実とのギャップを「実際に偉くなる」という方向で解決しようとすると、自分のやりたいことはできなくなってしまうのだ。頭でものを考えていると、どうしてもそういうことになるのだが、いつか我に返って「自分のやりたいことは何だろう」という疑問が生じる時がくる。しかし、そんなことは頭で考えてもわからないので困ってしまう。困れば困るほど余計に頭で考えてしまうが、そうすると話は最初に戻る。

自分のやりたいことというのは、よくわからないものである。「やりたい」のはカラダなのだから、「やりたいことをやる」というのは「身体が考えて身体がやるもの」なのだ。自分が何か面白いことをやっているのに気付いて「これが自分のやりたいことだったのか」と後からわかるのである。最初からよくわかっていることなんか誰もやりたくないのだ。

「自分のやりたいことをやる」のは身体が感じていることを自分の行動に結びつける作業で、それは一種の身体技能だからアタマが割り込むとうまくいかない。どんな行動でも意識するとうまくいかなくなるものだ。「自分のやりたいこと」は頭でわかってからやるというわけにはいかず、よくわからないなりにやってみるしかないのである。よくわからないなりにやるためには、謙虚さが必要だ。