視点はどこにあるか

僕が勤めている会社の創業xx周年の記念品として配られたカメラを5才になった息子に使わせることにした。息子は喜んでいろんなものをぱちぱちと写していたが、写真ができてみると意外にちゃんとした構図で撮れている。大人が撮るよりずっと視点が低いのが面白いし、撮るのが子供だと撮られる人の表情もなんとなくリラックスしている。それらの写真を見れば、息子本人は写っていないにもかかわらず、撮りたいものを気楽にとった息子の視点がちゃんと判るのである。写真というのは写した人の視点を間接的(暗黙的)に表現するものなのだ。

できあがった写真を見て、息子もそのことに気付いたようだった。それまでは、写真を見たらそこに写っているものにしか関心が無かったのに、自分で写してみて「写真に写っているのは誰かの眼から見たものなのだ」ということを実感したのだろう。もちろん、そういう風に言葉で考えたのではないだろうが、それからしばらくしてテレビでウルトラマン・ガイアと怪獣が闘うシーンを見ていた息子は「これウツシてる人は怪獣にやられへんのかなあ」と言った。

映画やテレビドラマの各場面を「これは誰の視点から見た映像なのか」という見方で見ると、そのフィクション世界は崩れる。そこに描かれている世界に、その視点から見ている人物はいないはずなのだ。映画やテレビドラマ(アニメーションでも同じことだが)の全ての場面で、いないはずの人物の視点が表現されているのである。つまりフィクションの世界では、見えない人物が世界全体を見ていることになる。それは要するに神様の視点である。カメラという神の視点はフィクション世界に無いことにしなければならないので、映画やテレビドラマでは「カメラ目線」は避けられることになる。

フィクションの世界において、その世界を描写している人物の存在は「無いこと」になっているが、そうすると、その作品は神話になってしまうのだ。神は世界のどこにでも存在することができるので、神話は世界全体を描くことができるが、その視点にはリアリティがない。例えば、SF映画で宇宙空間に固定された視点から見た場面の映像は、一体だれが見ているのだろうか。そう疑問に思った途端、その場面の細部がどんなにリアルに描写されていようとリアリティは無くなる。

フィクションにリアリティを求めてもしょうがないのだが、リアリティは表現としての説得力に関わる問題だ。フィクション世界を描写する視点にリアリティを持たせるには、視点を1人の登場人物に固定すれば良いが、映像表現でそれをやるとすごく狭い視野でしか世界を描けないのでそういうことはあまりやらない。したがって、フィクション映像の説得力はリアリティとは別のところにある。リアリティとは別の表現だから、それは比喩として何かを暗示することである。視点のリアリティを捨てたのは世界の全体を描こうとしたためだから、そこで暗示されるのは作者の世界観である。

文章表現でも全く同じで、客観的視点から三人称で書かれたフィクションは世界全体を描こうとする神話の形式を持つと言えるが、小説には1人の登場人物に視点を固定して一人称で書かれたものもある。一人称の小説では、語り手の知っていること以外は描けないので、世界全体を描くことができない。三人称小説の語り手はその小説内世界のことは何でも知っているので世界の全体性を描くことができる。この違いは身体の有無によるものだ。一人称小説の語り手は小説の登場人物でもあるので小説世界内において身体を持っているが、三人称小説の語り手は登場人物ではないので身体を備えていない。

身体の有無は世界との関わりの有無でもある。一人称の語り手は身体があるために世界の全てを知ることはできないが、その代わり世界に働きかけることができて、その反作用も受ける。そこには実感という意味でのリアリティがある。一方、三人称の語り手は身体を持たないために世界のどこにでも視点を置けるから世界全体を知っているが、その世界と関わりを持つことはできない。

我々は現実の世界において身体を持っているので、三人称の視点にはリアリティがない。我々にとってリアリティがあるのは一人称の視点である。しかし、一人称の視点では世界全体を描くことはできないので語り手にとっての世界は未知である。語り手はその世界に働きかけ反作用を受けるので、世界は探究の対象であるともいえる。そのようにして探究しても、語り手は決して世界の全てを知ることはできないので、無力感を抱いているだろう。無力感を抱きながらも探究を続けるのだから、そこには希望のようなものが暗示されていることになる。

 → 認識と表現